06彼女がどこに向かったのか分からないし、女の子とはいえ陸上部を追いかけるのは大変だ。
あれから白石さんの手から落ちた佐々木先生へのプレゼントを拾い、俺はひとまず体育教員室へ入った。体育祭のリレー選手を書いたプリントを渡すためだ。今この部屋の中でどんな会話が行われていたのかは考えないようにした。
「おお、またアンカー?頑張れ」
渡したプリントを見て佐々木先生は俺の背中を叩いた。力強くて大きな手。白石さんはこの手にいつか触れたかっただろう、それはもう叶わないけれど。
ありがとうございます、とお礼を言って体育教員室を出てからは一度深呼吸した。
さっきまで全く別の絶望感を感じていたけど、今は別の感情がこみ上げる。神様は残酷だ。欲しいものなんて簡単に手に入らないのを高校生にもなれば理解しているのに、頑張ればいつか、もしかしたらきっと、と言う希望を与えてその気にさせる。
佐々木先生に恋人が居たなんて知らなかった。知っていたなら白石さんは、先生へのプレゼントなんか用意する事はなかっただろう。
白石さんが走っていった方角へ進んでいくと、既に着替え終えた運動部員が歩いていた。
もうこの辺りには人がいる。白石さんが泣いているとすれば、人通りの多い場所は避けたいはずだ。どこか一人で心を落ち着けるのにふさわしい場所は無いだろうか。
俺は運動部の部室が集まっているプレハブ小屋を抜けて、これまで立ち寄った事の無いグラウンドの脇道を抜けていく。整備されているようでされていない、草木が茂った道は隠れるにはもってこいのようだった。
ここを白石さんが通った確証は無いが、なんとなく勘が働いて俺の身体を導いていく。
そして走って行くとついに発見した、白石さんの後ろ姿を。
「……夜久くん」
俺に気付いた彼女はほんの少しこちらを振り向いたけど、また反対側を向いてしまった。
なぜ俺に顔を見せてくれないのか、理由は分かるのでそれは問わない。けれど今、俺の手の中にある佐々木先生へのプレゼントは白石さんに返さなければならない。
「これ、忘れてるよ」
声をかけると、白石さんは目元を拭いて今度こそ振り返った。控えめに塗られたマスカラが落ちて下まぶたに付着している。ピンク色に染められた頬には流れた涙の跡が。
彼女はいつも化粧が薄いけれど、先生の誕生日だからとお洒落をしてきたのだろう。
「…いらない。あげる」
「いや、貰えないよ。先生のために用意したんだから渡せばいいだろ」
「無理だよ。夜久くんが貰って」
また無責任で残酷な言葉の投げ合いだ。あの現場を目の当たりにしておいて「渡せばいいだろ」なんて普通は言えない。でも佐々木先生に渡す予定だったものを「あげる」と言われてしまい、俺の中の基準が狂ってしまったようだ。
「…要らないよ、俺は」
要らないどころか全く欲しくない、他の男性にあてられたものを代わりに受け取るのは御免だ。けれど、それを伝える事は出来なかった。我慢していたと思われる白石さんの涙が再び流れ始めたから。
「……先生…結婚…したんだね。知らなかったよ私、彼女が居たことも…結婚することも」
「…うん。俺も」
「馬鹿みたいじゃん……」
彼女の足元にある乾いた砂に、ぽたぽたと涙の粒が落ちていく。ひとつ涙が落ちるごとに俺の心に何かが刺さって痛みが増した。
「馬鹿みたい」と感じてしまうのは仕方ない事かも知れない。しかし本当に馬鹿だなんて誰も思わないから。俺ですら、白石さんのことを好きである俺ですら今の彼女を「馬鹿だ」と笑おうなどとは思わない。
「佐々木先生は良い先生だから、学校に関係ない事は言わないようにしてたんだと思う…」
佐々木先生には教師としての立場があるから、あれこれプライベートな話をするのは良くない。尊敬すべき先生だ。
それを伝えたけれど白石さんは黙り込んでいた。それどころか、佐々木先生の立場なんか理解したくも無いかのような瞳をしていた。
「とにかくこれは受け取れない。白石さんがちゃんと持って」
「いらない!」
俺はもう一度プレゼントを渡そうとしたが強い言葉で拒否された。また心臓に何かが刺さる。白石さんの顔はぐしゃぐしゃだ。
「渡せるわけないよ。あんなの聞かされてどうやって渡すの!?夜久くんだって私のこと馬鹿らしいって思ってるくせに!」
出せる限りの声で叫んだ白石さんは肩を上下させて、すぐにその場に崩れ落ちた。
膝の上に額を押し当てて、声も殺さず泣きじゃくるのを見るのは辛い。それ以上に、白石さんの喜びにも悲しみにも夜久衛輔という存在は何ひとつ関係していない事のほうが辛かった。俺は白石さんの何者でもない、単に告白を隣で見ていただけの存在。失恋した彼女を救う術を持たない人間なのだ。
「……ごめん。俺、部活行くわ」
白石さんには届いていなかったかもしれないが、そう伝えてから彼女の近くにプレゼントをそっと置いた。
背を向けてもしばらくはすすり泣きが聞こえ、俺の行動は正しいのかどうか判別してくれる人もおらず、白石さんの声が聞こえなくなるまでは出口のない迷路を歩いているような気分だった。
◇
部室のドアを開けると中には一人だけ、だらしなく伸びたプリン頭が座っていた。既に着替え終えてゲームをしている。すでに部活が始まろうとしているのにそこに居るという事は、俺が来るのを待っていたようだ。
「…お疲れ。」
研磨は俺が部室に入ると、携帯ゲームの電源を落としロッカーに入れた。そして、また座っていた場所に腰を下ろした。
あの話をしようとしているのか。それとも俺が、または白石さんが「あの事」を知ってしまったのかを探りたいのだろうか。
「なあ、研磨」
ほどいたネクタイをロッカーに投げ込みながら声をかけると、返事は無いけれど研磨がこちらを向く気配を感じた。
「…佐々木先生なんだけどさ……、」
そこから先なんと言おうか。「結婚するなんて知らなかった」と言えば研磨を責めているように聞こえる。そういう訳じゃないんだけど、どうしても、何故教えてくれなかったと感じてしまうのだ。
「入籍の事?」
さすが研磨は俺の言わんとすることに気付いた。俺が少しだけ、ほんの少しだけ研磨に負の感情を抱いてしまった事も。
「…ごめんね。でも言いふらす事じゃ無いと思ったから」
そして、いつだって研磨は一番良い応えを返してくれるのだった。俺の恥ずかしい感情を自然に治めてくれるような。
「…いや、それが正しいと思う」
「白石さんも知っちゃったの?」
「さっき…」
ほんのついさっきの出来事だ。白石さんはまだあそこで泣いているだろう。
彼女がきちんと部活に参加できるか心配だ。大好きな佐々木先生が顧問なのだから。いま幸せの絶頂に居る佐々木先生。
「大人を好きになるって事は、そういう事なんじゃないの。夜久くんはそんな顔しなくていいと思うけど」
「けど、俺…」
俺は白石さんの恋がうまく行けばいいなと思っていたし、彼女が麗らかに佐々木先生の話をするのも耳を傾けたし、いつから好きでどんなところが好きなのかも聞いてしまった。本当に好きなんだなと思っていた。
しかし相手は学校の先生であるという重大な事実から、見て見ぬ振りをしてしまったのだ。
「なんか、すげえ複雑だよ」
心のどこかで俺は、佐々木先生が白石さんを振ってくれればと思っていた汚い人間である。応援しているふりをして失敗を望むなんて最低だ。振られて、くじけて、俺の存在に気づいてほしい。そう考えた日もあったけど、そんな都合のいい事は現実には起こらない。
着替え終えた俺がロッカーの前から動けずにいるのを見て、研磨はひとりで部室を出ていった。
生ぬるいバッドエンド