04


生活のなかにたったひとつ、今までと違うものが入り込むだけで世界はこうも変わるのか。夜道を歩きながら空を見上げる時間が増えた。

誰かとぶつからないようにきちんと立ち止まって、あれがアルビレオ、と舌の上で発音する。小学校・中学校の授業で習った星座のほとんどは既に記憶から消えているが、有名どころのみかろうじて覚えていた。
あの頃は星空に興味を持つ人間が自分の周りに一人もおらず、こうして実際にどの星がどこにあるのかを目視するのは初めてだ。
あれが、アルビレオ。覚えておかなければ、彼女の言うところの「ロマンチック」な星として。


「北さん、北さん」


ふと呼ばれたのは練習が終わり、掃除と片付けを始めようかという頃。声のほうを振り向くと、侑が換気のために体育館の戸を開けたところだった。


「白石さんです」


そして、俺が近づくと外を指さしてこう言った。
白石さんは最近このあたりで天体観測をしている女の子。今日も居るんだろうなとは思ったが、どうして侑はわざわざ俺に報告してきたのか。


「…俺、呼ばれてんのか?」
「や、呼ばれてません」
「じゃあなんで呼んでん」
「え…だってここ数日様子見に行ってるやないですか」


今日も声かけに行くんやと思てました、と侑。
確かに姿を見つけたら一声かけようと考えていた。約束しているわけじゃないけど、なんとなく習慣になりつつあるというか。
侑はあの件があってから白石さんとはゆっくり話していないらしく、望遠鏡の事を気にしているようだった。


「もうアレ直ってました?」
「ああ、直ってる」
「はあよかった…」


直っているというか、壊れた三脚を付け替えただけなのだが。もう古かったから弁償も要らないという言葉に甘えているのである。下手をしたら何万円もする代物を買い換えなければならなかったので、侑は相当安心したようだ。


「…侑、アルビレオって知ってるか?」
「アレル…レロ?あかん言われへん」
「アルビレオ」
「ア、ル、ビ、レ、オ」


言えた、と侑は嬉しそうに笑った。しかし、そのアルビレオが何なのかは知らないらしい。俺は先日得たばかりの知識を侑にお披露目する事にした。


「えーと…あ、あった。アレやねんて。あそこの一番明るいやつ」
「星ですか」
「そう」
「へえ…?」


侑は素直に空を見上げて、俺が指さした星を目を凝らして眺めている。白石さんにアルビレオのことを教えて貰った時の俺も、こんな感じに見えていたのだろうか。


「アレ、いっこの星に見えてるけど。ほんまは隣り合うふたつの星があるらしいわ」


侑が星に興味があるのかは分からないが、星がふたつ、と伝えてみると「へえ、分からんかったぁ」と目を丸くした。
俺は侑がどんな反応をしてくれるのだろうと思って見ていたが、やっぱりどの表情をとっても治にそっくりだ。そっくりなのにふたつの個体はそれぞれ別物。生命の神秘である。


「なんかお前と治みたいやな」
「……はあ」
「今ちょっとクサイ思ったやろ」
「いやっ、」
「ええねん俺も思った」


何言うとんねん俺、と自分に突っ込んでしまった。そんなロマンチストでもないくせに、白石さんの考え方が移ってしまったかも知れない。


「北さん、そういうの興味あったんですねえ」


侑は俺を馬鹿にするでもなく引くでもなく、感心したように言った。


「そうやなあ…」


興味あったというか、最近興味がわいたというか。その原因がひとりの女の子だというのを他人に洩らすには、まだ早い。





侑の言うとおり、いや、たとえ侑に言われなくても声をかけるつもりだった俺は全ての片付けが終わってから白石さんのもとへ向かった。

もう遅いから居なければ居ないで良かったのだが、しっかりとその場に居るもんだから溜息が出る。熱心なのはいい事だと思うけど。お陰でこうして、「居た」という事に気分を良くする俺なんだけど。
足音に気付いた白石さんは顔を上げると、俺の姿を見て瞬きを繰り返した。


「あっ、北先輩」
「遅くまですんな言うてるやろ」
「すみません、つい…」


本当に「すみません」とは思ってないかも知れないな、俺は部外者だし。うるさい上級生がまたなんか言うてきた、くらいにしか思ってないかも。


「まあええわ。ちゃんと送ったるからなんか話してくれん?」


でも白石さんから星の話を聞くのは耳ざわりが良かったので、そのように頼んでみた。が、 目玉が飛び出そうなほどビックリされてしまった。


「……え!?」
「なに」
「いや、…そんな、私ひとりで帰れますんで…毎日悪いです」
「ええから。壊したお礼やんか」
「でももうコレ、脚付け替えて直ってますから」


天体望遠鏡を指す白石さんを見て我に返る。
そういえばそうだった。最初に彼女を送った時は三脚を壊したお詫びに、と言っていたけれども、これで「送る」というのは三度目だ。嫌がっているのに俺がしつこく「送らせて」と頼み込んでいるようにも聞こえる。ストーカーみたいやん。


「…迷惑やったら帰る。」
「いやいや迷惑ちゃいます!ちゃいますから」


白石さんは帰ろうとする俺を慌てて止めた。建て前かも知れないけどホッとした自分が居る。ここに居ることを許してくれるなら、ぜひもっと聞かせて欲しい。


「…やったら、なんか話して。昨日みたいに」
「なんか、とは…」
「俺が知らんような星座の話」


俺は授業で習った星座のことならなんとなくは覚えているが、神話とか、教科書以上のことは何も知らない。今まで全く知ろうとしなかったからだ。知る機会も無かった。
白石さんの声は他人に何かを語りかけるにはちょうど良い高さとテンポで、もっと聞いていたいと思わせる不思議なものだった。


「…ほんならお話しますね、これでも星のソムリエなんで」
「へ?」
「あるんですよ、そういう資格が」


ソムリエって、ワインとか野菜とかそういうものにしか無いと思っていたが。造語みたいに聞こえてしまったがどうやら本当に存在する資格らしい。聞くところによると年齢性別問わず取れるのだそうだ。


「…知らん事がいっぱいやなあ、世の中…」
「北先輩って大げさですねえ」


白石さんは控えめに笑うと、星空を見渡した。どの星について話をするか考えている様子だ。


「有名なやついきますか?あれ、カシオペヤ座です」
「あー、あれが…」


アルファベットのWの形に見えるその星座は有名なのですんなりと頭に入った。でも実際の空の中から見つけるのは、やはり彼女の案内がないと難しそうだ。
続けて説明しようとする白石さんはポケットの中を漁り、何かを取り出すとそのスイッチを入れた。


「で、あの星が…」
「うおっ」


と、言うが早いか突然空に緑色の細い光が現れた。白石さんの持っている「何か」から光の線が出て星空でもくっきりと見えている。それにビックリして思わず視線を彼女の手元へ落としてしまった。


「すご、なんやそれ」
「便利でしょ」
「びびったわ。ビームやん」
「そうそうビーム!」


彼女いわくレーザーポインターと呼ばれるもので(名前もちょっと格好よくてそそられた)、数千円で手に入るのだそうだ。プラネタリウムならまだしも、実際の夜空で人口の光の線を使って「この星」「あの星」と説明できるなんて驚きだ。


「すっごいなあ…」
「こっちのが興味あります?」
「あるある。ちょっとやらして」


白石さんにビーム、もといレーザーポインターを借りて自分の手で星空に光を指してみた。さっき教えて貰ったカシオペヤ座、あっちが昨日教えて貰ったアルビレオ、と動かしていくのが何だか楽しくてハマりそうである。


「あかん。おもろいコレ」
「はは」
「めっちゃ気に入った」
「ほんまですか?」


おもちゃを与えられた子どもみたいだなと我ながら思う。男はいつまで経っても新しいものを見ると心が躍るのだ。
ひととおり楽しませてもらったあとでビームを返すと、受け取りながら白石さんが言った。


「今日も北先輩来るかなあ思て持ってきたんで、よかったです」


思わず瞬きと息と、手が止まる。
俺が来なかったら出す予定は無かったということか。俺が見たら喜ぶだろうと思って持って来たということか。それは自意識過剰?でも、そんな事を俺の脳裏に過ぎらせるだけで充分な効果だった。意図的な台詞なのだとしたら、良くない、と思う。


「…そういうのは、あかんと思うんやけど…」
「どういうのです?…あ」


ちょうど白石さんの携帯電話から通知音が鳴り、そこで会話は途切れた。もし何も音が鳴らなかったら白石さんは、何と答えるつもりだったんだろう。それはもう知る由もない。
やがて届いたメッセージを読んだ白石さんは目をぱちくりとさせた。


「おかあさん早ッ」
「帰ってくんの?」
「ハイ。仕事はよ終わったらしいです、帰らんと」


どうやら、いつもはもう少し遅い親が早めに帰宅してくるらしい。荷物をまとめて片付け始めた白石さんに俺は「駅まで送る」と言ってもいいものか。このまま「じゃあこれで」と別れるべきか。


「片づけてきますね」


しかし、白石さんが俺に向けてそう言ってくれたお陰で、俺は今日も彼女を送り届ける権利を得たのだと理解した。


「…俺も。着替えてくる」
「はい」
「校門でな」
「はあい」


本当に急いで帰るべきなら、俺の着替えなんて放っておいてさっさと帰るはずだよな。
もしも俺のことが鬱陶しいなら、俺が来るかも知らないからとレーザーポインターを用意しておくわけは無いよな。
久しぶりに答えの分からない難問に悩まされるはめになった。

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