部屋の窓からは運よくマンションの前の道が見えて、大通りを曲がりこのマンションへやって来る車・人の姿を確認できる。先程あそこを黒いリュックを背負った背の高い人物が歩いていたから、間もなくだ。
ぴんぽーんと鳴る聞き慣れた自宅のインターホン、押されたのはマンションロビーのボタンなのに私の身体がぴょこんと跳ねた。
これから2時間も緊迫した時間を過ごさなければならないのに、今から心臓がどきどき言ってる。落ち着いた顔をして部屋に居ようと思っていたのに我慢できなくて、キッチンの冷蔵庫にあるペットボトルをごくりと一飲みしたところで今度は玄関先のインターホンが鳴った。
「はーい」
お母さんがぱたぱたと歩く音が聞こえる。私もお出迎えすべきかどうか、と足踏みながら考えていると既にあの人は「お邪魔します」と入ってきていた。
国見英センセイ。リビングまで入ってくると彼は私の姿を見つけ、ほんの数センチだけ頭を下げたような気がした。
「すみれ、先生来たよ。ちゃんと勉強しなさいよね、宮大行くんでしょ」
「わ…わかってる」
私の目指すところは宮城大学、県内では東北大学に次いで偏差値の高いところ…の、ような気がする。偏差値や評判だけでこの大学を選んだわけじゃないんだけれどそれはまだ誰にも言っていない。
国見先生をいつものように部屋に案内して、ローテーブルの横に座布団を置いて腰を下ろした。
「ありがと」と口では言うけれどこの先生は基本的に無表情で、最初は苦労したものだった。ちょっと怖かったから先生変えてもらおうかなあと悩んだ事もあったけど、怖いだけの先生じゃない事は、先生に出会って初めて受けたテストの結果を見て分かったから。
「宿題からする?」
「うん。あ、でも一応自分で解いてみたんで、見てもらっても良いですか…」
「へえ」
私が先に学校の宿題を終わらせていた事が意外だったのか、国見先生はほんの少し目を丸くした。
だって少しでも先生に「やるじゃん」って思われたいし、そのほうが時間を有効に使えるし一石二鳥。先生が来てくれる時は学校の宿題をいつも一緒に解いているのだが、今日は1人で頑張ってみたのだ。
「…ここは何でbだと思った?」
「ここは…あれ…何でだっけ」
「計算式どっかにメモってないの」
「う、」
数学の問題を解くために使用したメモ用紙は殴り書きだったから捨ててしまったのだった。そういえば国見先生に「そういうの俺が見るまでは取っておいて」って言われたんだっけな。
「捨てたわけね」
「ゴメンナサイ…」
「いいけど、白石さんがどこで間違えてるのか分かり易いから。次からちゃんと取っといて」
「は、はい」
「んじゃ次」
先生はボールペンをカチッと鳴らせて、宿題の問題集をチェックし始めた。
国見先生って肌が白いなあ、女の人みたいだなあと思っていたけど背も高いし首も太い。時折ごくりと唾をのむ時に揺れる喉仏だって男性的だ。私は先生の事をただの家庭教師としてではなくそういう目線で見ているけれど、国見先生はどうなんだろう。高校生には興味が無い?けど私はもう高校3年、年齢的には3歳しか違わない。それって充分恋愛対象になり得ると思うんだけど。
と、全く関係の無い事を考えていたらいつの間にか国見先生が私を見ていた。めちゃくちゃ眉間にしわを寄せて。
「集中。してる?」
「しっ…て…ま、」
「もうすぐ期末テストだろ」
「ハイ」
だめだだめだ。歳の差がどうこうの前に私には大事な目標がある。宮城大学に現役合格するという目標。そのためには今の学力では厳しいかも知れないと、お母さんと探した家庭教師の会社に相談したところ「宮大に通ってる人が居るよ」と国見先生を紹介されたのだ。
そう、その時から私の目標は単に「宮大に通いたい!」という事ではなくなった。
あそこに行って国見先生の後輩になりたい。国見先生が受けている授業、出入りする教室、利用する食堂、歩くキャンパスを私も一緒に、
「おい」
「あ」
いけない、また違う事を考えていた。
「…やる気が無いやつに教えるほど暇じゃないよ」
「ちが、あの!やる気はあります、ありありです。超あります」
「じゃあ何考えてる今」
国見先生はボールペンを机に置いた。ついでに問題集も閉じてしまった。私が集中していない事はバレバレみたい。
今何を考えているかなんて、国見先生との甘い未来の事しか考えていなかったとは言えないので何と言おうか。
「…先生、このあいだの中間テスト返って来た時に言ったこと覚えてますか」
「俺が?…ちょっとは褒めた記憶はあるけど」
1学期の中間テスト、私が国見先生に勉強を教わるようになってから最初に受けたテストだ。
今まで全く良くなかった点数を、私もお母さんも先生もびっくりさせるほど上げてくれたのが国見先生。「頑張ったな」と無表情ながらに褒めてくれたのをよく覚えている。それともうひとつ、私に言ってくれた事がある。
「次のテストで平均80取ったら、なんかご褒美なって言ってくれたやつです」
「そんな事言ったっけ」
「い、言いました!」
「覚えてない。」
覚えてないの!?私はあの言葉を信じて日々勉強を頑張っているというのに。楽しみにしていた事を私しか覚えていなかった、あるいは本気にしていなかったという事か。
あまりにも私のテンションが下がったのを感じ取り、国見先生もため息をついた。
「…そういうのが無いと頑張れないわけ?ご褒美とかが」
「そういうわけでは、なく…」
誰にだってご褒美をねだっているわけじゃない。もらえたら嬉しいけどさ。
「国見先生からのご褒美があるなら、もっと頑張れるって意味です」
「……」
ちょっとだけ勇気を振り絞って言ってみると、国見先生は目の色も変えずに私の顔を眺めていた。そんなに冷静な目で見られると一気に恥ずかしくなってくる。これ以上見ないで頂きたい。私、きっと顔が真っ赤だ。沸騰して爆発する前に目を逸らしてほしい。
その願いがやっと届いてくれたらしく、爆発直前に国見先生は鼻で笑った。
「いっちょ前に何言ってんだか」
「うっ」
「どういう意味か知らないけど、今後そういうのは言わない事。ややこしくなるのは御免だよ」
いつもの気だるそうな雰囲気では無く、とても真剣な顔で言われてしまった。国見先生は家庭教師の先生で、私は生徒で、必要以上にそれ以外の事を聞いたり話したりしてはならないんだ。仕事だから。
「だって、先生が褒めてくれるの嬉しいんですもん…」
でも本音はやっぱり漏れてしまうもので、ついついぽろりと言ってしまった。
あわよくば先生がその線を踏み越えてくれないかなという望みもあったし、「ちょっと我儘で可愛げのある教え子」として先生の目に映ればいいなという汚い欲もある。
「俺に褒めてほしいから頑張るの?」
先生は私の欲に気付いてしまったのだろうか、やはり全く表情を変えずに言った。
「そ…それも…ありま、」
あります。先生に褒めてもらうのが嬉しいから頑張っています、正直言ってそれが一番の理由です。という気持ちを言おうとすると、問題集をべしんと口元に当てられて言葉を制されてしまった。
「ぶっ」
「それ以上は禁止。そういう話は金輪際禁止。俺はお前の親にも派遣元にも信頼されてるから雇ってもらえてるんだぞ」
また、真面目な顔で。国見先生には私の事なんかどうでもいいのか。高校生じゃ駄目なのか。
「ご…めんなさい。」
「はい。じゃあ次、この問題だけど」
こうして同じ部屋で勉強を教えてくれているのに、先生は何も思わないのかな。いくら高校生とは言え私は女の子だし。
先生は女性に興味が無いとか?…彼女が居るとか?どうしよう。彼女が居るなんて。宮城大学に?そしたら私、いくら頑張って合格しても馬鹿らしいのでは。
「………白石さん?」
「はひ」
やばい、また怒られる。今度こそ怒られてしまう。冷たく叱られるのを覚悟してぎゅうと目を閉じると、これまでで一番盛大なため息が聞こえた。
「仕方ないな…」
「えっ、」
恐る恐る目を開けたそこには、国見先生が観念したように頭をかく姿があった。
「じゃあ90点。」
「きゅっ!?」
「期末テストの平均が90超えたら、なにかご褒美あげるよ」
ぱああと自分の顔が晴れやかになるのを感じた。しかし直後にまた暗くなった。ご褒美をくれるのはとても嬉しい、信じられないほど嬉しい。しかしその為には期末テストの平均点が90点を超えなければならないって?
「きゅう…じゅう…!?」
「何?」
「い、いえ」
「頑張れるんだろ?」
ボールペンで私の顔を指しながら、国見先生がかすかに笑ったかに見えた。これは先生からの挑戦だ、または「浮ついた事ばかり言ってんじゃねえぞ」という圧力。
そもそもご褒美のあるなしに関わらず、私の点数を上げる為にこの人はここに居る。万が一悪い点を取ってしまったら国見先生の教え方が悪かったと思われてしまう。そうすればお母さんが「別の先生にしてもらえません?」と家庭教師の会社に電話をしてしまうかもしれない。それは駄目だ。絶対に駄目。
「が…頑張り…ます」
「期待してるよ」
平均点90という巨大な目標を提示され、力なく宣言した私とは反対に国見先生はどこか楽しそうだった。先生の教え方にかかってるんだからね。ちゃんと教えてよね!…とふざけてしまいそうになったのは、ちゃんと我慢できた。
翻弄されたい打算・前