04


3日間の職業体験を終えて土日を挟んだ月曜日、心なしか足取りは軽く感じられた。
久しぶりに机に向かう授業が楽しみだとか真面目な理由ではなく、本田さんがあれほどに可愛がっている白石すみれさんが実際にどういった人物なのか、この目で見てみたかったのだ。

季節は4月下旬、まだクラスの半分ほどとしか会話をしたことは無い。白石さんの事もぎりぎり顔と名前が一致している程度で、彼女がどんな人物なのか全く知らない状態でおばあさんからのプレゼンを受けたので、楽しみな気持ちが大きかった。


「はよーす」
「おはよ」


クラスに入れば席が近い男子に挨拶をされたので、俺も軽く返しながら教室内を見渡した。
俺の記憶が正しければ白石さんは窓際の前のほうに座っていたような…居た。白石すみれ、あのおばあさんと、写真に写っていた凛々しい男性の孫娘だ。

いくつかの会話をシミュレーションしていたもののそれはクラスの雰囲気に呑まれて叶わなかった。白石さんは数人の女子生徒と談笑しており、ふと鞄の中からポーチのようなものを取り出した。布製で、少しほつれた感じの、けれど味のあるそれはきっとおばあさんのお手製に違いない。中から何を出すのかと思えばいくつかの飴玉で、それを友人に差し出しているようだ。
おばあさんの手作りをきちんと大切に使っているのを見て、何故か俺が安心した。

それから1週間ほど彼女の様子を観察してみると、本田さんが白石さんに恋人が出来ないのを心配する理由がよく分かった。
あの子は特定の女子数名としか喋っておらず、男子が何かの用事で話しかけても必要最低限しか話していない。授業中にも「私を当てないで」というオーラが漂っているし体育の授業前には心底嫌そうな顔で更衣室へと向かっていた。とても控えめで大人しい女の子なのだ。

おかげで俺はまだ彼女と会話をしていないし、俺の名前すら知られているかどうか。「英太くんみたいな人があの子の恋人だったら」なんて言われたけれど、それはどうやら無理に等しい。本田さん、ごめん。





「ジャスコの職業体験なんてさあ、レポートに書きようが無いよねえ」


翌週日曜日のこと、職業体験のレポート提出を翌日に控えた俺たちはレポートを仕上げるためにあれこれと考えていた。
しかし部活を休むわけには行かないので、頭の中にはレポート、身体はバレーと言った状態で体育館に居る。それがいけなかったのか、すぐ隣で監督の声が聞こえた。


「お前ら気ィ抜いてんのか?」
「えっ」
「いや」


やばい、近くに監督が来ているのを気付かなかった。声の大きな天童のせいだちくしょうめ。


「余裕そうだな。走って来るか」
「う」
「走って来いッつってんだよ!」


ああ最悪だ。ただでさえインターハイ予選のメンバーを決める直前だというのに、こんな事で大目玉を食らうなんてついてない。
俺と天童はなるべく他の部員に見られないように体育館を抜け出して、ふたりだけのロードワークに出る事になった。


「やーっちまったね」
「お前のせいだろ…」
「英太くんだってボーっとしてたじゃん」


それは否めない。レポートの事と、白石さんの事とが浮かんでいたからだ。
そういえば今日は日曜日。今日も彼女は本田さんに会いに行っているんだろうか?


「なあ、コース決めていいか?」
「どこでもいいよ、坂道はヤメテね」


それには俺も了承して、徒歩15分ほどの老人介護施設まで走ることにした。

敷地内に入るわけには行かないので(もし入っていいよと言われても、部活中にそんな事をしたら雷が落ちてくる)入口まで到着すると、先日の記憶を辿りながら建物内の構造を頭の中で整理していく。


「ここ、俺がインターンで来たとこ」
「へえ〜」
「で、あのへんが…」


珍しげにきょろきょろしている天童に説明しながら本田さんの部屋を探す。2階の東のほうだった、確か奥から2番目の部屋。窓から本田さんの様子が見えるかもしれない。
しかし建物の構造上、俺たちが立っている場所からは本田さんの部屋の窓すら見ることが出来なかった。


「…見えない」
「もう行こうよ、怪しまれるよ」
「……んん」


せっかくここまで来たのにせめてひと目でも顔を見たかったな、元気にしているかどうか。でも確かにジャージ姿の男たちが中を覗いているなんて通報されても文句は言えない。
仕方が無いので諦めて真面目に走ろうかと振り返った時、ちょうど施設の門をくぐろうとしている人とぶつかりそうになった。


「あ」


誰かが近づいている事に全然気づかなかった。すみません、と頭を下げると向こうも「こちらこそすみません」と言い、互いに顔を上げた時に一瞬だけ時が止まった。


「……白石さん?」
「!」


そこには白石すみれが立っていて、俺の顔を見て驚いた様子でぽかんと口を開けた。ゆっくりと俺を指さしながら、ええと、と記憶のどこかにあるであろう俺の名前を探している。


「…同じクラスの…?」
「瀬見だよ」
「ああ…」


納得した様子は見せたものの俺たちはこれが初めての会話だ。彼女にとっては俺なんて、ただ顔を見たことがある程度の認識だと思う。けれども俺は違う。あの人が何度でも自慢したくなるような素晴らしい孫、という前情報を持っているから。


「知り合い?」
「いや、クラスが一緒なだけで」


天童が不思議そうに聞いてきたので慌てて誤魔化した。ふうん?と怪しそうにしているが「クラスが一緒」という事に嘘偽りは無い。それ以上の事を聞きたそうにしている天童をどのように無視しようかと考えていると、白石さんが気まずそうに言った。


「じゃあ…また」


軽い会釈をして、白石さんは施設の敷地へ入ろうと一歩踏み出した。
その時彼女の手に持った袋が揺れて、ふわりと香ったその匂いに意識を奪われる。覚えのある香りだ。更には白石さんの持つ袋から覗いているその花も、確かに見覚えのあるものだった。


「それ、…ライラック?」


本田さんの部屋に飾ってあったものと全く同じライラックの花だ。毎週日曜日に白石さんが花を生け替えていると聞いたのを思い出す。


「知ってるの?」


しかし白石さんは俺と本田さんのあいだに何があったかなんて、そもそも関わりがあったことなんて知らない。だから俺が「ライラック」という花の名前を知っていた事にまず驚いていた。
そりゃそうだ、俺だって本田さんに聞くまで知らなかったのだから。


「え、ああ…偶然…?親が好きで」
「ふうん…」


苦し紛れに答えた言葉だったが、なんとか白石さんは納得してくれたらしい。確か珍しい花じゃないと言っていたから疑われずに済んだのかも知れない。悪い事をしているわけじゃ無いんだけど。


「じゃあね」
「おう」


今度こそ白石さんは控えめに手を振って、施設の中へと入って行った。
今から本田さんに会いに行くのだ。ほんの3日間会っただけの俺なのに様子を見に行きたい、けれどあの人は俺を覚えていないだろう。そう思うと「俺、白石さんのおばあさんに会ったよ」という一言を伝える力は無くなった。

天童は建物の自動ドアをくぐる白石さん、を眺める俺を見て何か言いたげだ。俺の顔を覗き込んでくるので避けながら施設を後にしようとするが、やはりまた顔を覗いてくる。


「……誰なのかな?今のは」
「ただのクラスメート」
「ただの?」


なんの変哲もないクラスメートの一人だなんて言わせない、と天童の目が訴えていた。
ここに来たのは間違いだったろうか。いや、白石さんが本田さんの言うとおりにライラックの花を持って会いに行っているのを、この目で見られただけ儲けものだ。


「チョット長めに走ろっか?」


ロードワークが大嫌いな天童がコースの延長を申し出るなんて悪い予感しかしない。走っているあいだは質問責めにあいそうだけど、俺にうまく躱せる話術があるかどうか。

綺語式ロジック