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小さい頃はいつだって、自分が欲しいと思ったものややりたいと感じたことは優先的に与えられたし、家族はそれらを笑って見守ってくれた。いつしか「わがまま言わないの」「もうお兄ちゃんでしょう」という言葉とともに我慢を覚えるようになり、しかし何かを無理強いさせられることもなく、両親による普通の教育のおかげで俺はごくごく普通の高校生に成長した。

何不自由ない高校生活、好きな部活に入りやりたいポジションを任される充実した毎日は傍から見れば「輝いてていいね」と言われるものだ。そんな俺がひとつだけ子どものころのように欲を言って許されるなら、まずは1年前に遡る。


「クラス対抗リレー?」


がやがや騒がしい2年3組のクラス内では、来る体育祭に向けての準備で大忙しだ。クラスごとに応援旗を作ったり、ゼッケンを思い思いにデコレーションしたり。
その中で体育委員が俺に声をかけてきた。体育祭のラストを盛り上げる種目、学年ごとのクラス対抗リレーに出てくれないかと。


「夜久って確か足速いよな?」
「どうだろ。長距離よりは得意だと思う」
「だよな!じゃあ決まり、アンカーで」
「はっ!?アンカー?」


そいつは嬉嬉として持っていた用紙に「夜久もりすけ」と書き(衛輔の漢字は分からなかったのだろう)、ほっとしたように胸をなで下ろした。


「アンカー走ってくれるやつなかなか居なくてさ。これで全員決まった」
「俺もアンカー走るなんて言ってない」
「運動神経いいやつ少ないじゃんうちのクラス!陸上部は白石さんだけだし」


そう言って彼は、数人の女子とともにゼッケンへスパンコールを縫い付ける白石さんを指さした。
確かに俺のクラスには運動部が少ない。しかも俺はバレー部、他のやつも柔道部とか野球部なので陸上部の男子が居ないのだ。

唯一の陸上部は女子である白石さん。彼女もリレーに出るのかと聞くと、そいつは「もちろん」と言いながら紙を見せてきた。


「女子のアンカーは白石さん。で、その次が夜久」
「プレッシャーやばいんだけど…」
「大丈夫!白石さんが突き放してくれるはずだから」


全部白石さん任せかよと思ったが、体育委員である彼もこの間のハードル走は俺より遅かったっけ。リレーでは男女交互に4人ずつ、計8人がバトンを繋ぐ予定らしいが、改めてクラス内を見渡せば脚に自信のありそうなメンバーは少ない。あまり人の事は言えないけど。
もう俺の名前がボールペンでアンカーの欄に書かれてしまったし、仕方が無いので引き受けることにした。

このとき俺がリレーのアンカーを引き受けていなければ全ては変わっていたのかも知れない、悪い方向か良い方向かはさて置いて。





2年生時の体育祭当日、それはもう緊張した。リレーの事ももちろんだけどクラスごとの応援パフォーマンスや組体操なんかもあったし、全てを失敗しないように必死であった。


『2年生のクラス対抗リレーに出場する生徒は、入場ゲートに集まって下さい』


放送部のアナウンスが流れる。ついに来た、一気に2年3組のテント内が湧き上がる。
3組は今のところ総合得点3位だったが、リレーの結果によっては1位にだって躍り出ることが出来る。その後で応援パフォーマンスの得点が発表されるから、結果はまだまだ分からないのだ。だからこそリレーに出る生徒達はクラスからの応援を一身に背負い、入場ゲートに進まなければならないのだった。


「夜久くん、緊張?」


歩きながら白石さんが話しかけてくれたのは、見るからにアガっている俺の緊張を解くためだったのかも知れない。


「うん…俺アンカーとか初めてなんだよ」
「そうなんだ。夜久くんって50メートル何秒くらいなの?」


白石さんは会話を途切れさせることなく進んでゆく。しかも俺に質問をしてくれたおかげで気を紛らわすことが出来た。


「どれくらいだっけ。6秒8とか9とか」
「6秒台なの!?凄いじゃん」
「そお?」


褒められると悪い気はしないもので、自然と口角が上がるのを感じた。白石さんはうんうん頷いて高校生の平均タイムとかを話してくれて、俺のタイムは平均より上だよと力説する。そして、入場ゲートにたどり着いたのと同時に彼女は言った。


「夜久くんがアンカーなら安心だね」


その時どきりとしたのは、たぶん、その言葉を女の子に言われたからだと思う。女の子に頼られるって言うのはこんなにも誇らしくてむず痒いものなのかと知ったのはこの時である。


「俺も白石さんからのバトンなら安心かも。1位で走ってきてよ」
「どうかなあ〜、頑張る」
「頑張ろうな、じゃあ後で」
「うん!」


そして入場の音楽が鳴り、グラウンドに入ると男女分かれてそれぞれのスタート位置へ進んでいく。女子からスタートし男女交互に走り、最後の最後に俺に回ってくるバトンを取りこぼさないように何度も練習した。バレーの試合より緊張するな、俺の周りのアンカーはサッカー部や陸上部ばかりだ。

グラウンドの中と外とでは空気も熱気も違っただろう、騒がしく応援する周りの声はだんだんと聞こえなくなってきた。スターターがピストルを構えるのが見えて、より一層周りの音がシャットアウトされる。


「位置について…用意…」


俺は自然と口ずさんで、2年3組のトップバッターが走り出すのを見守った。

パン!と弾ける音とともに一斉に走り出す選手たち。俺の位置から見ると3組は好スタートを切ったように見え、心臓が高鳴る。
第2走者の男子はすぐそこで既に手を伸ばして待っていた、瞬く間にバトンは男子に渡り女子、また男子、あっという間に第6走者つまり俺の前の男子がスタートを切る。いよいよか、と俺も自分の出番に備えて位置についた。グラウンドの反対側に目をやると白石さんが立って「こっち!」と叫んでいるのが聞こえた。その姿は不思議と凛々しさを感じさせて、間もなく訪れる自分の出番に気合が入る。

よし、やるぞ。当日のこの時になって初めて、クラス対抗リレーへの腹をくくった。
バトンが白石さんの手に渡る、トップだ。どくりと弾む心臓を押さえつけるように胸元を掴み深呼吸する。四分の一、三分の一、半分まで進んだ。あともう少し、俺にバトンが繋がるまで。


「あっ!?」


誰の悲鳴だろうか、それが聞こえた時に俺自身は息を呑んだ。視界にうつる全てがスローモーションに見えたその中心に、白石さんの姿が。
しかし彼女はまっすぐ立って走っているのではなく、隣を走っていた女子とぶつかって二人でなだれ込むように倒れる最中だった。白石さんの胸元できらりと光るスパンコールのゼッケンが見えなくなり、ぐしゃりと地面に叩きつけられる二人。


「いたそ…」
「今のうち!」


俺の左右では様々な声が飛び交っていて、多分俺も無意識に何かを叫んだと思う。白石さんはすぐに手をついて立ち上がり走り始めたが、先ほどのように長い髪はなびかない。遅いのだ。


「………」


彼女が怪我をしたのに気づいた時には言葉が出ず、ただただ必死に走ってくる白石さんを待っていた。すぐにそばまで行ってバトンを奪って走りたいけど、それは出来ない。白石さんが自力でここに来るまでは。
どんどん自分を抜かしていく生徒達の背中を彼女はどんな思いで眺めていたのだろうか。


「走れ!」


もう数人しか残っていないアンカーの中で俺は叫んだ。すると俺の声が届いたのか少しだけ顔を上げたような気がして、白石さんがやっとの思いでバトンを渡そうと手を伸ばす。その時見えた白石さんの脚には鮮血が。「痛そうだ」とほんの一瞬考えただけなのに、彼女は俺の目が怪我に注目している事を気づいたらしい。俺がバトンを握ったのと同時に、バトンごと俺を押し出した。


「走って!」


叫びながら倒れる白石さんの姿、ひらひらとなびく長い髪を視界から消すのはとても惜しい。けれど俺は前を向いて走らなければならなかった、アンカーなのだから。
あの時の葛藤が体育祭での一番の思い出だ。





「体育委員、立候補する人」


あれから約1年後、高校3年生の2学期を迎えたばかりのホームルームは保健委員や学級委員などを決める時間となっていた。このような仕事は誰だって避けて通りたいものだろう、俺もそうだ。


「はい!」


そんな中、体育委員を決める時だけはすぐに手が挙がったのである。立候補をしたのは白石すみれ、昨年も同じクラスだった陸上部の女の子。昨年のクラス対抗リレーで俺にバトンを渡した人物だ。


「白石さんと、あと一人誰か」


2学期の体育委員など誰もやりたがらない。2学期は体育祭が行われるせいで体育委員の仕事が多いから。それなのに白石さんが自ら手を挙げた理由を俺は知っていた。


「……じゃあ俺、やります」


本当に誰も手を挙げないので俺は仕方なく、本当に仕方なく、を装って手を挙げる。
クラスの注目は一気に俺に集まったけれども、「簡単に決まって良かった」という安堵がクラス中を包んだせいですぐに俺からは意識が逸れていた。

黒板には白石すみれと書かれた横に夜久衛輔、と白いチョークでカツカツと書かれていく。白石さんの名前の横に自分の名があるのを、嬉しさが顔に出ないように目に焼き付けた。

ここまで話せば俺が去年の体育祭がきっかけで白石さんを好きになった事は、容易に想像出来るだろうと思う。出来ることなら付き合いたい、彼女の心を独り占めしたいと考えていることも。しかし、そう簡単にはいかないのだ。

小さい頃はいつだって、自分が欲しいと思ったものややりたいと感じたことは優先的に与えられた。けれど成長した今、我慢する事を知った今、鋭い察知能力が備わってしまった今、それは叶わない願いとなる。


「夜久くん、体育委員頑張ろうね」
「おお。今年もリレー出んの?」
「そのつもり。佐々木先生にね、今年はコケるなよって言われちゃった」


白石さんは頬を染めて笑っていたが、それは単なる照れ臭さではない事を俺は知っていた。

佐々木先生、生徒から信頼の厚い体育教師であり体育委員の担当、体育大学出身で陸上部の顧問。そして、白石さんが思いを馳せる大人の男である。

ファーストフラッシュ