20171117


仕事を始めると、学生のころのように自分の好きな事が出来なくなる。責任は親ではなく自分で負わなければならなくなり、やりたい事があるからと言って簡単に仕事を休むわけにもいかない。それは年に一度訪れる誕生日でも同じ事だった。

今日は鉄朗の誕生日で、ついでに私たちが付き合い始めてちょうど1年の記念日である。
でも平日だから昼間にデートをするのが難しいのはもちろんの事、鉄朗は1ヶ月だけ関西に出張に行っているのだ。
社会人3年目、やっと色々な仕事を任されるようになり、訪れた出張の機会を断るわけにもいかず(私としても断って欲しくは無い)、鉄朗は約3週間前に関西へ旅立っていった。


『今日は、何かいいもの食べるの?』


17日の夜、仕事が終わった頃を見計らってメールを打ってみる。
美味しいたこ焼きを食べたとかお好み焼きがふわふわで感動したとか、そんな感じの報告を毎日受けているけど、今日くらいはもう少しいいものを食べるのかなあと。なんといっても誕生日だし。

年が明けたら同棲する家を探そうかと話しているところなので、今は私も東京で一人暮らし中。だから年に一度の記念日とはいえ、たったひとりで豪華な食事をするのも用意が面倒であった。
けど、今日はなんとなく甘いものが食べたくなって職場の近くのデパ地下でケーキを買ってきたのだ。ひとりだから、ちいさいケーキだけど。


『まだ決めてないなあ』


と、仕事を終えたらしい鉄朗からの返信が来た。まだ今夜の食事を何にするかは決めていないとの事。


『金曜だけど、そっちの人と飲みに行ったりしないの?』
『誘われたけど断った。なんか眠くて』
『寝不足?だいじょぶ?』
『だいじょうぶやで〜』
『(笑)』


こんな感じでいつも通り1日の報告や、今日の晩御飯のことなどをメールでやり取りをする。あまり誕生日って感じがしないけど、1週間遅れで来週きちんとお祝いをする予定だ。何か月も会えないわけじゃないんだし。

『疲れたからちょっと寝る、起きたら電話かメールする』との事だったのでよほど疲れているのだろうと思い、そのまま了承して鉄朗にはゆっくりしてもらう事にした。
今日が無理でも明日は土曜日だからゆっくり電話が出来る。やろうと思えばテレビ電話だってできる。科学技術の発展には感謝しかない。

…とはいえほぼ毎日のように会っていた恋人と1ヶ月も会えないのは辛いもので、明日はいつもより長電話してしまうかもなあなんて思っていた。





「…やば!」


それからしばらく、気づけば夕食を食べてからソファで眠ってしまっていた。
私もここ最近の仕事に疲れていたらしい。テレビも電気もつけっぱなしで、慌てて時計を見ると23時前。よかった、このまま朝になっていたら大変な事になっていた。メイクだって落としてないしお風呂に入ってない。

そういえば鉄朗もひと眠りすると言っていたので、起きているだろうかと携帯電話を手にするとちょうど電話が鳴り始めた。


「おはよー」
『おう。お?寝てたの?』
「うんちょっと…あれ、鉄朗も寝るって言ってなかったっけ」
『あれ。あ、そうだった。そうそう』


鉄朗の声は良く通っていて、とても寝起きだとは思えない。
今から寝ると言っていたのは嘘だったんじゃないか。今日は鉄朗の誕生日で、寝るって嘘をついて、でも寝ていなかったって事は…


「……何してるの?」
『えっ?』
「いまどこ」
『どこって家だけど…?』
「誰と!?」
『へっ?』


こいつまさか浮気してたのか!誕生日に、一年の記念日に!ちょっと見た目が良いからって寄って来る女の子に良い顔ばっかりするからこうなるんだ、誘われてもぴしゃりと断らないのはよくないって何回も言ってきたのにこの野郎。


『誰もいねえけど、ひとりだよ』
「じゃあなんで寝るって嘘ついたの」
『それは…』
「やっぱり寝てないんだね」
『うっ』
「最低。切ります」
『待っ、』


初めてだ。こんなふうに電話を切ったのは。

鉄朗は背が高く、顔も良く、性格もとても温厚で優しいので社内の女性には人気がある。
私は違う会社に勤めているけど、一度鉄朗の会社のビル下で待っていた時に「黒尾くん超いいよね」と女性社員が話しているのを聞いてしまった。それを鉄朗に伝えると「当たり障りない程度にしか接してないよ」と言う。
それは分かっている。それでいい。だってそうしなきゃ社内での居場所がなくなってしまうし。彼の事を好きになる女性が何人か現れたって不思議ではない、けど、ちゃんと私を選んでくれると思っていたのに。こんな大切な日に嘘を吐かれて、他の人と一緒に過ごされてしまうなんて。


「……さいていだー…」


私は寝ていたソファに再び顔を埋めた。もうこのまま眠ってしまいたい。メイクしたままだとかどうでもいい。私の顔がぼろぼろになっても困る人なんか居ないもん。もう知るか。あいつ、次に会ったらぶん殴ってやる。

その時、玄関でインターホンが鳴った。反射的に顔を上げて玄関を見るけど、もう夜の23時だ。居留守を使おうとテレビの音量をだんだん小さくしていき、客人が立ち去るのを待つ。…けれども、もう一度インターホンを鳴らされた。


「しつこいな…」


今の私はいらだっていた。こんな時間に訪ねてくるなんて不審者かも知れない、という懸念は頭から消え去っており、とにかく苛々していたのでどすんどすんと廊下を進む。それでもチェーンロックはそのまま掛けて、がちゃりとドアを開けた。

がしゃん、とチェーンの音がする。開いた隙間から覗いてみると黒い脚が見えた。やばい、変質者?と思ってドアを閉めようとすると凄い力で引っ張られる。うわ、怖い!


「やっ、」
「こんばんは」


変な人が無理やり押し入ろうとしてる、と恐怖にかられていた時。
聞こえてきた挨拶の声は聞き覚えがあった。それどころかついさっき、携帯電話で会話していた恋人の声じゃないか?恐る恐るドアの隙間から外を覗いてみると、鉄朗も同じようにこちらを覗いていた。


「……てっ、つ!?」
「いや焦った〜まさかこんな事になるなんて」
「あ、え?何?え!?」
「とりあえず、寒いから中入れてくださいな」


びっくりしてチェーンロックをかけたままだったので、それを外して鉄朗を家の中へ入れる。
「やれやれ」と言いながらドアを閉め、鍵をかけ、靴を脱ぐ彼の姿を見ても私はまだ混乱していた。


「……なんでここにいるの…?」
「んー、サプライズってやつ?まあ俺の誕生日だけど」
「浮気……」
「バーカするわけねえだろ」


鉄朗は冷えた手で私の頭をぽんぽん撫でた。
浮気じゃなかったんだ。電話口の反応が不自然だったからてっきり浮気だと思っていた。「今から寝る」というのは、こっそり東京に帰ってきていたのを隠すための嘘だったのか。


「…びっくりした」
「いや、ビックリさせようとしたんだけど…違う意味でビックリしちゃった?ごめんな」
「……びっくりしたぁ」
「うわ、おい」


全身から力が抜けた私はその場でへなへなと崩れ落ちた。それを見た鉄朗が慌てて支えようとしてくれたけど、間に合わずにそのままふたりで廊下にぺたんとお尻をつく。
びっくりした。浮気されたかと思った。こんな日に。私は家で一人なのに。
結果的に浮気ではなかったものの、その安心感で勝手に涙が溢れていた。


「たんじょびだし、記念日なのに、…他の子といるんだって思ったら」
「悪かったってば」
「次会ったら、ぶん殴るって決意してっ」
「こわっ」
「……よかった」


ひととおり涙を流した後、ふう、ともう一度息をつき鉄朗に支えられながら立ち上がった。
私が勝手に勘違いして泣いてるような感じだけど、元はと言えば鉄朗が分かりにくい嘘をつくからいけないんだ!鉄朗もなんとなく罪悪感を感じているようで、私の背中をそっと押しながら部屋に進んだ。


「上手な嘘が思いつかなくてさー…まさかそっち方面に勘違いされるとは思わなかった」
「するよ!いっつも心配なんだよこっちは」
「ふーん、心配してくれてんの」


部屋まで入ると鉄朗は鞄を床に置いた。ようやく彼の両手が空いて、いまだ涙で濡れる私の顔を両手でしっかりと覆う。太い親指が目頭から頬にかけてゆっくりと、私の涙を取り払った。


「俺も心配だよ」
「…うそつき」
「嘘じゃねっつの、こんな可愛い子ひとり置いて大阪なんて行ってられるか」


そのまま顔は上向きに固定されて、鉄朗の顔が私に被さるように近づいてくる。会うのはたった3週間ぶりなのに、それまではほぼ毎日会っていたせいかとても久しぶりな気がした。

新幹線の中ではお酒も口にしていないらしく、鼻をつくにおいは一切せずに、優しい水音をたてながら何度か唇が重ねられる。一度顔が離れるともう一度、今度は下唇を吸い上げるように。その次は舌で歯列をなぞるように。最後にもう一度、互いの唇を押し付けるように。


「……誕生日おめでとう」


キスの合間に、直接言いたかったことをやっと伝えると「ありがと」と鉄朗が目を細めた。私の顔に添えられていた手は髪を優しく撫でて、そのままスーツの胸ポケットを漁り始める。


「…俺の誕生日でもあるわけだけど、今日はふたりの記念日だから」
「うん…?」


何をごそごそしているんだろうと見下ろすと、ポケットから出てきたものは手のひらに納まるほどの小さな箱だった。
上品な群青色のその中に何が入っているのか、恐らく答えは一つなのだろうが現実として受け入れられない。もしかしてこの中には、世界中の女の子が「いつか私も」と夢に見ているものが入ってるの?


「すみれ、こっち向いて」


鉄朗の声で我に返り、私は視線を上げた。一瞬目を合わせてから、今度は鉄朗が手の中の箱をていねいに開け始める。


「俺、もうちょい仕事頑張りたいんだわ。自分に自信つけたい時期っていうか。だから…」


ついに開かれたその箱の中には、華奢な指輪がひとつ、お姫様が椅子に座っているかのように、真ん中にちょんと乗っていた。宝石できらびやかに装飾されることなく、しかし単なる安物なんかじゃない事は一目瞭然だ。


「来年の今日まで、これで我慢して」


その声で私はもう一度鉄朗を見上げた。来年の今日、つまり一年後。それまで我慢しろということは、もしかして一年後には今以上の幸せが待っているという事。来年の今日が運命の日になるという事?


「…って、ことは…」
「…って事です」
「うそ…」
「ほんとだよ。手ぇ出して」


まだ信じられなくて目をぱちぱちさせる私だけど、手を出せ、と言われ無意識のうちに左手を差し出した。左であってるんだよね、これ。
鉄朗は指輪を取り出すと箱を再びポケットにしまい込み、私の左手を手のひらに乗せた。そして鉄朗の長い指が細いピンクゴールドの指輪を持ち、私の薬指にゆっくりとはめ込んでいく。


「ちゃんとしたのは来年にするから…あと1年、待てる?」


生まれて初めておとぎ話のヒロインになったような気分になった。自分の周りに花が咲き、蝶が舞っているようなうっとりとした気分に。


「…うん」
「さすが。ありがとー」


しっかりと指輪をはめこむと、鉄朗は手を離して私をぎゅっと抱き締めた。私も彼の背中に手を回して、スーツがしわになるのも構わずぐしゃりと掴んでそれに応える。
学生時代にスポーツをしていた彼の身体はとても分厚い。それに仕事を始めて色んなことを経験してきたぶんも加わって、より逞しくなっているようだ。


「…鉄朗…」
「ん」
「……会いに来てくれて、ありがと」
「俺が会いたかったんだよ」


そう言うと、身体を離して私の額に口づけた。おでこじゃなくて口がいい、と首を伸ばせばそれに応えて私の唇を甘噛みしてくれる。
胸元からは1日の疲れを感じさせるにおいを感じた。仕事で疲れているのにそのまま東京まで飛んで帰ってきてくれたのだ。


「…スーツ、暑いよね。脱ぐ?」


私がスーツを脱がせようと引っ張ると、鉄朗はそれに応じながらも低く笑い声を漏らした。


「誘い方が上手くなってきたじゃん」
「そ、そういう意味じゃ…」


というのは嘘で、スーツから香る男性らしいにおいとか、消えかけた香水のにおいとか、そういうの全て取り払ってしまいたい。


「遠慮なく脱がせてもらうわ」


脱いだジャケットはそのまま無造作に床へ落とし、きゅっと絞められたネクタイに指をかけ緩めていく手つきは私の誘いに乗った男のものだ。
ついさっきはめられた指輪のあたりを何度も何度も這う舌を見ながら、一年後にも訪れるであろう甘美な夜が今からとても待ち遠しかった。

Happy Birthday 1117