08


失恋をしたときは物語の主人公のような気分になりがちだ。
自分が一番つらい、一番苦しい、一番悲しいのだと錯覚してしまうけど白石さんはそうでは無かった。俺は佐々木先生への嫉妬を表に出さないようにする事で精一杯だったのに、白石さんは早くも佐々木先生の結婚を受け入れようとしているのだ。用意した誕生日プレゼントを渡そうと提案した俺に頷いてくれた。

無神経だと言われても仕方が無い事なのに、白石さんはそうは言わなかった。俺が何も考えずに「渡そう」と言ったわけではない事を、分かってくれていたのだと思う。


「今日の放課後、渡そっかな」


保健室から教室への帰り道、白石さんが言った。行動の早さに感服しながらも「そうしなよ」と伝えると、白石さんは頷いた。


「……ねえ、夜久くん」
「ん?」
「放課後、ついてきてくれないかな…」


白石さんが、佐々木先生へプレゼントを渡しに行くのに付き添ってほしいと。そう頼んできた。

数日前の俺だったらこんな頼み事、断りたくして仕方が無かっただろうけど、不思議と今は嫌な気分がしなかった。
すでに佐々木先生が入籍済みで、白石さんに望みが無いのを分かっているから?違う。白石さんが佐々木先生への思いをどのように完結させるのか、果たして告白をするのか、告白された場合に先生はどんなふうに彼女を諭すのか、それを知りたい。全部見届けたいのだ。





ホームルームが終わり、放課後になると白石さんは鞄を持って立ち上がった。
午後の部活には参加するつもりらしく、着替えの入った大きな鞄も下げている。その中にはこのあいだ見かけたものと同じくラッピングされたプレゼントの袋が入っていた。


「ごめんね、こんなの付き合わせて」
「ううん」
「一人で渡せよって思わない?」
「そんな事…」


思わない、と答えるのは不自然だろうか。それでも「是非ついて行きたい」と言うよりは良いだろう。
先生の誕生日と同じように並んで体育教員室に向かうあいだ、やはり同じように白石さんは静かだった。あの時はうきうき・どきどきが入り混じった緊張のせいだったろうけど、今は…


「夜久くんが居ると勇気が出るね」


感情を押し殺しているかのように静かだ、と思っていた時に白石さんが言った。


「…そお?」
「うん、去年のリレーの時もそうだったなあ」


白石さんのほうを見ると想像よりも顔の筋肉が和らいでいて、去年の事を話し始めた。

去年の体育祭、一緒にクラス対抗リレーに出た日。俺が白石すみれという女の子を好きになった日だ。あの日、リレーのアンカーなんて初めてだった俺に話しかけてくれて力が抜けたんだったかな。


「あの時は白石さんのほうが、俺の緊張を解いてくれた気がするけど…」
「そうだっけ」
「そうだよ。俺ガチガチだった」
「ほんと?」
「マジマジ」


手と脚が一緒に出そうだったもん、と言ってみせると白石さんは歯を見せて笑った。この顔をいつか自分のものにしたいなんて、今こんな時に思ってしまうとは。


「…着いたね」
「うん…」


体育教員室のドアを前に、あの日のことを思い出しているのは俺だけじゃないはずだ。

このドアの向こうから聞こえてきた声で佐々木先生の結婚を知り、白石さんは失恋した。
それでも好きな気持ちが簡単におさまるはずはない。けれども学校をずっと休むわけにもいかない。白石さんの苦しさは嫌というほど良く分かる。好きな人に、自分とは違う別の相手が居るなんて耐えられないじゃないか。身をもって知っているんだ、俺は。


「あれ、どした?」


その時背後から聞こえた声にふたりとも息を止めた。今、俺たちがまさに会いに来た人物の声だったのだ。


「……佐々木先生」


振り返ると佐々木先生が立っていた。研磨のクラスのホームルームが終わったところだろうか。先生は白石さんの姿を見て優しく声をかけた。


「白石、もう体調平気?」
「へ、平気です。あとで部活も出ます」
「そっか」


佐々木先生が穏やかに笑うと、こっちまで不思議とあたたかい気分になる。休んでいた原因が自分だと知ったら悲しむだろうな。


「……先生。」
「ん?」


白石さんの呼びかけに先生が首を傾げる。隣に居る白石さんの手の中で、プレゼントの袋がぎゅうと握られるのが分かった。どくん、と俺にも緊張が走る。白石さんがゆっくりとプレゼントを前に差し出すのがとても長く感じられた。


「…遅れちゃったんですけど。お誕生日…あと…結婚、おめでとうございます」


結婚した事を祝う言葉が出てくるとは思わず、黙って見守ろうと思っていたのに少しの声が漏れた。幸いにもふたりには聞こえていなかったようで、佐々木先生は困惑しながらもプレゼントに目を落とし、そしてもう一度白石さんを見た。


「……これ、くれるの?」
「ハイ」
「おお…ありがとう、ありがとな」


佐々木先生は笑いじわを沢山作って、大事に使うよとお礼を言った。
白石さんはこの笑顔を見て喜んでいるだろうか、もしかしたら悲しんでいるかもしれない。先生の笑顔はもう、奥さんのものだから。


「せんせ、あのう」
「んー?」
「奥さんと、幸せですか?」


俺は白石さんの一歩後ろに下がりなるべく静かに見届けようとしていたので、そのように尋ねる彼女の顔は見えなかった。
反対に佐々木先生の顔はとてもよく見える。白石さんに質問された瞬間にきっと奥さんのことを思い浮かべて、抑えきれていない幸せが表情に表れているのだ。


「うん。いい人もらえて良かった」
「………」


それを聞いた瞬間、その顔を見た瞬間に、先生は今の人と結婚して正解だったのだと思えた。白石さんの失恋が妥当だったわけではない。佐々木先生がその人と出会えて結婚をしたという事が、彼の人生において正解だったのだと。


「白石もいつか素敵な人と会えたらいいな。優しい子だからきっと大丈夫だよ」


佐々木先生は白石さんの肩に優しく手を置いた。白石さんは俯いたまま、はい、とかすかに返事をした。どんな顔だったのかはやはり分からない。先生からは見えていたと思う。先生が彼女の顔を見てどんな反応を見せるのだろうと目線をあげると、俺と佐々木先生の目が合った。


「じゃあな」


先生は俺に向かって声をかけ、体育教員室へ入っていった。
俺がどうしてこの場に居るのかを聞かなかったという事は、先生は少なくとも俺の気持ちには気付いているのかも知れない。





部室への道を歩くあいだは無言だった。毎度ながら白石さんへかける言葉が見当たらなかったのだが、彼女はまっすぐ前を向いたまま歩いている。悲しんでいる様子はない。喜んでいる様子もない。プレゼントを渡し終えた事に満足しているのだろうか。


「渡せて良かったな」
「うん」


白石さんはこくりと頷いた。それ以上のことは言わない。


「…先生、良い人だよな」
「うん」


もう一度、白石さんは頷いた。それ以降ずっと黙っているので、やはり何も言わないほうが良かったか。と、後悔しかけた時に白石さんが口を開いた。


「…結婚するほど好きって、すごいね。死ぬまで一生その人と居たいって思えるなんて」


前を向いたままの彼女の口から出てきた言葉は、佐々木先生とその奥さんへの賞賛であった。羨ましいな、という気持ちも込められていただろう。


「先生はああ言ってたけど…私も誰かにそう思ってもらえる日が来るのかなあ」


佐々木先生は、いつか素敵な人に会えたらいいな、と白石さんに声をかけた。そこまで思ってくれる人に会えたらいいなと。
まだ高校3年生の俺たちが将来を予測するなんて不可能だ。でも、白石さんを大切に思っている人は居る。すぐそばに。今ここに。


「来るよ。きっと来ると思う」


今日のところの俺はこんなふうにしか伝えることが出来なかったけど。「そうだといいな」と白石さんは優しく笑った。

今のぼくにできる精一杯のホント