02


「英太くんはすごいねえ、おばあちゃんの自慢の孫だよ」


久しぶりに祖母の夢を見た。

去年の夏に亡くなってからお墓参りには一度しか行けていない。「全然顔を見せてくれないじゃないの」と笑いながら叱る姿が目に浮かぶなあと身体を起こせば見慣れた寮の自分の部屋で、ちょうど部屋のドアをノックされたところだった。


「英太くんオハヨー」
「はえーな…はよ」


時計の針は5時15分を指していた。
時々天童は勝手に部屋にやってきて、勝手に喋りたい事を喋り、飽きたころに去っていく。今日は俺も目が覚めたのでそれに付き合ってみる事にした。それに、なんとなく誰かと一緒に居たい気分だったのだ。


「どこ行ってんの?インターン」
「老人介護施設」
「うわあ〜似合う」
「そうか?天童はどこだっけ」
「ジャスコ」
「ジャスコって」


けっこう楽しいよ、と笑う天童の様子を見ると、授業や部活でずっと学校に缶詰なので良い気分転換になっているらしかった。こいつが授業を真面目に受けているのかは知らないが。


「老人介護施設って、あれでしょ?老人ホームでじいちゃんばあちゃんの話し相手」
「まあそんな感じ」
「英太くんってじじばばにモテそうだね。どう?楽しい?」


楽しいか、と聞かれると分からなかった。昨日話した本田さん、白石さんのおばあさんとの会話は楽しかったというよりも俺を不思議な気分にさせてくれた。
老人特有のゆっくりとした喋り方や空気感がそうさせたのかも知れない。毎日練習に明け暮れている俺の切羽詰まった心を解してくれたような。俺にとっても気分転換になっているようだ。


「楽しいっていうか、ためになるよな。お年寄りの話って」
「そんな深イイ話したの?」
「まあ…俺、去年ばあちゃん亡くなったから。そういうの思い出して、ちょっと懐かしい感じもする」
「…そういやそんな事があったね」


去年の7月上旬、体育館で俺の名前を呼ぶ先生の声が響いた。
練習中だったその場の全員が何事だろうと動きを止めたが祖母が亡くなったとの報告で、その日だけ練習から抜けてすぐに荷物をまとめて実家に戻ったのだ。
天童もその時同じ空間に居たから覚えているのだろう。そして、「ちなみにジャスコはねえ」と自分の話に切り替えた天童には少しだけ有難みを感じた。





朝練を終えると今日はインターンシップ2日目。全部で3日間あるインターンシップ、はっきり言って老人介護施設は「職業体験」という感じはしないけど、なかなか祖母の墓参りに行けない自分にとってはこれで少しだけ罪滅ぼしをするような気分になる。


「今日の本田さんはねー、朝から元気だったよ」


と、施設のスタッフさんが本田さんの事を話してくれた。
85歳を迎えるおばあさん、本田さんは同じクラスの白石さんの祖母らしい。俺は白石さんとは同じクラスになったばかりで話したことは無いが、本田さんの話を聞く限りではおばあさん思いの良い子なのだろうと思った。

昨日と同じように「喋ってあげて」と命を受けた俺は本田さんの部屋まで行き、ドアをノックする。返事は無いけど確か昨日も返事が無いまま開けていたよな、と思いドアノブをゆっくりと回した。


「…オハヨウゴザイマス」


ドアを閉めながら挨拶をすると、裁縫か何かをしていた本田さんが顔を上げた。
窓からの光のおかげか顔色が良さそうだ。ぎこちなく笑いかけてみる俺を見て、本田さんは目を丸くした。


「あら、大きい子ねえ」


その瞬間の違和感は、俺の表情を凍らせる。昨日と全く同じ台詞だ。
俺の顔が良く見えないのだろうか、とベッドの脇まで近づいて椅子に座らせてもらい、目線を合わせてみた。


「おばあちゃんおはよう。英太だよ」
「え?何くん?」
「え・い・た」
「…えいたくんって言うの?まあぁ、いくつ?若いねえ」


俺は確信した。本田さんは俺の事を覚えていない。昨日の出来事を覚えていないんだ。
認知症というやつだろうか。たとえ認知症ではなくとも加齢によって物忘れが激しくなると聞いた事もある。

一瞬戸惑ってしまったけれど本田さんはのんびりしていて、持っていた裁縫道具を膝の上に置いた。


「どうしたの、ええと、何くんだっけ」
「英太だよ。白鳥沢学園に通ってる。高校3年」
「白鳥沢…?ああ、あそこの大きいところ」
「そうそう」
「まあぁ、すみれと同じ学校?」


俺の事を忘れられているのも結構ぐさりと来てしまったけれど、愛する孫の事まで忘れていたらどうしよう?その心配には及ばなかったらしく、本田さんが自ら白石さんの名前を出してくれた事にほっとした。


「すみれさんって、もしかしてアレ?」


俺は棚に置かれた写真立てを指さした。昨日の会話を利用して話を弾ませてみようと考えて。
本田さんは俺が写真立てに気付いたことが嬉しかったのか、うんうん頷きながらそれを手に取った。


「そう。優しい子なのよ、泣き虫なんだけどねえ。昔っから人の心が分かる子で」
「そうなんだ」
「いまもね、毎週日曜日に会いに来てくれるの」


不思議だ。昨日聞いたのと同じ内容なのに全く苦ではない。俺自身に老人の相手をするのが向いているのか、それともこの人だからなのか、俺の祖母がつい昨年亡くなったからなのか。


「けど、人見知りって言うのか…自分から話しかけるのが苦手な子で。彼氏のひとりも出来た事がないって」
「へ、へええ」


意図せずクラスメートの恋愛事情を聞いてしまって、少し申し訳ない気持ちになる。
確かに白石さんはどちらかというと控えめな印象だ。クラス替えをしたばかりだから、俺もまだ話しかけられた事は無い。ただ、友達は居るようなので学校生活が辛そうでもないと思う。


「英太くんみたいな人が彼氏だったら、おばあちゃん安心して死ねるんだけどねえ」
「えぇ!?駄目だってそんな事言ったら」
「あっはっは」


お年寄りってこういう冗談を言うから時々困る。安心して死ねるとか、孫が心配でまだまだ死ねないわ、とか。
更に孫の交際相手として俺みたいな人だったら、なんて言うもんだからどんな顔をすればいいのか分からなかった。今の俺の顔を天童が見ていたら写真でも撮られてしまいそうだ。


「…おばあちゃん、それ何?」
「ん?」


別の会話にすり替えようと、俺は本田さんの膝元に置かれたものを指した。俺が部屋に入ってきた時に作業していたもの。何かを手作りしている最中のようだ。


「ああ、これ?すみれにあげようと思って。おばあちゃんこういうの得意なの。広げてみ?」
「うん」


針が刺さったままでない事をこっそり確認して、本田さんが作っていたそれを広げてみる。
どうやら小物入れのようだ。年を取ってあまり細かい所が見えないはずなのに丁寧で、俺には到底作れそうもない。


「すげえ。便利そう」
「でしょう。今使ってるのは7年か8年前にあげたやつだから。新しいのあげないと」
「喜ぶよきっと」
「そう?優しいね、英太くんは」


くすぐったい。俺は自分を優しい人間だとも、悪い人間だとも思った事は無い。
また会話を続けるのに困ってしまってきょろきょろと部屋の中を見渡した。本田さんはそんな俺を見て、俺が気を遣っているのを気付いているかもしれない。作りかけの小物入れを再び膝にそっと置いて、ねえ、と話しかけてきた。


「英太くんは背が高いねえ」
「え、ああ、うん」
「いくつ?」
「えー…180」


本当は179だけど、1センチ盛ったところで罰は当たらないと信じる。「179」と言うより「180」と伝える方が聞き取りやすいだろうし。


「まあぁ!すごいねえ」
「いやあ…」
「何かスポーツでもやってるの」
「うん。バレーボールって、知ってる?こういうやつ」


俺はポケットから携帯電話を取り出して、練習中の写真をいくつか拡大して見せた。本田さんは「ああ、オリンピックで時々見るわ」と感心していたのでバレーボールの事は知っているらしい。


「英太くん、これやってるの?」
「うん」
「まあぁ」
「おばあちゃん聞いて。うちの学校、宮城でバレーボールの一番なんだよ。すごくない?」
「宮城で!」


本田さんは心底驚いたようで、それはすごいわぁ、と何度も繰り返していた。
自慢で言ったのではなく、単純に自分が県内トップの強豪校でバレーをしているのを聞けば喜んでもらえるんじゃないかと思ったのだ。俺の祖母だって、ずっとの夢だった白鳥沢に推薦で合格できた時には顔をくしゃくしゃにして喜んでくれたから。


「それは、英太くんのおばあちゃんもきっと自慢ね。みんなに自慢してると思うわ」


同じように顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた本田さんに、自分の祖母の姿が重なった。俺がレギュラーになり、インターハイに出る姿を見るのを心待ちにしていたのに、その直前に亡くなってしまった祖母の姿が。


「……だといいなあ」
「ん?」
「んーん、なんでもない」


結局インターハイでの優勝は叶わずに終わってしまったけど、せめてテレビの画面越しでもいいから見て欲しかった。自慢の孫だって言ってもらいたかった。もう無理だけど。

俺が自分の膝に目を落としていると、本田さんがじっと俺の顔を見ているのに気付いた。暗い顔をしているのがバレてしまっただろうか?と焦ってしまったけど、どうやら違ったらしい。


「あんた、うちの人にそっくり」
「え?」
「それ、あれ取って」


本田さんは棚に置かれた二つの写真立てのうち、奥側を指さした。手前は白石さんも写っている家族写真、奥側は若かりし頃の本田さんと旦那さんが写っているものだ。


「…これ、おばあちゃんと旦那さん?」
「そう」


写真立てを手渡すと、本田さんは日に焼けた写真を愛おしそうに指でなぞった。凛々しく立つ旦那さんの姿を。


「すみれが産まれて何年か後に死んじゃったけどね。若いときはこんなふうだったの」
「ふうん…旦那さんかっこいいね」
「英太くんにそっくりだわ」
「えっ、そう…かな」


そんなことを言われるなんて思いもしなかった。こんな素敵な人と自分が似ているなんて。

俺は現代っ子だし甘やかされて育ってきたけど、昔の人は戦争があったり食べ物が無かったり大変だったと授業でもテレビでもよく聞く。それに本田さんの旦那さんはお世辞抜きで格好よくて、とても俺とは似つかわしくない。


「この人もあの時代にしては背が高かったし、優しくってねえ。私っておしゃべりでしょう。ずっとにこにこ聞いてくれて…うん」


本田さんは、写真の彼と俺とを何度か見比べた。その度に自分が恥ずかしくなった。俺はそんなに立派じゃないから。


「あの人はこの花が好きだったの」


視線を向けられたのは昨日も窓際に飾られていた薄い紫の花。やっぱり旦那さんの好きな花だったのか。それを今もずっと飾っている。写真や形見と一緒に。


「なんていう花?」


花なんかに興味はない。けれども何故か気になって聞いてしまった。
その色が自分の身にまとう気高いユニフォームと同じだったのも理由かも知れない。


「ライラック」


ライラック。聞いた事があるような無いような名前だ。本田さんいわく珍しい花ではないから、花屋さんやスーパーで見たことがあるかもね、との事だった。
でもその花を絶やすことなくこの部屋に飾っているのだそうだ。毎週日曜日に、孫の白石さんが花を生け変えてくれるのだそうだ。


「……さみしい?」
「ちょっぴりね。ちょっぴり」


本田さんはもう一度手元の写真立てに視線を移した。亡くなってから何年も経っているのに未だ忘れられないのは、どれほど辛く寂しい事なのか、俺には分からない。つい去年亡くなった祖母の事を思うだけで胸が痛むのに。


「もうちょっとだけ、顔見せてくれる?」


今度は俺の顔を見て、もっとこっちに来て、と手招きをされた。
本田さんは笑っているのに今にも泣いてしまいそうに見えたのは、俺の気のせいという事にしておきたい。

かえらずのソノリテ