09


5月に入っても日が暮れると肌寒い。完全に半袖で過ごすには、まだまだ待たなければならないようだ。
春が終わり夏に変わる狭間の一瞬は体調管理が難しい。そうして本田さんも体調を崩してしまったのだろうかと考えながら、校門の近くに立っていた。

既に夕日は沈み終えようかという頃、ただ黙って地面を見ていた俺の視界に長く伸びた人影が現れた。白石さんが到着したようだ。


「あ…こんばんは」


数日ぶりに現れた白石さんは不健康には見えなかったが、元気とも言い難い。俺もこんばんは、と返して体重を預けていた塀から背中を離した。


「ごめんね、疲れてるところ」
「それは大丈夫だけど、」
「たぶん瀬見くんで合ってるの」
「何が…?」


さっき白石さんと電話をしたときには、彼女のほうが俺の話についてくるのに精一杯だった。今度は逆だ、何のことを話しているのかさっぱり分からない。
今すぐにでも詳細を聞きたいけど、まかり間違ってバレー部の連中が出歩いていたらたまらない。毎週月曜日にジャンプを買いに出るのは天童だけとは限らないからだ。


「…場所変えていいか?」


俺の申し出に白石さんは頷いた。学校に入ると誰かに出くわしてしまうだろうし、白石さんは寒そうな服装ではないので近くの公園へと歩く事にした。

歩いていくうちに辺りはどんどん暗くなっていく。
夜の公園で白石さんとふたりきり、というシチュエーションには全く興奮しなかった。それは白石さんに魅力が無いわけでも俺が白石さんに興味が無いわけでもなく、今はもっと別の事に意識が向いているからである。


「時間大丈夫?」
「俺は全然、門限は8時だし…白石さんは?家から遠くねえの?」
「うん。電車だし、最寄り駅着いたら歩いてすぐだから」


歩いてすぐと言ったってこのご時世どこで何が起きるか分からないんだけど、と言うのはお節介かもしれないので黙っておく。いや、お節介は後から焼くとして、今は本題に入らなくては。
公園のベンチに腰を下ろし、話って何?と聞こうとしたとき、白石さんが丁度話し始めた。


「おばあちゃんは、新しい事を覚えられなくなってたの」


俺も直面した本田さんの記憶の話。インターンシップの3日間とも顔を合わせたのに、その都度俺の事なんかきれいさっぱり忘れていた。毎度毎度同じ事を説明したんだっけ、同じように名前を名乗って。


「けど、ひとつだけ覚えてたかもしれない」
「え、…?」


それだけでは意味が分からなくて聞き返そうとすると、白石さんは持っていた鞄の中を漁り始めた。見え隠れするのは本田さんが白石さんに作ってあげた小物入れだ。
けれど取り出したのはそれではなくて、もうひとつ別の小物入れであった。その中に何か入っているのだろうか。


「これ」


が、白石さんは中を開けることなくそれを俺に差し出した。
これ、ってどれだ。今目の前に出されているこれは見覚えのないものだった。しかし白石さんの手に一緒に持たれている白い紙に、細い字で、なにかが書かれている。


『えいたくん』


どこかで見たような筆跡だった。俺や白石さんならもっと筆圧高くはっきりと文字を書く事ができるだろう。
しかし薄い字で、あまり力のこもらない手で書いたのだろうと推測されるメモ書きは、俺の財布の中にも入っている。本田さんが書いた字だ。


「…なにこれ」
「おばあちゃんの部屋に置いてあった」
「部屋に?」
「うちの親族には英太っていう名前の人が居ないの。あの施設のスタッフさんの中にも居なかった。だから誰の事だか分からなくって」
「……」


白石さんが話しているあいだ、俺の思考回路は停止していたわけじゃない。必死に必死に繋ぎ合わせていたのだが、まさがそんな事が起こり得るとは信じられず、何も言えずに居た。本田さんは俺の事を、一日経ったら忘れていたんだから。


「おばあちゃんから瀬見くんにだよ」


俺がなかなか受け取ろうとしないので、白石さんは俺の手を取り俺自身にそれを握らせた。

細かい模様のあしらわれた生地に器用な縫い目。あの時、針に糸を通して作っていたのは孫娘の白石さんに宛ててのものだった。
けれども俺は思い出した、「いったい何個作る気だ、と思うくらい」「最近は裁縫に没頭している」と白石さんが呆れ気味に、けれど嬉しそうにしていたのを。

何故ひとつ作っただけで満足せずに終わらなかったのか、今まで誰も知る事は無かった。本田さんの家族が知るはずのない俺に向けての物だったのだ。


「…おぼえてたんだ……」


俺の口からこの台詞は、声として発信されたのかどうか分からない。たぶんきちんと発音できていなかったと思う、別のものが目から大量に出てしまったからだ。
こんな場所で実の孫を前にして俺が泣くなんてどうかしている。白石さんはきっと呆れているだろう、私のほうが辛いのに、と。


「……ごめん」
「な、なんで謝るの」
「いや、だって…」


冷静で居なきゃならないはずだ、まだまだ泣き足りないであろう白石さんの前では。
でも今は白石さんのほうが涙なんかひとつも流さず、俺のせいで冷静になっているようだった。それに甘えてしまうと俺の感情のストッパーは外れてしまう。抑えないと、俺は男だろ、となけなしの意地を張ることでなんとか耐えることが出来た。


「会いたかったな、最後に」


涙は耐えることが出来ても、これだけは口にせずには居られない。もう一度会いたい、けれど近くの施設に居るのならまた何らかの形で会えるだろうかと思っていたから。


「そう思ってもらえるだけで幸せだね、おばあちゃん」
「そっかな…」


そうだよ。と白石さんは笑った。俺の事を変なやつだと思っていないのが有難い。
俺は鼻をすするのが聞こえないように咳払いをして、受け取った本田さんからの贈り物に「えいたくん」と書かれたメモ書きを入れておこうかと中を開いた。と、開いた瞬間に中で何かがきらりと光った。


「…なにか入ってる」
「え、」


白石さんも声をあげた。中に何かが入っているのは知らなかったらしい。
手のひらに取り出してみたそれはほんの少し重くて冷たい、しかしやはり見た事のあるものだった。一度だけ自分の薬指にはめた事がある、ぶかぶかの指輪だ。


「…これ、旦那さんのやつ」


写真の横にいつもセットで置かれていた指輪の片割れだった。白石さんはそれを見て息を呑んだ。


「ほんとだ…どこ探しても無いから、無くなったのかと思ってた…」
「本田さんのほうの指輪は?」


こういうものはふたつが一緒になっているから意味があるのであって、片方だけではいけない気がする。大切な形見が誤って俺の手に渡ってしまっては大変だ。
本田さんがいつも小さな指にはめていた指輪の在り処を聞いてみると、白石さんははっとして自分の財布を取り出した。


「…これは私にって、書いてあった」


ふたつの結婚指輪の片方は孫の白石さんへと受け継がれていたようだ。失くなっていなくて良かった。
俺も自分の、もとい旦那さんの指輪を白石さんに返そうと差し出すと、なんと彼女は首を振った。


「それは、おばあちゃんから瀬見くんにあげたやつだと思う…」
「え」


これは生前、本田さんの旦那さんが身に付けていた大切なものじゃ無いのだろうか?白石さんの持つ指輪と一緒にしておくのが最善じゃないのか。それに、例えこれが本当に俺宛だとしても赤の他人の俺が受け取っていいものなのか。


「……いや…よく…わかんねえけど…これはもらえない、返す」
「返さないで!おばあちゃんが瀬見くんにあげたいって思ったんだから」
「いや、けど…さすがに」
「もらって」


瀬見くんにとってはがらくたかも知れないけど、と白石さんは言った。

どうしてかこの時思い出してしまったのは、本田さんが白石さんの電話番号を「あげる」と無理やり俺に渡してきた時のこと。そして、この指輪を「はめてみて」と俺に差し出した時のこと。

本田さんがそうであったように、白石さんも一度決めたら引き下がらない頑固者なのかもしれない。だとしたら俺にはもう、逆らう術は無い。 本田さんと同じような姿を見せられたら。


「…白石さんと喋ってるの、すっげえ不思議な感じがする」


指輪を突っかえすのは諦めて、手の中に収まるそれを見下ろしながら言った。


「そう?」
「うん。本田さんから、白石さんの話いっぱい聞いてたからさ」
「えっ!」


白石さんが今日一番の大きな声で驚いた。目は真ん丸く、やや小さめの口も思いっきり開かれている。お喋りな祖母が自分のことを面白おかしく話していないか不安らしいが、その心配はもう遅いかもしれないけど。


「おばあちゃん、変な事言ってなかった?」
「えーと。すみれは昔からめちゃくちゃ泣き虫で〜て言ってたかな」
「ええ!?」


もう一度大きく声を上げたあと、今度は溜息で肩を下げた。本田さんと白石さんが同じ空間に居たらどれほど賑やかだったのか、それだけは見てみたかったなぁと感じる。
顔を赤らめて「それは昔の事だから」と弁解する白石さんを見て、俺が聞いたのは欠点だけでは無い事を伝えなければと言葉を続けた。


「でも、おばあちゃん思いの優しい子に育ってくれた。って」


赤くなっていた白石さんの表情がぴたりと固まる。頬の赤みはみるみる引いて、羞恥心で寄せられていた眉は別の原因で更に寄せられた。
アレ?と思った時には本田さんの言う「泣き虫」になっていて、白石さんの目からは大粒の涙が出始めていた。


「……ひどい」
「ごめっ、泣かせようとしたわけじゃ…」
「ひどいいぃ」


白石さんの涙腺を刺激することを言ってしまったらしい。女の子がすぐ隣で泣いてしまうなんて初めてなので慌ててしまったが、泣き顔は見ない方がいいんだろうなととりあえず目を逸らしておいた。

すぐに白石さんは涙を拭いて(本人曰く、ただの思い出し泣き!との事だった)、渡すべきものは渡し、話すべきことは話したからと立ち上がった。いつの間にか数十分が経過している。白石さんを送るべき時間帯だ。


「送ってく」
「え!いいよそんな」
「いや、あの…暗くね?ほら」
「…そう?じゃあ」


こういうのも初めての事なので、どのように言い出せばスマートなのか全く分からないままとりあえずは駅まで送ることになった。

歩いている最中も、来た時のようにあまり会話は弾まない。公園でふたりとも泣いてしまったもんだから少々変な空気だ。俺から話しかけるべきだろうかと悩んでいたが、先に白石さんが喋りだしてくれた。


「…おばあちゃん、最後に瀬見くんに会えて良かったね」


その言葉がどういう意味だったのかは分からない。孫がひとり増えたみたいで良かった、という事だろうか。俺も自分の祖母に接しているような気分だったから、そう思ってくれているなら本望だ。


「そうだといいなあ」
「絶対そうだよ。瀬見くんはおじいちゃんに似てるもん」
「…へっ?」


今度は俺が大きめの声を出してしまった。旦那さんに似てるって、白石さんまでそう思っていたのか。「最後に瀬見くんに会えて良かった」のは、そういう意味か。
本田さんはしきりに、俺の事を旦那さんにそっくりだと懐かしんでいた。写真のあの人に触れるように俺の頬をなでて、手を握り、笑顔で話してくれていたのだ。


「私もおじいちゃんの事はうっすらとしか覚えてないんだけど…写真の雰囲気とか…おばあちゃんが話してくれたおじいちゃんの雰囲気が、ぜんぶ当てはまるから」
「………」
「だから指輪を持ってて欲しいのかもね」


すっかり涙の乾いた白石さんは、擦れて赤くなった鼻を隠すことなく俺を見上げた。
俺も今、それどころか今日ずっと、あの人と一緒にいる気分だ。白石さんの小さな口は絶え間なく動き、女の子らしい華奢な手で身振り手振りをし、俺よりもうんと低い身長で隣を歩く。本田さんの部屋で見た夫婦の写真と同じくらいの身長差、なのだと思う。


「白石さんも似てるよ。本田さんに」


俺が前を向いて言ってしまったせいか、身長差のせいか、この言葉は白石さんに届いていなかったかも知れない。
けど別れ際の彼女は「明日は学校行くからね」と笑っていたので、まだ言わなくてもいいか、と手を振った。

ありとあらゆるを溶いたあと