07白石さんはそれから数日学校に来なかった。あの泣きっぷりを見た時に、もしかしたら学校を休んでしまうかも知れないと思ったが予想が的中したらしい。下手をしたらあの後は部活にも参加しなかったかも知れない。
彼女が滅多に体調を崩さない事は知っていた。
俺は去年の体育祭が行われたあの日から、白石さんの事を特別に意識して過ごしている。怪我をする事はあるみたいだけど、俺と同じく身体は丈夫のようで、この一年白石さんが風邪で休んだなんて聞いたことは無い。まして数日間も学校に来ないなんて初めてだ。
佐々木先生が結婚した事実がよほどショックだったらしい。無理もない。
俺はまだ高校生だけど、結婚が何を意味するのか上辺くらいは知っている。男性は女性を、女性は男性を互いに一生大切にすると誓う事だ。好きなやつにそれほどまで大切な人が居たなんて突然知らされれば、俺だってすぐに立ち直れないと思う。
◇
白石さんが休んで3日目の夜、電話帳から白石さんの名前を表示させた。体育委員になった時に連絡先を交換していたのだ。まだ電話もメールも一度もしたことがないけれど。
「大丈夫?」とメールでも打ってみようかと思ったけど、こういう事を文章にするのは苦手だ。他にも聞きたいこととか言いたいことが沢山ある。思い切って電話をしてみようと、発信ボタンを押した。
「………」
耳元からは発信音、胸元からはどくどくと心臓の音が鳴り響く。
一体どのくらい鳴らしただろうか。白石さんは電話に出ることなく、あまり長く鳴らしすぎるのも良くないかと思い切電した。
会話は出来なかったけど、白石さんの携帯に俺からの着信履歴が残っているだけでもいい。この世にはちゃんと、白石さんの事を気にしている人間が居るのだと伝わるのがベストだが。
◇
しかし、昨日の電話は要らなかったかも知れない。翌日の朝教室に入ろうとした時、ちょうど白石さんと出くわしたのだ。
「……白石さん?」
「あ、おはよう…」
白石さんは俺と顔を合わせて気まずそうではあるものの、ぎこちなく笑顔を作って見せた。俺の主観では、体調が悪そうには見えない。
「おはよ…えっと…」
「昨日ごめんね、電話出られなくて」
「あ、うん…いや」
「風邪こじらせちゃってさ!ずっと寝込んでたんだよね」
そんなふうに笑ってみせたものだから、俺の心配は大きなお世話かもしれないとさえ思えた。白石さんは俺が思っているほど落ち込んでいないんじゃないかと。
だから「体育祭近いから気を付けてな」と声をかけて自分の席につき、後から教室に入ってきた黒尾に軽く声をかけ、その日はいつも通りの授業を受けた。
…と、思っていたのに体育の授業、女子の体育は佐々木先生だが、同じグラウンドで男子200メートル走・女子100メートル走の並びを決めていたのに白石さんの姿が見えない。
「白石、まだ休みか…珍しいな」
佐々木先生が声を落としていたので、学校には来ていても陸上部の朝練には参加していないのだろう。
白石さんと仲のいい女子が「体調悪くて保健室行ってます」と先生に伝えていた。本当に体調が悪いのか、はたまた別の理由かは分からないけど。
「学校には来れてるのか?」
「来てます。昨日まで休んでたけど」
女子生徒は気まずそうに報告しているので、白石さんが佐々木先生を好きで、つい先日失恋した事は知っているのかも知れない。
先生はそんな事全く知る由もないようで、そうか、と眉を下げていた。
◇
体育が終わり、昼休みに入ったけれど食堂へ行く前に保健室に向かった。白石さんがまだ居るかもしれないからだ。
「……あ」
俺の予測は的中し、保健室のドアを開けるとちょうど白石さんがベッドから起きてきたところだった。俺に気づくと明らかに顔を逸らして視線を合わせないようにしている。俺が何をしに来たのか分かっているようだ。
「……先生、心配してたよ」
幸い保健室には他に誰もおらず、単刀直入に話を始めることが出来た。
「…心配?」
「休むなんて珍しいなって…」
1年生の時から部活で白石さんを見ていた佐々木先生の事だから、白石さんが怪我は多くても体調を崩すことは少ないのを知っているはず。あまり女子の部員が多くない音駒の陸上部の中で頑張っていることも。
しかし、白石さんは俺の言葉も佐々木先生の言葉も否定した。
「……そんなわけないよ。私の事なんか何とも思ってないのに」
それが心にも無い事だというのはバレバレだ。佐々木先生が本当に生徒のことを「何とも思ってない」ような人なら、白石さんは彼を好きにはならなかっただろう。
「佐々木先生はそんな人じゃないよ。白石さんが一番よく知ってるだろ」
だから、思わず強めに言ってしまった。何度も言うけど俺だって佐々木先生が素晴らしい先生だと分かっている。
それに白石さんが先生の事を悪く言うのは聞きたくなかった。思ってもない事を言えるほど彼女は器用ではない。
白石さんはまさか俺からそんなふうに言われるとは思わなかったようで、ごめん、と呟いた。謝らせるつもりは無かったんだけど。
「…今日、ちゃんと朝練出るつもりだったの。プレゼント持って」
白石さんは保健室の椅子に腰を下ろし、膝の上で拳を握った。
「渡せるかなって思ったけど、やっぱり無理だったよ。先生幸せそうなんだもん」
「………」
「きっと奥さんも素敵な人なんだろうなって思うと…先生が選んだ人、だし…」
あの事実を知ってしまってから数日経過しているのに、まだ白石さんの心は癒えていないらしい。握られた小さな拳にちいさな涙の粒が落ちた。
でもあの時とは違い、先生が結婚したという事実を受け入れて整理しようと頑張っているのが見て取れる。
「…白石さんだって、奥さんの事そんなふうに言えるのは凄いよ」
「そんな事ないよ」
「あるって。すげえと思う」
俺はやっぱり白石さんの事が好きだ。先生のことを一途に想い続ける姿も、先生の奥さんになった人を一生懸命認めようとするところも。彼女の見ている相手が俺ではなくても傍で力になれるなら、今はそれでもいい気がした。
「プレゼントは渡そう。協力するから」
だから俺は最後まで協力する。
白石さんが佐々木先生に告白するのかどうかは分からない。結婚してしまった男性に想いを伝えるのは一見非常識かも知れない。でも佐々木先生ならちゃんと応えてくれるはずだ。正しい道へ導いてくれるはず。
迷い子は昨日を撃ち落とす