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母方の祖母は俺の事をとてもよく可愛がってくれた。白鳥沢で寮生活を始めてからはなかなか会えておらず、お盆や年末年始もほんの少し会う程度。小さい頃はやんちゃな俺を叱ったり、褒めたり、色んな所に連れまわしてくれた祖母の背中が年々小さくなっていくのを見るのが辛かったのかも知れない。

俺がずっと夢に見ていた白鳥沢への推薦枠を勝ち取った時には「おめでとう、英太くんは本当にすごいね。私の自慢だわ」と目を潤ませながら喜んでくれたのが心に残っている。
その時俺もじわりと目頭が熱くなったけど、それは「合格した喜びのせい」という事にしていた。

去年、その祖母は亡くなった。
俺が高校2年生の夏、インターハイへの出場を果たす直前の事であった。


「3日間、よろしくお願いします」
「お願いしまっす…」


今どうしてそんな祖母の事を思い返していたのかと言えば、職業体験つまりインターンシップで老人ホームに来ているからだ。
学校から歩いて15分くらいのところに大きな老人ホームがあり、そこで3日間の職業体験をする事になっている。

インターンシップの場所や内容はいくつかの候補から選ぶことが出来たのだが、「老人介護施設」の文字を見つけた瞬間に、最期を見届ける事のできなかった祖母の顔を思い出した。
ここで3日間を真面目に過ごせば、最後に顔を見せられなかった償いが出来るのかなと考えて。


「瀬見くんでしたっけ。具体的に何をしてもらうかなんですけど、あんまり難しい事はしなくて大丈夫だから」
「はい」
「おじいちゃんたちが一番喜ぶのって、話を聞いてあげる事なのよねえ」


今回担当してくれる施設のおばさんは「特に若い子相手だと喜ぶと思うわあ」なんて言って笑うので、俺も愛想笑いで返しておいた。少しだけ人見知りするし、相手は知らないおじいさんやおばあさんだし。
しかし俺に与えられた仕事内容は本当に難しい事では無く、配膳の手伝いとか話し相手程度らしい。介助をするには資格が無いと駄目なのだとか。よく分からないけど、そんなことを言っていた。


「じゃあ、ここのおばあちゃんお願い」


おばさんが案内してくれた部屋の入口には「本田さん」と書かれていた。部屋の中に居るおばあさんの苗字らしい。
係の人が扉をノックしてくれて、中からの返事は無いけどがちゃりと開けた。


「本田さーん、起きてますか?」


少し大きめの声でその人が呼んだ。
『本田さん』は介護ベッドに座って、本かなにかを読んでいるようだ。俺が話し相手になってもその本より有意義な時間を過ごしてもらえるだろうか。


「今日からね、高校生の子がお手伝いに来てくれるから」
「え?あら、そうなの」
「いっぱいお話してあげてねー。瀬見くん、何かあったらそこ押してね」
「あ、はい、っす」


いきなり二人きりにされるのかよ、と冷や汗が流れるのを感じた。
しかし知らない人とは言えここを選んだのには訳がある。それにここの職員の人は俺を「白鳥沢の生徒」だと知っているから、俺が不真面目な態度や失敗をしてしまったら学校の名前に傷が付いてしまう。それは良くない。
本田さんに話しかける前に深く深呼吸をして、俺も同じように大きめの声を発した。


「こんにちは」
「はい、こんにちは。おっきな子ねえ」
「あっ…どうも」
「お名前は?」
「瀬見英太です」
「へ?」


本田さんは顔を少しだけ俺に近づけた。やはり、ちょっと耳が遠いようだ。


「せ・み・です」
「せみ」
「そう!」
「せみ?」
「え・い・た」
「えいたくん」
「そうそう」


瀬見英太、の「瀬見」を聞き取るのは難しかったのかも。「せみ」より「えいた」のほうが発音しやすいかも知れないし、この際どっちで呼ばれてもいいか。


「英太くんは、どこの子?」
「白鳥沢。あっちのほうの、おっきい学校。分かる?」


聞き取ってもらえるように、なるべくゆっくり大きく話してみると伝わったらしい。「ああ、白鳥沢」と復唱してくれた。


「おばあちゃんもねえ、孫があそこに通ってるよ」
「へえー。何年生?」
「3年生になったって言ってたかなあ」


3年生と言う事は俺と同学年だ。本田っていう同級生が居るかどうか…同じクラスには居ない。しかし共通の話題ができた事で俺も会話をしやすくなった。


「本田さんのお孫さんは、男?」
「おんなのこ。本田さんってそんな、呼びにくいでしょ?おばあちゃんって呼んでいいよ」
「え…」


初対面の人を馴れ馴れしく「おばあちゃん」と呼んで良いものか。けれど話し相手になることが仕事ならそれが良いのかも。


「おばあちゃんのお孫さんは、女の子なんだ」
「うん。泣き虫でねえ、ちっちゃい時から」
「へえぇ」


俺の祖母も俺のことをそんなふうに思っていただろうな、と昔のことを思い出した。小さい時は転んで怪我をしたらいつも祖母に泣きついていたっけ。
でも本田さんの孫が「小さい時から泣き虫」って事は今も泣き虫なんだろうか。


「今もねえ、毎週会いに来てくれるよ。日曜日にね。お勉強大変って言ってるけど」
「そうなんだ」
「英太くんも大変でしょ、お勉強」


にこにこ笑って本田さんが言った。俺は勉強が得意ではないし、人並み程度しか頑張っていない。少し焦ってしまったけど、俺には部活があるのでセーフだと思いたい。


「お…僕は勉強は、あんまり出来なくて。部活のほうが大変」
「ぶかつ?」
「スポーツ…あー…う・ん・ど・う。バレーボール!って分かる?」
「ああ」


本田さんは細い目をさらに細めて頷いた。バレーボールは以前からオリンピックの種目にもなっているし、テレビで観たことがあるのかも知れない。


「お孫さんは、何か運動してない?」
「さあ…すみれは昔っからねえ、転んで泣いてばっかりだったもんでねえ」
「へえ」


小さい時なんて男も女も一緒だな。しかしやはり本田さんの孫は今も「泣き虫ではない」とは言いきれないらしい。
祖父母の目から見れば孫はいつまで経っても孫だろうから、小さい頃の孫の印象が抜けきっていないのかも。


「けど、やさしい子に育ってくれたの。毎週ね、日曜日に会いに来てくれるよ」
「ほんとだ、優しいね」


同じ話を繰り返すのは老人特有の事だろうか、しかしこういう話をゆっくり聞くのは嫌いではない。
すると本田さんが少し身体を起こして、俺の隣にある棚を指さした。


「それ、それとって。手前の」


指さす先には写真立てが二つあったので、その手前側を手に取った。7人が笑顔で写っている。家族写真のようだ。


「これ?」
「これがねえ、すみれ」


その写真の中で、車椅子に座る本田さんの隣に立ち微笑んでいる女の子。本田さんが孫だと指さしたその子に俺は見覚えがあった。


「……この子…」


世の中には顔の似た人間が何人か存在するかもしれないけど、同じ白鳥沢学園に通う3年生と限定されれば、この女の子がクラスメートである事はすぐに分かった。
この4月に同じクラスになった白石さんだ。


「かわいいでしょう、でも人見知りなのかねえ。全然彼氏ができないみたい」
「へえ…」


白石さんはどんな人だったかよく覚えていない。同じクラスになったばかりで、まだ話したことは無いと思う。この写真を見る限り、派手な感じの子ではなさそうだ。
あまりお孫さんの話を広げられそうになかったので、同じクラスである事は隠しておく事にした。


「おばあちゃん。こっちは?」


話を変えるために、俺はもうひとつの写真立てを手に持った。白黒で少し日焼けしているけど綺麗に保管されていて、ふたりの男女が写っている。


「これ。綺麗な人」
「それねえ、わたしよ」
「えっ!じゃあこっちは?旦那さん?」
「ふふ、そうそう。かっこいいでしょ」
「おお、かっこいい」


若いころの本田さんと旦那さんが仲睦まじく寄り添って写ったその写真には、不思議ととても惹き付けられた。
本田さんは黒髪を結わえて着物を着、旦那さんはスーツ姿。本田さんよりも背が高く堀が深くて、渋い昭和の男前ってかんじの顔だ。


「でね、そこの、それ」
「これ?」


写真立てのそばに置いてあった小さな箱を渡すと、本田さんが蓋を開けた。中に入っているものを俺のほうへ向けると、古いけれどきらりと光ったそれは指輪である。


「…これってもしかして、結婚指輪?」
「そうよ」


指輪を取り出して大事そうに撫でるのを見て、すでに旦那さんは亡くなっており、指輪は形見なのだろうと理解出来た。

本田さんの左手薬指には今も同じ色の指輪がはめられている。俺の祖母は「家事の邪魔になる」と言って外していたので、本田さんが今も結婚指輪をはめている事がとても新鮮に見えた。


「おじいちゃんが死んじゃった時も、すみれは大泣きしてたねえ」


ぽつりと呟いた本田さんの顔は、窓際の花に向けられていたので見えなかった。花瓶にささった薄紫色の花は、旦那さんの好きな花だったのだろうか。


「英太くんも、おじいちゃんとおばあちゃん大事にしてね」


俺の祖母がつい昨年亡くなったことを知らない本田さんは笑顔でそう言った。俺は俺の祖母を大事にできていただろうか。成長するにつれて滅多に会っていなかった俺を変わらず可愛がってくれたあの人を。
必死に記憶を辿りながら、ありがとう、大事にするよ、ともう叶わない事を口走ってしまった。

あの星に手をのばす代わりに