05


「英太くんは、ほんとうに優しいね」


自分の祖母ではなく、インターンで出会った本田さんの夢を見たのは初めてだ。
どうしてあの人の夢を見たのかはなんとなく分かる。今日は木曜日、午後のロングホームルームでインターンのレポートを発表する日だからだ。

天童と俺は日曜日の夜、それぞれの部屋にこもってレポートを仕上げていた。作成途中のレポートなんか見られたくなかったし、あそこで過ごした3日間は俺にとって神聖な時間だったから。たくさんの候補があった中から老人介護施設を選んだ自分を褒めてやりたいとさえ思う。

しかし、レポートに本田さんの事を書くのは気が引けた。あの人には俺の記憶が残っていない。俺が発表して、白石さんが「私のおばあちゃんだ」と気づいてしまうのも気恥ずかしかった。
あの時間は俺と、本田さんの消えた記憶の中だけに残しておけば良いと思ったのだ。


「次、瀬見くんどうぞ」
「はい」


担任の声で席を立つ。クラスメートの前に立って自分の経験した内容を話すのはとても恥ずかしいが、自分の出席番号が最初や最後でなくて良かった。発表を終えた生徒たちはほぼほぼ集中力が切れており、まだ発表を終えていない生徒は自分の番にどう喋るかを考えるのに必死の様子。このまま流れるように発表し、何事も無かったかのように自分の席に戻り、俺の発表した内容は皆の頭から消し去ってもらいたい。
と、思っていたのだが。


「今回選んだ場所は、学校から近い老人ホームで…」


と俺が発表を開始したとたんに、下を向いていた白石さんの顔が上がったのだ。
施設の名前は声に出さず発表したものの、作成したレポートにはしっかり施設名を書いており、それが彼女の目に留まるのを感じた。

白石さんに気付かれた。俺があそこに行ったのを。その瞬間に用意していた言葉が飛んでしまい、結局俺の発表はぐだぐだになってしまった。





その日はロングホームルームが最後となり、すべての生徒が発表し終えて放課後になった。
発表中の自分の記憶があまり無い。白石さんはどれくらい俺の発表を聞いていたのだろうか。怖くて彼女の席を見る事が出来なかった。

あの老人介護施設にいった事を隠したいわけでも、後ろめたいことがあるわけでもない。ただ本田さん話していた白石さんの事や、俺を旦那さんにそっくりだと言った事などを俺の口から白石さんに「こんな事を話したよ」と伝えてしまうのは良くないんじゃないかと。あくまであの3日間は俺の中だけに収めておきたい。


「あの、瀬見くん…」


しかし、放課後になったとたんに白石さんが俺の席までやってきた。こんな事は初めてだ、けれどもしかして白石さんが話しかけに来るかもしれないと思っていたので表情を崩さずに済んだ。


「なに?」
「瀬見くんて、あそこ行ってたの?そこの道まっすぐの…眼科の向かいの老人ホーム」


白石さんが説明したその場所は間違いなく俺がインターンに行った場所で、彼女のおばあさんが居るところだ。これは隠しても仕方が無いので、俺は素直に頷いた。


「おお、そうだよ」
「ほんと!?」


俺が肯定したとたん、白石さんの顔がぱっと明るくなった。同じクラスになって1カ月程、こんな顔をされるのは初めてなので驚いた。そもそも会話をするのも2回目だし。


「あそこね、私のおばあちゃんが居るの。本田っていう苗字で…知ってる?話とかした?」
「……本田…」


どうするべきか、話したよ3日間とも、と言うべきか。伝えたところで本田さんは俺のことを覚えていない。それにもし「どんな話した?」と聞かれたらどうする。「白石さん、誰とも付き合った事が無いんだって?」なんて言えるか。言えない。


「…いや、覚えてないかも」
「そっか…あそこ沢山居るもんね」
「ああ、居たなあ」
「でも設備とかすごく良くなかった?おばあちゃんいっつも快適よーみんな優しいのよーって言ってる」
「へえ、」


そこで、それまで話し続けていた白石さんの口が止まった。俺はその後に何が続くのかを待っていたけど聞こえなくなったので様子を伺うと、なんと白石さんは自らの手で口を塞いでいた。


「……ご…ゴメン…」
「え、なにが?」
「べらべら喋っちゃって」
「へ?」
「私ほんとお喋りなの」


両手で口を覆っているのでもごもごしているけど、それはこれ以上勝手に口が動かないようにするための封なのだと気付いた。


「…白石さんって、お喋りなんだ?」
「うん…」
「静かな子だと思ってたけど…」


それまで話した事も無かったし、分け隔てなく誰とでも接しているふうには見えない。本田さんの話でも白石さんは自己主張しない子だと聞いていたし。
さっきまで動いていた口を押さえたまま白石さんは顔を赤くしていた。


「人見知りしちゃってさ…家族の前じゃ喋りすぎて怒られるよ、いつも」
「へー」
「けどおばあちゃんはね、あ、瀬見くんは会ってないのか…部屋にライラックの花飾ってるの。ほんとに見てない?この前私が持ってた花」


老人ホームの近くで出くわした時に持っていた花だ。本当は本田さんの事を知っているけど今更どうやって言えばいいのか分からずに、申し訳なさでいっぱいになりながら首を振った。


「ごめん、覚えてないや…」
「そっか…」


白石さんは残念そうに肩を落とした。俺と本田さんとの間に接点があったのを知ったら、彼女はどんな反応を見せるのだろうか。本田さんが俺に何を話していたのかを伝えたら。


「…まあ、もし瀬見くんが覚えてても、おばあちゃんは覚えてないかも。最近物忘れがひどいの」
「……そう」


家族の事はかろうじて覚えてるけど、と白石さんが続けた。それ以外の事は記憶が曖昧なのだそうだ。数分前に話した事を忘れていたり。新しく入ってきた情報はもう記憶に残らないのかも知れない。


「私の事も忘れられたらどうしよ」


寂しさを隠しきれていない声が聞こえた。本当におばあちゃんっ子なんだな、けど、毎週日曜日にはこの恐怖と戦いながら会いに行ってるんだろう。忘れていたらどうしよう、ああ良かった覚えてた、と会うたびに胸を撫で下ろす姿が想像できる。
でも俺は本田さんが白石さんの事を忘れるなんて想像も出来ないのだった。


「それは無いだろ」
「…なんで?」
「え!?いや、」


なんの根拠もないけど、そんな事はあるわけが無いと思ってしまったのだ。しかし白石さんは全く理由が分からないという目で俺を見ている、どのように逃げようか。


「なんで、って…なんとなく…ごめん根拠は無くて、ただマジでなんとなくそう思って」
「はは、慌て過ぎ」


白石さんは俺の慌てっぷりに吹き出した。確かにどうして俺が慌てなくてはならないんだ、と思ったけれどそれよりも気になる事が。


「白石さん、人見知りって言うわりには普通に喋れてねえ?今」
「へ」


俺が指摘すると白石さんはまたもや動きを止めて、ゆっくりと両手で口を塞いだ。不快なわけじゃ無いから普通にしていて欲しいんだが、どうやら癖のようだ。


「……ほんとだね。なんでだろ…おばあちゃんの事話す時は、饒舌になっちゃうんだよねえ」
「…ふーん」


本田さんもお喋りな人であった。ゆったりとした老人特有の喋り方なのに、あれもこれも喋りたいと沢山の事を話してくれたっけ。それは主に孫である白石さんの事と、旦那さんの事だった。
ああやっぱり直接また会いたいなと思っていた時、白石さんが鞄の中を漁り始めた。出てきたものは布製の、古びたポーチのようなものである。


「これも実はおばあちゃんが作ってくれたやつで、ぼろぼろだけどね」
「へえ、すごいじゃん」
「今あたらしいの作ってくれてるんだって!」
「ふうん?」
「前の日曜行った時も布が沢山あってさ。いったいいくつ作る気なのーって話したりして」


それからどうしたんだろ、と俺は続きが気になって仕方がない。
俺が見た製作途中のものは滞りなく進んでいるんだろうか?次は何を作るつもりで、それも白石さんにあげるつもりなんだろうか?最後まで聞きたかったけど、白石さんが黙ってしまったので適わなかった。


「……ごめん喋りすぎた」
「いや、いいよ。おばあちゃんっ子なんだなって思ってただけ」
「う、うん…」


どうやら、おばあちゃんっ子と言われた事が恥ずかしいらしい。高校3年生で祖父母にべったりな人は確かに少ないけど、べったり出来るうちにしておけばいいと思う。


「良い事じゃん。大事にしてやれよ」
「うん。…瀬見くんは?おばあちゃんまだ元気?」
「うちは去年死んじゃったから…」


ついつい何も考えずに答えてしまった。即座にしまった、と思ったけれど時すでに遅し、案の定白石さんも「しまった」という顔をした。


「………ごめん、知らなくて」
「謝んなくていいって」
「でも…」
「白石さんと話してたら、俺のばあちゃんも元気に生きてるみたいな気がしてきたし。ほんと仲良くしてな」
「…うん。」


そこまで話してようやく白石さんが下校の用意を始めたので、俺も部室へ行く事にした。

あの人の孫娘と会話ができた、本田さんからのお願いをひとつ叶える事に成功した。白石すみれは本田さんの言うとおりの子だ。小さな頃は泣き虫だったけど、おばあさん想いの心優しい女の子。
そして今日新しい情報が加わった、ただの大人しい子かと思いきや本田さんの事になると、本田さんそっくりに色んなことを一気に話そうとする。

部室までの道のりを歩きながら必死に足取りが軽くなるのを我慢していると、途中で脚がもつれて転びそうになった。

テンポルバートで惑わせて