03目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めた。今朝は夢を見る事は無く熟睡できていたかに思える。カーテンを開けるとうっすらと明るくなった校舎が見えた。
今日はあの老人介護施設に行く最後の日だ。
インターンシップ3日目。水道で顔を洗い、タオルで拭いて鏡を見た時に自分の顔が目に入る。寝起きでちょっとぼさぼさの頭、まだ少し眠そうな目、自分としてはこの顔があの古い写真に写る本田さんの旦那さんに似ているとは思えない。が、あの人が適当についた嘘だとも思えない。
今日も1日、本田さんの話を聞いてみるとしよう。さて、俺の事は覚えてくれているだろうか。
「入りまーす」
既に施設内の道を覚えた俺は真っ先に本田さんの部屋へと向かった。ノックをしてから中に入ると、昨日と同じように手元で孫である白石さんへの贈り物を作っているようだ。
「おばあちゃん、来たよ」
「…あら?あらあら、こんにちは」
本田さんはにっこり笑って俺を見た。覚えているんだろうか俺の事を。
「俺のこと、分かる?」
「んん、ごめんなさいね。どなた?」
ああ、駄目だった。昨日と一昨日、あれほどいろんな話をしてくれたのにこの人の頭には残っていないのだ。
俺だけが覚えている。白石さんがおばあさん思いの孫である事や泣き虫である事、古い小物入れを大切に使っている事、ついでに今まで男性と付き合った経験が無いのを話してくれた事。
そして、本田さんの亡くなった旦那さんが俺にそっくりであると、遠くのほうを見ながら話していたのを。
「俺、え・い・た。白鳥沢に通ってる」
「白鳥沢…?ああ、大きなとこね」
「そうそう」
白鳥沢学園の存在は覚えている。過去に知った情報についてはずっと頭に残っているのだろうか。白石さんの事もきちんと覚えているらしく「うちの孫とおんなじ学校」と喜んでいて安心した。
「あなた、どうしてこんなところに?年寄りばっかりでつまんないでしょう」
「そんなこと…職業体験で、学校から来させてもらってるよ」
「へえぇ」
「だから色んな話しよう」
ここでの俺の役割は、おじいさんやおばあさんと会話をしてあげる事だと職員の人に言われた。俺もそうだと思う。
けれど本田さんに限っては違うのだった。本田さんの話をじっくり聞くこと、俺に向かって話せる事はすべて話してもらうことが、俺に与えられた仕事なのだと思う。
「あなたって、うちの人にそっくりだわぁ」
本田さんは俺の顔をじっと見ながら言った。今日は気付かれるのが早かったな、旦那さんと似ているという事に。俺と旦那さんは、少なくとも顔は似ていないはずなのに。
「……うちの人って、旦那さん?」
「そう。英太くんみたいにねえ、優しく笑ってくれてたのよねえ、いつも」
「そうなんだ…」
本田さんみたいな穏やかな人が奥さんだったなら、旦那さんが優しい人だというのも頷ける。いつも笑顔で居る人はそれだけで心が安らぐし、俺自身あまりネガティブな話は得意じゃない。
けれど何かに落ち込んだ時にこんな人が傍に居てくれたら、きっと心の支えになるだろうと思えた。
「すみれはねえ、あ、うちの孫ね。優しい子なんだけどちょっと臆病なところがあって」
「ふうん?」
「だから英太くんみたいな人だったら、上手くやっていけるかしらって思ったわあ。あはは」
昨日と同じく「あなたが孫の彼氏だったら」という事を言われたが今日は驚かなかった。言われるのが二度目だから?それとも、「この人の孫となら」と心の奥底で感じているから?
「……お孫さんって、どんな人?」
「あれよ。あれあれ。取ってくださる?」
本田さんは写真立てを指さした。夫婦のものではなく、家族写真のほうだ。写真を手渡すと本田さんはそれを覗き込んで、白石さんが写った箇所ををとんとん叩いた。
「すみれっていうの。あの子も白鳥沢で、確か高校3年って言ってたけど…知ってる?」
真っ直ぐな目で見られると、ついつい「うん、同じクラスだよ」と答えそうになってしまう。
でも白石さんと会話をしたことが無いし、これから先仲良くなるかどうかも分からない。それにこんな話をしたところで本田さんの記憶からは消えてしまうだろう。それが一番悲しい。だから、また嘘をつくことにした。
「…いや、いっぱい生徒が居るから」
「まあねえ、目立つ子じゃないから…昔はすんごい泣き虫で」
「けど、優しい子に育った?」
「そう。うんっと優しい子」
俺との会話や俺の事は忘れてしまっても、白石さんの事さえ覚えていてこんなふうに話してくれるならそれで良いかなと思えた。優しくて自慢の孫の事さえ覚えてくれているなら。
「ああそうだ。英太くん、そこのボールペン取ってくれる?」
「うん」
同じく棚に置かれたボールペンを手渡すと、本田さんは枕元のノートを開いた。
新しいページをべりっと破いて、ノートのページを遡り、メモ書きされているところを開く。顔をうんと近付けたり離したりしながらそのページを見て、たった今破いた紙に何かを書き写し始めた。
「これがね、すみれの電話番号」
「え!」
得意げに見せてくれたその紙には白石さんの携帯電話番号が書かれていた。わざわざ書き出したという事は、もしかして。
「どうぞ」
「え!?」
なんと、それを俺に差し出してくるではないか。孫の個人情報を勝手に教える事に抵抗は無いのだろうか、いくら本田さんが俺を気に入ってくれていても俺は男だし、何をするか分からないのに(何もしないけど)。
「俺、でもっそんなの勝手に」
「いいのいいの。気が向いたら電話してあげて。あなたきっとすみれと仲良くなれる」
「そうかな…」
「素敵だもの。若い頃のあの人と一緒にいるみたい。って、年寄りの冗談。あはは」
しかし、そう言われるともう断る事は出来ないのだった。なぜだか旦那さんと俺を重ねている本田さんに、そこまで言われてしまうと。
白石さんのおばあさんお墨付きで「仲良くなれる」のは良いのだが、果たして仲良くする機会が訪れるかどうか。そんな事を考えながら「じゃあ…」と紙の切れ端を受け取って、財布の中に入れておいた。
「あそこのあれ、見える?」
今日も本田さんはお喋りが楽しいようで、次は写真立ての横にある小さな箱を指さした。
きっと「取って」という意味なんだろうなと思いそれを本田さんに手渡すと、大事そうにしばらく見つめた後に蓋を開けた。中には一昨日俺に見せてくれた時と同じく、旦那さんの形見が。
「…指輪?」
「そう、形見」
本田さんは指輪を取り出して手のひらに乗せた。少し錆びているけど、大切に磨いているのか綺麗な状態だ。しかしそれをよく見てみると、本田さんの手が小さいのもあるけど、旦那さんの指輪はとても大きいように思える。
「旦那さん、力仕事してたの?これ、すげえ指が太そう」
「そうそう。農作業とか。英太くんぴったりなんじゃない?つけてみたら」
「俺!?できないよ」
「いいから」
なんということか、白石さんの電話番号のみならず旦那さんの形見まで差し出されてしまった。大事なものを俺が触ってはいけないからと断ったけど「大丈夫だから」の一点張りで、仕方なく受け取る事にする。
そして本田さんが期待のこもった目で見つめてくるので、自分の左手薬指にはめてみる…と、すんなり入った。俺にとっても大きいようだ。
「…ぶかぶかだ」
「あら」
「強かったんだなぁ、旦那さん」
俺は力が強いほうだとは思うけど、だからって力仕事に自信があるわけではない。そういうのは隼人とか若利のほうが得意だと思う。なんたって気付けば筋トレをしている連中だ。
「これとおそろい」
本田さんは自分の左手をかざして見せた。小さくてしわしわの手の、細い薬指にはきらりと光る華奢な指輪がはめられている。これも手入れを怠っていないのだろうと思えた。亡くなった旦那さんとの思い出の品なのだ。
「おばあちゃん、手ちっちゃいね」
「か弱かったからねえ」
「ふーん、ホントかな」
「やだもうこの子!あはは」
本田さんはまるで少女のように、照れくさそうに笑ってみせた。それまで柔らかい笑みだったその顔に花が咲いたような明るさが混じり、俺はその顔を見て確信した。旦那さんは、本田さんのこの顔を愛していたんだろうなと。
この人が85歳という年齢でなければ、もしも俺と同年代だったなら、俺も旦那さんと同じようにこの人に惹かれるに違いない。
もっと話を聞きたい、すでに知っている事でも、これから教えてくれる新しい事でも。
「それは何?」
本田さんの枕元に置かれた裁縫道具を指さして、俺は聞いてみた。聞かなくたって知っている。大切な孫娘のために作っている最中の小物入れだ。
「ああ、これ?すみれにあげようと思って…まだ途中だけど。見てみる?」
「見せて」
もちろん頷いてみせると本田さんは嬉しそうに作りかけのそれを広げた。昨日からあんまり進んでいないけど、やはり器用である。
「すげえ、おばあちゃん上手だね」
「やだわあ」
「ほんとだよ」
「あなたって本当に優しい人ね」
優しい人、と言われてどくりと心臓が波打つ。俺は優しさでこういう事をしているわけじゃなく、自分の祖母と接する代わりに本田さんとの関わりを深めようとしているのだ。それがだんだん本田さん自身の人間性を素晴らしいと感じ、この人の旦那さん、孫の白石さん、関わっている全ての人が俺をあたたかく包んでくれているような気になるのだ。
「…俺はべつに、普通だと…」
「もしね、英太くんがすみれと会う事があったら、一声かけてやって。なんでもいいから」
お年寄りとは思えない力で、ぎゅうと俺の手を握られる。
この話を黙っておくか、白石さんに伝えるか決めかねている俺は本田さんと目を合わせることが出来ない。だって俺がこの3日間の想い出を大切にしたところで、この人の記憶からは消えてしまうのだ。
それでも今は、わかった、と言えば本田さんは笑顔になる。無責任な答えだとは思いつつも「わかった」と言うと、本田さんは満足そうに微笑んだ。
◇
「…えーたくん。えいたくーん」
「わ。」
その日の夜、部屋に入ってきた天童の声で目が覚めた。なぜだか疲れきっていた俺は早々に眠りこけていたらしい。
「どうだった?俺ジャスコでこれ貰ってきたよーん、食べる?」
天童は「起こしてごめんね」などの言葉も無く(むしろ入浴前に起こしてくれて感謝だ)、インターン先で貰ってきたというお菓子をばら撒き始めた。
「さんきゅー。」
「ネネネ、そっちはどうだった」
「どうって…まあ…」
どこまで話せば良いのだろうか。本田さんの話をすべきか、だとしたら白石さんの事も話さなくてはならない。いくら相手が天童でも、ここ数日の出来事を他人に話す気にはなれなかった。まだ自分の中でもしっかりと消化できていないのに。
「楽しかったよ。いろんな話聞けて」
「それってやっぱり戦争の話とか?」
「そういう話もあったけど…」
本田さん以外の人からは確かに戦争の話とか昔の話をたくさん聞いた。でもそのほとんどは心に残っていない。もちろん記憶には残っているけれど、俺の心には残っていないのだ。
「…レポート、何書くか悩むな」
「げっ。忘れてたぁ」
俺にしては上手く話をそらすことに成功した。このインターンシップの内容はレポートにして発表しなければならない。何をどこまで書くべきか。
とても悩ましいけれど天童が「俺なんか、布団売り場に立ってただけだよ」と笑っているおかげで、俺も愛想笑いを作ることが出来た。
クリア・クオリア