ソーシャルネットワークサービスはとても苦手だ。登録するのが面倒だしパスワードをいちいち設定しなければならない、自分の情報を公開するのも気が進まないしだからと言って「やってない」と言うと周りの空気を悪くする。

とりあえず登録しただけのSNSなのにどこからかクラスメートや中学の同級生まで俺のアカウントを発見してくる。
面倒くさいのでやっぱり削除しようかと思っていた矢先の出来事だった、白石すみれという女の子が俺をフォローしてきたのは。


『元気にしてますか』


届いたメッセージに目を通す。俺は白石すみれを知っていた。まだ小学生だった頃、どうしても逆上がりができなくて近所の公園で泣いていた同級生の女の子だ。
どうして俺のアカウントを知っているのだと思ったが、「あなたの知り合いかも」なんて表示がされるのでそこに俺の名前が並んでいたのを見つけたのかも知れない。


『元気です』


返信しながら白石すみれの事を思い返した。小学1年生のとき、初めて出会ったその子は公園の鉄棒を占拠していた男子の近くで鉄棒が空くのを待っていた。俺がその日公園に行った理由は何だったか覚えていないけど、とにかく家の近所だからよく公園で遊んでいたのだ。

なかなか空かない鉄棒の近くで座り込む女の子、俺も「代わりばんこでやろうよ」と男子に声をかける事も出来ず、けれど俺も鉄棒をしたくてとりあえず女の子の隣に腰を下ろしたのだった。


「逆上がり?」


声をかけたのは確か俺のほう。彼女はうん、と頷くけれども目線は鉄棒に向けたまま動かなかった。すり傷だらけの女の子の膝を見て、瞬時に逆上がりの練習で負った傷だと判断した幼き俺は「ぼくも」と言った、ような気がする。

小さな子どもの門限は早い。数十分のあいだ鉄棒にいそしんでいた彼らはやがて空にグラデーションがかかり始めると、ぱらぱらと鉄棒から離れて行った。
そしてやっと立ち上がった女の子は2種類ある鉄棒の、低いほうへと歩いていく。


「帰らなくて大丈夫?」
「うん。家、そこ」


指さす先にはすぐに一軒家があって、ああ、いつもこの公園で遊んでいる時に良い匂いがしていたのはこの子の家からだったのか、と思った。
その日も美味しそうな夕食のかおりが漂ってきたが女の子はそんなことに興味が無いようで、鉄棒に手を伸ばし、ぐっと握力をこめ、思い切り地面を蹴った。


「苦手なんだね」


何度挑戦しても逆上がりができないその子に俺は言った。今思えばわざわざ「苦手なんだね」なんて言う必要も無かったが。


「できないの、私だけなんだもん」
「ぼくも下手だよ」
「うそ」


小さい頃の俺は嘘が下手くそであった。俺は既に自分が他よりも脚が速く、身体を動かす事に長けている事はなんとなく分かっていた。それが自慢でもあったから、とっさに「自分も逆上がりが下手」だと嘘をついた理由は分からなかった。


「ほんと。見て」


けれどとにかく嘘を吐き通そうとした俺は鉄棒を握り、いつもなら軽く地面を蹴ってくるりと回転できるところを敢えて失敗した。わざと出来ないふりをした。逆上がりができない事を「かっこ悪い」と思っていたはずの小さな頃の俺が。


「難しいよね」
「うん…」
「でも、たぶん、練習したらできるよ」


てきとうな事を言った俺だったけどその言葉は女の子にとても響いたようで、白石すみれはそれから毎日鉄棒のところへやってきた。俺も通っては一緒に鉄棒をした。彼女が1か月後、親の都合で引っ越してしまうまでは。


『私の事分かる?』
『うん、覚えてる』


SNSのやり取りはテンポが良く、とまでは行かないけれどずっと続き、今は俺が梟谷学園に通っている事・彼女は幼少期、千葉県に引っ越して行った事などを話した。

そんなに遠くではなかったんだな、と思ったけれどそれ以上のことを聞く事はなく、聞いてどうするんだろうと考えると指は動かなかった。
SNSを介して昔の友人・知人とつながり合う事は珍しくない。俺も嫌々ながらに登録したSNSでイマドキの再会を果たした、ただそれだけの事だ。


学校帰りにいつもの道を歩いていると子どもたちの騒ぐ声が聞こえて、振りむけば公園の鉄棒で男の子たちが遊んでいるところだった。
小学校低学年くらいだろうか、しかし身体は大きくてガキ大将みたいな感じの、あの時鉄棒を占拠していたような男の子。

鉄棒の前にはちいさな女の子が座っていた。まるで鉄棒が空くのを待っているみたいに。


「逆上がり?」


声をかけたのは俺ではない別の人物だった。その女の子と同世代でもなくむしろ俺と同世代の高校生が、体育すわりをする女の子の隣にしゃがみ込み、スカートが汚れるのも気にせずに地面にぺたりと尻をつく。
小さな女の子はうん、と頷いた。

何の根拠も無かったけれど、俺はこの高校生が自分の知っている人物だと確信した。


「帰らなくて大丈夫?」
「うん。家、そこ」


指さす先にはかつて白石すみれが住んでいた一軒家があったが、建て替えられたのか違う家族が住んでいるようだ。とにかく家の真ん前ならば安心か、昔ほど治安は良くないけれど。


「座る?」


俺がすぐ後ろまで歩み寄ってきている事に気付いていたみたいで、白石すみれに声をかけられた。
無言で頷いて、ちいさな女の子をはさんだ反対側に少し離れて座ってみる。もはや「あなたは誰?」と聞く必要も聞かれる必要も無いようだ。

「代わりばんこでやろうよ」と男の子たちに声をかける事はしなかった。子どもの世界にそんな介入をするのは良くないような気がして。
そしてそれは彼女も同じだったらしく、空がオレンジに染まり始めるまでの数十分ほど、俺たちは3人並んで地べたに座っていた。

そろそろ帰ろう、お腹がすいた、と男の子たちは散り散りにそれぞれの家へと走って行った。彼らもこの近所に住んでいるらしい。最近立派なファミリー向けのマンションが出来たから、そこに住んでいるのかもしれない。

男の子の姿が見えなくなると、俺と白石すみれのあいだに座っていた女の子が立ち上がった。ふたつ並んだ鉄棒の低いほうの前に立ち、ぐっと握力をこめ、思い切り地面を蹴った。


「苦手なんだね」


何度か失敗する様子を見て、白石すみれは女の子に声をかけた。


「できないの、私だけなんだもん」
「私も下手だよ」
「ほんと?」


女の子の顔は明るくなった。あの頃の俺は嘘が下手で、逆上がりが苦手であるという嘘をすぐに見抜かれてしまったが、高校生の白石すみれは見事女の子の表情を一変させることに成功したようだ。


「うん。見て」


10年前よりもすらりと伸びた手足で立ち上がり、高いほうの鉄棒を持った白石すみれは思い切り地面を蹴った。
まずい、スカートの中が見えてしまうのでは?と思った時にはひらりとなびいたその中にしっかりと黒いスパッツが着用されているのが目に入り、安心したような、残念だったような、俺もあの頃から10年進んだ感情に襲われた。

白石すみれは逆上がりを失敗してみせると女の子と目線を合わせ「難しいよね」と頭を撫でた。


「うん…」
「でも、たぶん、練習したらできるよ」


その言葉に女の子はひどく感銘を受けたようで、ありがとう!と今日一番の笑顔を見せた。
同じ台詞は発言する人物によってこうも変わるものなのか、それとも女どうしだからか。

やがて母親らしき人が「暗くなるから帰っておいで」と呼びに来たので、女の子は勢いよく立ち上がると全力で走って行った。


「逆上がり、まだできないの?」


立ち上がり、制服についた砂をはらいながら久しぶりに会った彼女に声をかけた。再会して初めての会話がこんな内容だなんて不思議である。


「できるよ。できた時、一緒に居たでしょう。そこに」


彼女は俺の足元を指さして笑った。確かに俺はこの場所で、初めて逆上がりを成功させた現場を見届けた記憶がある。飛び上がって一緒に喜んだ記憶が。
俺が不思議そうにしているのがおかしかったのか、「ふふ」と唇を噛みしめながら声を漏らすのが聞こえた。先程ゆっくりと後ろに近づいた俺の事を、どうして俺だと分かったのだろう。


「…俺が京治じゃなかったらどうする気だったの?すみれ」
「私がすみれじゃなかったらどうする気だったの?変質者だよ、京治」
「それもそうか」


女子高生と小さな女の子の背後に見知らぬ男が立つなんて、確かに怪しい。すみれはこんな冗談が言えるほどに大人になっているようだ。
元々長かった髪は艶やかさを増して、真ん丸だった頬は相変わらずなのに華奢で、あの時は深く考えなかった性別の違いを思い知らされる。男の俺は透き通るように白い肌から目を逸らし、ありきたりな言葉でその場を凌いだ。


「ひさしぶりだね」
「うん」
「何で急に?」


千葉に引っ越したはずの彼女がどうして東京の、都心から離れた公園に来たのか。尋ねるとすみれは長い髪を耳にかけながら携帯電話を取り出した。


「…京治の名前見つけた瞬間に、あの時のことがよみがえってきて」


開いた画面は俺が最近嫌々はじめたソーシャルネットワークサービスだ。初めてすみれからのメッセージを受け取り久しぶりに白石すみれの名前を見た時、俺も同じようにあの時のことが頭に浮かんだ。そして、


「会いたくなっちゃった」


会いたくなったのだ。けれども「久しぶりに会いたいね」などと簡単に言えるほど素直に育つことはできなかったし、俺がすみれと過ごしたのはほんの1カ月程度、彼女が引っ越す前は確かクラスも違ったし、この公園の中でしか関わりを持たなかった。

逆上がりが下手だったすみれが上達するまでを見届けただけに過ぎないのに、会いたいね、なんて言い出しづらい。会いたくなった、と言われて嬉しい顔をするなんて、俺にはできなかった。


「…そっか」
「背、伸びたねえ」
「まあね」
「私なんか、ほら。こんなに」


すみれは一歩、二歩と俺に近づき目の前に立った。あまり変わらなかった身長は俺のほうがうんと高くなり、下を向いても見えるのはすみれの前髪の生え際くらい。
それなのに突然すみれが上を向くから目が合いそうになって、思わず鉄棒のほうへと顔を向けた。


「…あのとき、俺がほんとは逆上がり得意だって気付いてた?」
「どうかな」


どうかな、というのはどういう意味だろう。横目ですみれの顔を見ると、やはり表情全ては見えなかったものの長い睫毛が数度のまばたきで揺れるのが見えた。


「でも、京治が優しい人だなって思ったのは覚えてる」


そのように喋る唇がうるおっていて少しだけ孤を描いていたのも見えた。
あの日の俺は優しさで嘘を吐いたわけではなく、目の前に逆上がりができない子が居るのに俺が「出来る」と答えてしまうのは彼女を傷つけてしまうんじゃないかと思ったのだ。…けど、そういえばそれは「優しさ」と呼ばれるものか。


「…そろそろ帰らなくていいの?」
「どうして?私もう高校生だよ」
「そうじゃなくて。家、千葉県だろ」


千葉からここまで来るのは、いくら隣の県と言えど時間がかかる。まして今から帰るとなるとすっかり暗くなり危ないんじゃないか。けれど、俺の心配なんか要らない様子だった。


「今日から東京だよ」


しれっと言い放つすみれの悪戯な瞳に何秒間か奪われたのち、やっと理解した。今日から東京、という短い言葉の意味を。


「……うそ」
「ほんと」
「うそだろ」
「嘘つかないもん」
「逆上がりは?」
「出来るよ」
「うそだ」
「もう!ほーんーと」


俺はびっくりして開いた口が塞がらないと言うのに、すみれはけらけら笑って鉄棒のところへと走った。
鉄棒をぐっと握り、思い切り地面を蹴って豪快にぐるんと一回転。スカートの中は残念ながら先ほどと同じ光景だったが確かに逆上がりはできていた。いや、そうではない。そうではないのだ、今言いたい事は。


「来週から梟谷に通うの」


続けて聞こえてきた言葉にも「え?」と大きな声をあげてしまい、すみれがぷっと吹き出した。驚きすぎだよと笑うけど驚くに決まっているではないか。


「……うそ」
「本当だってば」


けれど、すみれが今着ている制服は梟谷のものではない。それを指摘すると、これは前の学校の制服で、今朝学校にお別れのあいさつに行ったから着たままなのだと言った。


「家はすぐそこ」


指さした場所は先ほど小さな女の子が入って行った家の、すぐ向こう側。本当にすぐ近くだ、おれの家から歩いてすぐで、この公園まで歩いてすぐ。


「…引っ越してきたんだ?」
「そう」
「じゃあSNSで俺の名前を見たから会いたくなったっていうのは」
「…うそ。だね。ふふっ」


また上手な「うそ」をつかれた事も腹立たしくて悔しくて、あっそう、としか言えなかった。会いたくなったと言われた時に感情を表に出さなくてよかった。

すみれはまだくすくす笑っている、東京に戻ってきたのが嬉しいのだろうか。またはこの公園の近くに戻ってこられたのが嬉しいのか。それとも何か別の理由。いや、その「別の理由」はまだ考えてはならないはずだ。
でもどうしたって考えてしまう。また俺の近くに来られた事が嬉しいのではないかと。


「昔みたいに仲良くしてね。あ、逆上がりはもう見てくれなくて大丈夫だけどっ」


来週の月曜日からすみれは梟谷へ通う事になった。すっかり逆上がりが上手になった彼女の世話なんてする必要はないだろう。昔みたいに公園の地べたに座ったり、家のお菓子をこっそり持ち出して一緒に食べたり、散歩中の犬に吠えられて泣く彼女をなぐさめる必要もないと思う。
だから昔みたいに仲良くするというのはとても難しいのではないか。あれから10年も経っているのだ。


「昔みたいには…」


昔みたいにはいかないよ、俺は男ですみれは女の姿に成長してしまった今は。
未だに嘘をつくのが苦手な俺はそこから先を上手な嘘で隠す事ができなくて、しりすぼみになった声を咳で誤魔化した。

きっと不可逆の夢を見ている
こちらの夢はHot Dog!の斎藤さんに献上いたします。お誕生日おめでとうございます!