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いつもより早く目が覚めるとリビングからの香ばしい香りに唾液が溢れる。きっと母親がとびきりの朝食を用意してくれているのだろうと思った、俺が体育祭で全力を発揮できるために。いよいよ今日が音駒高等学校の体育祭当日だ。

満腹で家を出る前に「今年も来るの?」と家族に聞いてみると、やっぱり黒尾の親と待ち合わせ済みらしい。もう高校3年生になる息子の体育祭なんて見たいもんかね、と呆れたけれど巨大な弁当箱を持って来てくれるらしいので文句は言わない事にした。

教室に入ると既に着替えを終えた生徒も多く、慌てて俺も鞄の中からジャージを取り出した。胸元と背中には白石さんが作った3−5のゼッケンが。たった今から最後、リレーを走り終えるまで、俺はこれを着て過ごすのだ。


「おはよ!やっと本番だね」


と、すっかり元気になった白石さんが声をかけてくれたので慌てて着替え途中のジャージを腰元まで上げた。


「おお、おはよ」
「走れそう?」
「バッチリだよ。白石さんは?」


聞いた後で、聞く必要も無かったかなと思った。白石さんはすでに着替え終えていて去年と同じく髪をひとつに結わえ、まだ今日は怪我の無い綺麗な膝を見せていたから。
「今日はこける気がしないね!」と歯を見せて笑うのを見て、去年の体育祭の日に芽生えた気持ちがいっそう強くなるのを感じた。





開会式の前、体育委員はグラウンドに集まっての最後の打合せをしていた。短距離走で使用するポールや玉入れの道具、綱引きの綱、などを決められた位置に用意してあるかどうかの確認だ。


「今日まで用意大変だったと思うけど、本番だからな。怪我しないように楽しもう」


最後に佐々木先生が体育委員のみんなに声をかけた。
そんなふうに言われると余計に感慨深い、白石さんとの事が無かったとしてもこれは高校生活最後の体育祭。応援パフォーマンスの練習だってしたし、当日の種目を滞りなく進めるための段取りも頭に詰め込んだし、自分で言うのもなんだけど立派に体育委員の一員として今日まで頑張ってきたのだ。

そして、だんだんと全校生徒がグラウンドに集まり始めた。「じゃあ解散」という佐々木先生の合図で、体育委員たちはそれぞれのクラスへ戻って行く。


「あ、白石」


俺たちも5組のクラスメートに合流しようとしていた時、佐々木先生が白石さんを呼び止めた。何故だか俺がびくりと震えて立ち止まる。白石さんはどうだろう、と隣を見ると丁度くるりと振り向いたところだった。


「今日は転倒禁止だからな?」


佐々木先生は爽やかに、しかし悪戯っぽく笑いながら白石さんに言ってみせた。
それって好きな人から言われるのは嬉しいかも知れないけど、今や幸せな結婚生活を送っている佐々木先生から言われるのは結構辛いのではないか。俺のほうがびくびくしながら白石さんの顔色を伺ってみる、と、彼女は照れくさそうに笑っていた。


「もー、いつまで言うんですか!」
「去年のアレが鮮明に残っててさあ」


ふたりはこれまでと同じように、何事も無かったかのように会話を続けていく。
先生にとっては何事も無かったのだが、白石さんにとってはそうではない。けれども何の違和感も見せずにひとしきり笑った後、佐々木先生が白石さんの肩を叩いた。


「頑張れよ」


と、言って白石さんに触れたものだから、俺も冷や冷やしてしまった。そんなふうに接するのは逆効果にならないだろうかと。しかし白石さんは、やっぱり表情を崩していなかった。


「今日はビックリするほど頑張りますから覚悟してください」
「おお?」
「3年の優勝はうちのクラスですから」


さきほどの佐々木先生に負けないくらいの悪戯っぽい顔で白石さんが宣言した。


「言うじゃん、俺2年の担任でよかった」
「ほんとですよ!先生のクラスと勝負できなくて残念です」
「たくましいねー。夜久、白石に振り回されてんじゃない?」
「えっ?いや、」


突然佐々木先生に話を振られて思わず口ごもる。それってもしかして、俺と白石さんとの間に「体育委員」以外の繋がりがあるのではと思われているのか。俺の考えすぎ?


「頑張ろうな、怪我すんなよ」


最後に俺と白石さんの肩を叩いて、佐々木先生は開会式のためにテントへ走っていった。グラウンドにはちらほら生徒が集まり始めている、いよいよ始まるのだ。俺たちも自分のクラスが並ぶ位置に向かわなければ。


「…白石さん」


立ち止まったままの白石さんは、佐々木先生の背中を見送っていた。やっぱりまだ全然諦めきれていないのだろうか?


「佐々木先生って、ずっとああなの。1年の時からずっと」
「……」
「悔しいなあ…」


もしかして泣いてしまう?と思ったけれど、ふう、と大きな息を吐いて白石さんは顔を上げた。


「…けど!宣言したからには優勝しないとだからね!頑張るよ夜久くん」
「お、おう」


目には涙は溜まっていない。ほどよく潤った瞳が秋晴れの太陽に照らされて輝いている。それからの彼女は佐々木先生のほうを振り返ることなく、3年5組の列へと走った。





このような行事は始まってしまえばあっという間だ。競技や応援の練習・用意は大変だったけれど、学年やクラス一丸となって取り組んでいくと気付けば終了し、みんな大きな怪我や失敗もなく残りの数種目を迎えた。

いま行われているのは先生たちによる障害物競走で、かなり盛り上がっている様子。
俺もテントでじっくり見たかったけど行かなければならない場所があった。3年生クラス対抗リレーの入場ゲートだ。


「緊張してる?」


一緒にゲートに向かう白石さんが言った。口数の少ない俺が緊張しているのかと思ったらしい。
去年は確かにかなり緊張していたが今は違う。一年前の体育祭、リレーのゲートに向かう時にも白石さんと一緒だったなあと思い出していたのだ。


「…まあ、ちょっとね」
「私も。なんでだろ」


白石さんはゼッケンをぎゅっと握って心を落ち着けているようだった。珍しく緊張しているのか。何度か深呼吸をして手首をぶらぶらと解し、「いやぁホントに最後だね」と笑っていた。


「…白石さん、元気になってよかった」
「え?」


その笑顔があまりにも、佐々木先生の事で大泣きしていた時からは想像出来なかったのでぽろりと言ってしまった。今朝先生と話していた時も、俺が心配するほどでは無かったようだから。


「ありがと、もうかなり吹っ切れたよ」


白石さんは歩きながら、ずっと前のほうを見ていた。 その横顔はとても綺麗で、去年と同じように結えられたポニーテールも俺の心臓と同じように躍っている。

この一年間で俺は白石さんとの距離を縮めることは出来なかった。佐々木先生の事が好きなのだと知ってしまった日から、それを邪魔するのはよそうと思っていた。佐々木先生と自分を比べて辛くなった日もあったし、誰にも言えないような醜い感情か生まれた日もあった。
けど、それはもう無くなった。先生が結婚したからではない。それでも俺は白石さんが好き、白石さんにはそれほどの魅力がある女の子なんだと再認識したからだ。


「…俺も。吹っ切れたかも」
「え、何か落ち込んでたの?」
「色々」
「うそ…気付かなかった」


そりゃあ、気付かれているほうが驚きだ。白石さんの事で悩んでいたんだから。


「…今度は私が話聞くよ?」
「へ?」
「沢山話聞いてくれたお礼に!」


白石さんは俺が何かに落ち込んでいたと聞き、今度は自分に相談しろと言ってくれた。本人に相談出来るわけがない。本当にこの子は俺の気持ちなんか全く気付いていないようだ、有難いことに。


「…なんか頼りないなあ」
「なにそれ!ひどー」
「ごめんごめん、嘘だよ」
「ほんと?じゃあ…」


その時ちょうど、クラス対抗リレーの入場ゲートに到着した。既に出場者が集まり始め、最後の種目とあって気合い充分にストレッチをしたりしている。
去年は手汗でべとべとになっていた俺の手も、今は不思議とリラックスできているらしい。清々しく、爽やかだ。


「俺の悩みはきっと、白石さんしか解決できない悩みだと思うから」


ほかの誰も解決することの出来ない特別な悩みを打ち明けるのは、勇気の要る事だ。けれどもいつか訪れるであろうその瞬間が、きっと間もなくである事を心のどこかで感じている。


「……どんな悩み?」


俺の悩みが何なのかなんて、全く予想だにしていない女の子は首をかしげた。
きみにしか解決出来ない悩み。一年前のあの日から今日まで育ててきたこの気持ち。俺の「悩み」が気になって仕方がない様子の白石さんがもう一度口を開きかけた時、たった今行われていた障害物競走が終わった。


「行こ」
「あ…、うん、」
「優勝すんだろ!」


白石さんの佐々木先生と自分への約束は、この体育祭で優勝する事。俺も喜んで協力しようとグラウンドに向かって一歩踏み出した。

3年生のテントから沸き起こる歓声は去年と同じく、心地よさと高揚感、緊張感をもたらしてくれる。
そして今年はひとつの決意が芽生えることになる。このリレーが終わった時、白石さんからのバトンを受け取りゴールテープを切ることが出来たなら、優勝することが出来たなら、俺はそれを実行しようと思う。

女子の第一走者がスタートラインに並び、スタートの瞬間だけ静まり返るグラウンド。どくん、どくんと波打つ心臓の音を断ち切るかのように今、ピストルの音が大きく弾けた。

秋風に廻る世界