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つい先日、久しぶりに強い台風がやって来たこの土地も本日は雲ひとつない快晴だ。このところ気温はぐんぐん上がり、練習でも試合でも体力を奪われるので水分補給は欠かせない。夏のインターハイ出場権を獲得した白鳥沢のバレー部は、気温や湿度の上昇にはお構いなしの練習が続いているが、文句を言う者はいなかった。

そんな中、根を上げてしまったのは部員たちではなく体育館の電気系統だ。監督は文句を言っていたけど電気の故障はどうしようもなく、屋外で出来る事も限られているので、今日は午前中で解散となってしまった。
これは何かの運命だったのかも。ちょうど一年前の今日、このように青空の広がる炎天下で、俺の祖母は帰らぬ人となったのだ。


「ひさしぶり、おばあちゃん」


一周忌の今日は、実家では朝から法要が行われていたらしい。俺は元々練習で行けなかったけど、墓参りに来てみると既に家族が花を添えた形跡が残っていた。
練習ばっかりしやがってと責められたりはしないが、俺が行かない事を良くは思っていないかも知れない。でも祖母はきっとそうじゃないのだ、俺がやる事すべてを何も言わずに応援してくれたのだから。


「今日あっついなあ」


当然だけど墓石からの返事は無い。祖母に向かって話しかけたわけじゃなく、別の人物に言った言葉だ。その人物は俺の背後で合せていた手を解いて顔を上げた。


「最高気温、29度って言ってたよ」


白石さんは今朝の天気予報を見ていたらしく、あまり知りたくなかった気温の情報を教えてくれた。数字で聞くと更に暑く感じてしまうからだ。

どうしてふたりでお墓の前に立っているのかと言えば、いろいろな偶然が重なっている。ひとつは先述のとおり、体育館が午後一杯使えなくなってしまい俺の練習が無くなった事。ひとつは白石さんのおばあさん、つまり本田さんも同じ墓地にお墓が建てられている事。もうひとつは、「明日、お墓参り行かない?」と昨夜のうちに誘われていた事。


「29かあ…もうすぐ真夏日だな」
「こんな気温の中練習してたら大変だよね?ラッキーだったね」


そう、ラッキーなのかアンラッキーなのか練習が出来なくなってしまったので、昨夜は一度断ったお墓参りに「行ける事になった」と連絡をして一緒にここまでやって来たのだ。
まずは奥のほうにある俺の家のお墓に来て、久しぶりの挨拶を行ったところ。白石さんは日焼けを気にしているのか長袖を羽織っているので、俺の体感よりも更に暑そうに見える。


「…俺はもういいや。行こ」
「ほんと?もうちょっとゆっくりすればいいのに」
「インハイ終わったらまた来るつもりだから」


それに、今日はもともと本田さんのお墓参りに行く予定だったのだ。あれから俺はどんどん練習が忙しくなり、有り難い事に宮城県の大会では優勝を修める事ができたのでこうしてゆっくり外出する時間なんて無かった。今日は本当に色んな事が重なって、このような状況になっている。


「うちのおばあちゃんはあっちだよ」


白石さんの誘導するとおりに後ろを歩き、足場のあまり良くない道を進んでいく。俺はスニーカーだけど白石さんはちょっと歩きづらそうだ。


「それ、持とうか?」


右手に持った大きな紙袋のせいで、でこぼこした石の階段を下りるのが大変そうに見える。
白石さんは「いいよ」と首を振ったけど、さすがに目の前で女の子が転ぶのは見たくないので持たせてもらう事にした。本人には言えないけど、白石さんは運動神経とかバランス感覚が良くなさそうだし。

身軽になった事で白石さんの階段を下りる足が軽快になっていく。本田さんに会えるのが嬉しいのかなと思うと微笑ましいけど、余計に転んでしまう可能性が増えたもしれない。


「ここだよ」


ひらひらと揺れるラベンダー色のスカートに誘われて、言われたとおり曲がった先に本田さんのお墓があった。すぐ隣には別のお墓。こちらも苗字は「本田」さんと書かれていた。


「…旦那さんの隣に入れたんだ」
「うん」


白石さんは嬉しそうに頷くと、俺が代わりに持っていた紙袋を地面に置くように言った。
何も考えずに持っていたけど何が入っていたんだろうか。白石さんが中身を取り出すのを見ていると、突然ふわりと甘い香りが広がった。過去にかいだ事のある香り、そして、過去に見た事のある薄紫の花が姿を現す。そういえば今日は日曜日だ。


「毎週日曜日の習慣だから」


と、ライラックの花を供えながら白石さんが言った。施設に居る時からずっと、日曜日に新しい花を持って訪ねていたという習慣はなかなか抜けきらないらしい。こうしてすぐに会える場所にお墓を建てる事ができたので、これからも出来る限り毎週来る予定なのだそうだ。


「…おひさしぶりです…?」


墓石の前まで来て最初に何を言うか迷った結果、疑問形の挨拶となってしまった。あれから一度も会っていないし、最後に会った時はこんな事になるなんて思いもしなかったから。


「3ヶ月ぶり?」
「2…か3ヶ月かな」
「そっかあ」


白石さんも俺に続いて隣に立ち、ふたりで手を合わせてお参りをした。
午後の暑い時間帯だからか俺たち以外には誰もいないけど、風の音や木の葉が揺れる音、蝉の鳴き声が響いている。これだけ色々な音が聞こえていれば、ここに居ても本田さんは寂しくないだろうなあと思う。隣には旦那さんが居るし、ちょっと階段を登って行けばうちの祖母だって居るんだし。


「おばあちゃん、英太くんきたよー」


その時白石さんが俺の名前を呼んだので、ぎょっとして顔を上げた。正確には「呼んだ」わけじゃないのだが。俺が白石さんをじっと見てしまったので、彼女も俺の視線に気づいた。


「…え、なに?」
「いやっ、英太くんって言うからびっくりして」
「英太くんって名乗ってたんでしょ?」
「そうだけど…」


特に意味は無かったのか、と安堵なのか何なのか分からない気持ちになる。同年代の女の子に「英太くん」なんて呼ばれるのは初めてなのだ。
しかし確かに本田さんには下の名前を名乗っていたので(苗字が聞き取りにくかったせいもあるけど)、前のように名前を名乗ってみる事にした。


「…英太です。」
「あははっ、緊張してる」
「するよ。久しぶりだし」


隣で白石さんが見ているせいでちょっと恥ずかしいけれども、3日間の事を思い出していく。俺の頭には鮮明に残っている出来事が、本田さんの中にはどの程度残っていたのだろうか。


「覚えててくれてありがと」


あれから白石さんに聞いた話によると、本田さんは施設の人にも特に俺の話はしていなかったそうだ。もちろん白石さんや他の家族の人にも。それなのにどうして俺の名前を覚えていたのか分からないけど、もしかして、奇跡みたいなものがあったのかなと思ったりもした。


「…あと、いっぱい話してくれてありがと」


本田さんが話してくれた中で一番心に残っているのは孫娘である白石さんの事だけど、本田さんの言葉ひとつひとつがとっても優しくて、話を聞くのが楽しかったのも良い想い出だ。俺がバレー部である事を話して写真を見せた時には「英太くんのおばあちゃんも自慢してるよ」なんて言ってくれた。


「俺、インターハイいくよ」


その自慢に恥じないように白鳥沢は来月上旬のインターハイに出場する。本当は直接見てもらいたかったけどまた結果を報告しに来ればいいか。暑苦しい体育館に長時間座っているのは老体に良くない気がするから。


「…えーと…あと…」


話したい事が次から次へと出てくるので言葉に詰まってしまった。そのあいだも白石さんは隣で黙って聞いている。その姿を見て思い出した、もうひとつ大事な事があるのを。


「これ、ちゃんと大事にします」


そう言いながら、財布の中に入れているものを取り出した。
太陽の光で輝くそれは、旦那さんが付けていたぶかぶかの結婚指輪。今日ここに来る事が決まった時にポーチの中から取り出して持ってきたのだ。


「失くしたらバチが当たるもんねえ」
「すっげえのが当たりそう」
「おばあちゃん怒ったら怖いんだよー」


白石さんはいたずらっぽく笑ってみせた。本田さんが怒った顔なんて全く想像できないけど、そういう人に限って怒ると怖いんだろうな。


「白石さんも怒ったら怖いの?」


と、言う事は白石さんも怒るとたいそう怖いのだろうか。そう思って聞いてみると、白石さんは自分の事を聞かれるとは思っていなかったらしく目を丸くした。


「なんで?」
「白石さん、本田さんにそっくりだから」
「えっ!?」


白石さんは更に目を丸くして驚いた。そう言えばちゃんと言っていなかったっけ、本田さんに似ているという事を。この驚きっぷりだと喜んでいるのかショックを受けているのか分からないので冷や冷やしてきた。


「うれしいなあ…おばあちゃん、私たちそっくりなんだってさ」


しかし、照れくさそうに本田さんに話しかけているのを見て安心した。自覚していなかったのかな、こんなにそっくりだというのに。


「瀬見くん、それ貸して」
「え?…うん」


白石さんが手のひらを差し出してきた。それ、というのは俺が持った大きな指輪だ。
指輪を薄い手のひらに置くと、白石さんは鞄の中を漁り始めた。額から汗がつうと流れているのも構わずに、鞄から出した華奢なチェーンのようなものに指輪を通す。端にきちんと留め具がついている、そこで気付いた。ネックレスだ。


「じゃーん。」
「おお、すげえ」
「これで失くさないよ。私もほら」


外からは見えないように服の内側に入れていたらしいネックレスを、白石さんも俺に示した。ちゃんと彼女の首元であの指輪がきらりと光っている。
白石さんは出来上がった新たなネックレスを俺に渡してきたので、戸惑いつつも受け取った。


「…じゃあこれ…頂きます」
「うん。おそろいだね」
「……おう…」


おそろいという単語に大きな意味は無いのかも知れないけど、なんだかくすぐったい感じがして短い返事に留めておいた。
ちょっと難しかったけど何とか自分の首に付けて、俺も白石さんと同じように外から見えないよう着ている服の内側に入れる。なんだか御守りみたいだ。


「おばあちゃんがさあ、言ってたんだよねえ…」


再びネックレスを内側に仕舞いながら、白石さんが言った。


「おじいちゃんみたいに優しい人と出会いなさいって」


旦那さんのように優しい人、それはつまり本田さんに言わせれば俺なんだろうか。あの人の旦那さんと同等の優しさを持っているとは思えないけど、俺は本田さんの願ったとおりに孫の白石さんと仲良くなる事ができた。


「…そう」


けれど本田さんの願いはそこで終わっていなかった、少なくとも俺に話してくれた時には。


「俺も同じような事言われたよ」
「えっ、何?」


本田さんからは、白石さんには言っていなかったらしい。俺の事は忘れていたし、覚えていたとしても話題に挙げていなかったから。


「英太くんみたいな人がすみれの彼氏だったらいいのにって」


だから本田さんの代わりに伝えてみると、白石さんはしばらく俺と目を合わせたまま黙り込んだ。そのうち焦点がぐらついたので考え事を始めたのだと理解できる。ゆっくりと俯いて、何を考えているのかは分からなかったけど、やがて白石さんが小さく笑った。


「…そんな事言われたら、ねえ…意識しちゃうじゃん、ね」
「…うん。」
「だから私に話しかけてくれてたの?」


白石さんの目は真っすぐに俺を見上げて、責められているわけじゃないのに逃げられない気がした。俺が白石さんに話しかけた理由はもちろん本田さんの事がきっかけだけど、それだけではない。俺が勝手に白石さんの事を気になっていたからだ。あの人の孫だから、という事以外にも。


「それもあるけど…」


それをどんなふうに伝えればいいのか分からないし、俺がこんな気持ちになる事が誤っていないのかも不安だし、でももう抑えていられないし。
白石さんはその間もずっと俺の答えを待っていた。俺の足りない頭で思いついたのはひとつだけで、風になびくスカートの横に垂れ下がった小さな手に触れようとすると、その直前で白石さんが言った。


「英太くん」
「!」


突然名前を呼ばれてどきりとし、伸ばしていた手が止まる。視線を上げると白石さんは墓石のほうをちらりと見た。


「おばあちゃんが見てる」


本田さんが見ている前で、手を触れあう事はよくない?恥ずかしい?「おばあちゃんが見ているから」と手を引っ込められた事にも戸惑ってしまったが、今また白石さんに名前を呼ばれた事にも驚いた。


「あ…うん…えっ、ていうか、今」
「へへ…呼びやすいよね、英太くんって言うほうが」


今日の気温が高い事を差し引いたとしても、白石さんの頬は赤い。意図的に俺の名前を呼んだのだ。呼びやすいからではなく。
白石さんは引っ込めた手の行き場が無いらしく、スカートを握ってみたり髪を耳にかけてみたり、そわそわしていた。やがて手を下ろすと再び俺のほうに向き直った。風が強くなってきた、白石さんのスカートは更に強くなびいていく。


「おばあちゃんの言うとおりにしてみようかな」


白石さんの声は半分くらい風の音にかき消されて、俺に向かって言ったのか本田さんへの言葉なのか分からなかった。身体はこちらを向いているけど視線は本田さんを向いていたせいもある。
でも「おばあちゃんの言うとおり」というのが俺の予想と同じなら、それは俺の望みと一致している。


「でも…瀬見くんがいいなら、だけど…」
「…英太でいいよ」
「え、」


彼女の顔がこちらを向いて、そこで視線が交わり言葉が途切れる。そっちのほうが呼びやすいんだろ、と言ってみると白石さんは頷いた。


「俺も本田さんの言うとおりにする」


本田さんの愛する孫と一緒になるという事を、初めて言われた時には「本田さん、浮かれちゃってるな」くらいにしか思っていなかった。俺が旦那さんに似ているから、そして白石さんが人見知りで男性を苦手としているから。
会ったこともない女の子とそんなふうになる事は想像もできなかった。でも会ってみると、喋ってみると、知っていくとそれが具体的に浮かぶようになったのだ。


「…いいの?」
「なんで?」
「だ、だって…無理してるんじゃないかと…おばあちゃんが変な事言ったから、気を遣ってるんじゃ」
「そんなに器用じゃないよ、俺」


最初はそれもあったけど、と続けると白石さんは両手で頬を覆ってみせた。顔の温度が尋常ではないほど上がっているらしい。それに加えてこの気温のせいで、白石さんは茹で上がってしまいそうだ。


「…そろそろ行く?」


訊ねてみると、白石さんは顔を覆ったまま頷いた。まだ冷めてこないようだ。熱中症になられてはいけないので代わりにライラックの花が入っていた紙袋を回収し、地面に置いていた二人分の鞄を拾った。


「じゃあ本田さん、また」
「またね」


お墓に向かって挨拶をして、白石さんに鞄を手渡すと「ありがとう」と肩にかけて歩き始めた。

しかし、まだまだ続く墓地の階段を降りるためには白石さんはやっぱり足元が不安だったので、彼女に向けて片手を差し出してみた。
白石さんはその手に気付くと顔を上げ、俺の顔と手とを交互に見ている。自分の手をそこに重ねるかどうか迷っているのだ。


「……えっと、手、あの」
「見せたほうが安心してくれるんじゃね?」


その言葉を聞くと白石さんは、本田さんのほうを振り返った。言いたいことが伝わってくれたようだ。もう一度こちらを向いた時には顔から迷いが消えていた。


「…そうかあ。そうかも」


そう笑ってみせると、白石さんの薄い手が初めて俺の手と絡まった。
確か本田さんの手も小さかったな、とあの部屋の記憶が蘇る。左の薬指にはめられた指輪を見せてもらった時、あの人の手はしわしわでとても小さかった。いま俺の右手で握られている手も同じくらいの大きさだ。
この薬指に同じ指輪を通す日が来るのかなあなんて思わず笑ってしまった声は、風に乗って空に消えていることを願う。

同じ空の下で会いましょう