02幼稚園のとき道端で転んだ俺に手を伸ばしてくれた近所の高校生は、それはそれ勇ましく立派に見えたものだった。
それがどうだ、自分が高校生になると胸を張れるような人間でもなく、とうとう同じ部活の後輩が暴れたときに他人の物を壊してしまった。帰りみちで空を見上げてみても解決策を教えてくれるものは居ない。
自分でどうにかしろってか、そうやんな。
「星とか興味あんねや?」
翌日の昼休み、天体望遠鏡とはいったいいくらで売られているものかインターネットで調べる事にした。生徒が使用できるパソコンに向かって検索していると、ちょうど近くを通りがかった同級生に声を掛けられる。
「あー、まあな」
「望遠鏡ってピンキリやろ?どんなん欲しいん」
「今は見てるだけ」
「やっぱビクセンやんなあ」
聞き慣れない単語であったが、天体望遠鏡で検索してみると確かに大手メーカーとしてその名が挙がっているようだった。
そこで初めて金額を見た時に目玉が飛び出しそうになった、めっちゃ高いやん。こんなもんあの双子に払えるんか。
同時に冷や汗がたらりと流れるのを感じた。こんなに高価なものを壊してしまったのかと。高校2年の女子が持っているという事は親の私物、または小遣いを何年間も貯めてやっと購入したもの、それか誰かにプレゼントされたもの。
どんどん周りの音が聞こえなくなった。最悪や。あいつらマジでぶっ飛ばす。
「治」
放課後に部室で見かけた治を呼ぶと、ぎくりと肩を揺らせた。それから俺のほうを振り返るまでに数秒間。呼ばれた理由はなんとなく察しているようである。
「…はい」
「昨日のあの子、同じ組か?」
「や…去年同じでした」
「そうか」
ちなみに今年の白石さんは何組なのかを聞くと、確か5組や思います、と返ってきた。名札に書かれた組をきちんと覚えておけば良かったか。
「天体望遠鏡ってなんぼする思う」
「え」
続けての俺の質問には、治はすぐに答えを出せない。俺も今日の昼までは一切知らなかったのだから当然だ。しばらく悩み抜いたあと、治は予想を言った。
「……2万とか?」
「安けりゃな」
「ええっ」
「ま、あの子のアレがなんぼするやつかは知らんけども」
安ければ数万円、高ければキリがない。大きさからして数十万円もする物では無いと思いたいが、どちらにしても万単位の高価なものには変わりない。
「…ほんまにすんません」
「ええねんもう、俺が注意すれば良かってんしな」
とは言ったものの双子が弁償しきれなかった場合は俺の自腹か、どうするか。こんな情けない事を監督に報告したくもないし、どうにか出来ないものだろうか。
◇
そのまま午後の練習が終わり、体育館内では片付けが行われていた。何面かネットを張っているが大勢いる部員が手分けをするので、用意も片付けもあまり時間はかからない。
「治!」
「なんや」
そんな時、侑が相方の名前を呼んだ。治はなにか良くない言葉でも飛んでくると思ったのか無愛想な返事だったが、どうやら違うらしい。侑が体育館の入口から外を指さした。
「白石さん居てるわ」
昨夜彼らが被害を与えてしまった女の子の名前が聞こえて、俺もぴたりと立ち止まる。侑がひょこりと顔を出して、あ、と口にした。
「ほんまや」
「ほんまに?」
「わ、北さん」
知らない間に俺が後ろから覗いているのに驚いたらしく、侑はぎょっとしていた。
俺の接近に気づいていた治は外のほうを指さして、白石さんの居場所を教えてくれる。体育館から少し離れた倉庫の脇で、天体望遠鏡を覗き込む女の子の姿があった。
「…あれ使えてるんかな」
治が言った。確かに昨日の衝撃で三脚は折れてしまったし、望遠鏡の部分も地面に落ちたので問題なく使えているのか心配だ。
「聞いてくるわ。お前ら片しとれ」
「うす」
靴に履き替えて外に出ると、すっかり空は紫がかっていた。吐いた息が白くなるほどではないものの肌寒く、秋の終わりを感じさせる。体育館のこちら側は倉庫以外に建物が無いので風通しも良く、いっそう涼しく感じられた。
「白石さん?…やんね」
「わっ」
突然話しかけられたことに驚いた彼女は、覗いてた望遠鏡から勢いよく顔を上げた。かなり集中していたようだ。
「あ、ごめんな」
「いいえ…えーと…」
「北」
「あー…せや、北先輩」
昨日はどうもと頭を下げられたので、こちらこそどうもと会釈を返した。彼女の横には昨日地面に転げていたのと同じ天体望遠鏡が、三脚にきちんと立てられている。
「それ、もしかして直った?」
尋ねてみると白石さんは望遠鏡を振り返り、こくりと頷いた。
「そうなんです、脚が折れただけやったんで。本体のほうは無事でした」
不謹慎ながらとても安心した。天体望遠鏡は壊れていなかった。ということは弁償の必要が無い。双子の財布は勿論のこと、俺の財布も無事だ。
「なんや…そっか…よかった」
「すみませんでした」
「いやいや悪いんはこっちやし…。その脚ってすぐ直るもんなん?」
今夜はしっかりと地面に立っている三脚。俺はカメラもデジカメや携帯電話でしか使った事がなく、三脚なんて家には無いので、意外と簡単に直るものなのかと思い聞いてみた。
「昨日のやつは完全に折れてもうたんですけどね。たまたま家に替えがあったんです」
「替え…」
直ったのではない。やはり三脚部分は壊れてしまったらしい、全く安心出来ないではないか。
「ほんまに申し訳ない…」
「いいですって」
「よおないわ、またあいつらにもちゃんと謝らすから」
「そんなん平気ですよ、昼間謝りにきてくれたんで」
それは知らなかった。侑も治もそんなことは一言も言っていなかったが、きちんと改めての謝罪をしたらしい。彼らを少々見くびっていたようだ。
「…そか」
「はい」
やからもういいです、と白石さんは再び天体望遠鏡を覗きこんだ。
そのあと観測する方角を探すかのように身体を起こし、星空を見上げる。つられて俺も顔を上げると、予想よりもはるかに多くの星が見えていた。学校からでも結構見えるものなんだな、と感心したくらいだ。
「いっつもこんな時間まで見てるん?」
少々首が疲れてきたので顔を戻しながら聞くと、白石さんは頷いた。
「時期によります、寒い時はさすがに難しいです」
「やんなあ」
「けど秋とか冬のほうが空、きれいなんで…」
だから寒いのを我慢して、こうして観測しているらしい。ご苦労なことである。
しかし見たところ白石さんは防寒対策が充分では無さそうだ。それを指摘するかどうか迷っていた時、白石さんはぶるっと肩を震わせて言った。
「…でも今日はぼちぼち帰ろう思ってます」
「家近いん?」
「芦屋です」
いい場所に住んでいる。学校からは近くないが遠くもない場所だ。確か一度だけ乗り換えが必要だったろうか。
「わかった。ほんなら待っといて、こっちもう終わらすわ」
「え?」
「駅まで送ってく」
「ええ!?」
白石さんは昨日今日で一番の大きな声を出した。そんなに驚かれるような事でもないと思うのだが。この子は女の子だし、時間も遅い。
「もう暗いし、せめてそのくらいするわ。三脚壊したお詫び」
「でも…」
「15分後に校門」
部活の後輩でもないのに少々強引だったかなと思ったが、彼女は最終的に「はい」と承諾してくれた。
◇
15分後と指定したものの、部室に向かって着替えてからあれこれと部員に指示しているとあっという間に時間が経ってしまった。
部室の鍵をアランに頼んで先に出て、白石さんを待たせている校門へと急ぐ。ぎりぎり15分だ。
「遅なった、ごめん」
「あっ、ども」
校門前では白石さんが手をすり合わせながら待っていたが、俺の到着と同時にそれを止めた。寒がっていたのを悟られないようにしているのだろうか?待たせずに帰らせたほうが良かったかも、と少しだけ後悔した。
合流してそのまま最寄り駅まで歩き始めると、街灯がふたりの姿を照らして長い影がふたつ伸びた。その影に目を落としながら、俺はあることに気づく。白石さんの荷物が予想よりも少ないことに。
「望遠鏡は?」
「ああ…あれは重いんで、体育館の近くにある倉庫に入れさしてもらってます」
「あー、なるほどな」
さきほど天体観測をしていたすぐそばに倉庫がある。確かにあれを毎日家から持参し、いちいち持ち帰るのは大変そうだ。
白石さんはその会話を終えると、前を向いてひたすらに歩いていた。彼女から口を開きそうな様子は無い。俺もあまり話題が無い。
べつに会話がない事は構わないのだが、隣にいる彼女は明らかに緊張しているようだった。よく考えたら親しくない男の上級生と二人きりなのだから当たり前か。
「……なんかごめんな。逆に気ぃ遣わせてるやんな」
「いや…」
「全然気にせんでええよ」
と言ったものの、白石さんはちらりと俺のほうを見ただけですぐに前を向いてしまった。威嚇しているつもりは無いのだが。
「けど、バレー部ゆうたら凄い人らやし…侑くんに聞いたんです、北先輩は主将なんでしょう」
「ああ、うん」
「そんな人の手、わずらわしてもうて」
なるほどそれが理由か、と理解した。我ながらバレー部の影響力・存在感は学校内でも最大規模を誇ると思う。が、それとこれとは話が別だ。
「わずらわす言われても…そもそも治と侑のせいやん」
「んんー、確かに」
「ついでにもう暗いし、俺も方角はこっちやし。なんも不都合ないで」
ただ単に、同じ方向に一緒に歩いているだけだ。互いに遠回りはしていない。だから何も気にしないでほしい、という意味で伝えるとやっと白石さんは小さく頷いた。
「うちの学校、天文部なんかあったっけ?」
なんの脈絡もなくこんな質問が浮かんだ。
生徒数の多い稲荷崎は部活の種類も結構多いし、毎年新たな部活が出来たり廃部になったりしていると聞く。確か天文部は俺が入学した時には無かったので、新しく立ち上がったのだろうか。
「ないですよ。同好会です」
「何人くらいおんの?」
「ひとりです」
「嘘やん」
「あははっ、ほんまです。笑けるでしょ」
「いや、笑わんけども」
天文部、ではなくて天文同好会だったらしい。しかも人数は白石さんただひとり。聞いてはいけない質問だったかと冷や冷やしたが、彼女はあまり気にしていなさそうだ。
「まあ同好会ゆうても、私は星見んのが好きですから。学校で趣味やらしてもらってるような感じです」
「ふうん…」
天体望遠鏡を持っているくらいだから、好きなのだろうとは思うけど。ひたすらひとりで眺めて楽しいもんなのか。見上げたって空からは何も返ってこないし、なんの情報や助けも与えてはくれないのに。
「ほんならこっから電車なんで」
「おう。気を付けて」
「はい」
駅前で白石さんと別れて、俺は近くのバス停へ歩いた。
道すがら空を見上げると、駅周辺が明るいせいかあまり星が見えない。あの子は幾千の星の何を見て、どう感じているのか。そもそも何のために観測しているのか。単に好きだから?そこから何か得られる情報は?
明日ももしあそこに居るのを見つけたら、その時もう少し詳しく話を聞いてみよう。
あったりなかったり
するカミサマ