02


教室の中に居たって、白石さんとの口パクが出来ない時間は糞みたいなもんだ!
そう思いながら過ごしていた5月のこと(そう、口パクだけで1ヶ月も経過したのだ)ついに新たな機会がやってきた。週番だ!


『黒板消し、順番にしよう』


さすがに挨拶以外を口パクするのは難しいと思ったのか、白石さんがノートを見せに来た。
週番の仕事である黒板消しを、休憩ごとに交代で行うことになった。頷いて答えると『じゃあね』と手をひらひら振り、自分の席に戻っていった。

あのきれいな手が、誰が触ったのか分からない汚い黒板消しに触れるとは不快である。が、白石さんが触ったあとの黒板消しに今度は俺が触れられるのだ。仕方ない。

それに何より今日から1週間、白石さんとともに教室に残り日誌を書くという素晴らしい時間が待っていた。この為なら授業で当てられた時の恥ずかしさや、体育でペアが溢れる事なんてへっちゃらである。


「すみれちゃん、行こー」


放課後、白石さんに声をかける女の子が居た。一緒に帰る約束でもしていたんだろうけど、ふふふ、あいにく白石さんは俺と2人で週番だ。


「ごめん、日誌書かなきゃいけなくて」
「あ、週番かあ。誰と?」
「轟くん」
「………誰?」
「あの子」


そう言って白石さんが、手のひらで俺を指した。もうひとりの女の子は「轟」というのが俺であることを確認すると、どうもコメントしづらそうな表情になった。


「先行ってて!あとで行くから」
「あ、うん…早く来てね」


そう言い残してその子が教室を出ると、ここには俺と白石さんだけの状況に。一気にしんとしてしまった。どこかに行く約束をしているようだ。「早く来てね」と言い残したあの子には「そいつに書いてもらったら?」という気持ちもあったように思える。
そうは行くか。今日から金曜日まで、一緒に日誌を書いてやるのだ。


「じゃ、書こっか!」
「んっ!?」
「何びっくりしてるの」


白石さんはけらけらと笑いながら日誌を持って俺の席までやってきた。
びっくりするに決まってる。ここ最近ずっと口パクでしか会話をしていなかったのに、突然普通に話しかけてきたんだから。

しかもそのまま俺の前の席に座って、くるりと後ろを向いてきた。その瞬間に揺れる髪の毛からはふんわりと良いにおいがしてくるような気がする。髪さらさらだな、髪ってこんなにさらさらになるのか。


「今日は、5月の…あれ?何日だっけ」


シャープペンをかちかち鳴らしながら髪を耳にかける、それだけの仕草なのに、目の前で繰り広げられると他の事が考えられない。
今日は確か、5月12日の月曜日。白石さんはまだ今日の日付を思い出せていないようだ、教えてあげないと。どうしよう。


「………ん」
「ん?」


そのシャープペン貸して、という意味を込めて手を出した。白石さんはしばらく不思議そうにしていたけど、やがて理解したらしくペンを俺の手に置いた。


「書いてくれるの?」


その問いに対し頷きながら、無言で日付の欄に「12」と書く。そこで白石さんが「あ、12日かあ」と呟いた。どくりと胸が鳴る。今、俺の書いた字を見て反応したんだ。
そのまま1限目、2限目の科目と内容を覚えている限り書き出すと白石さんが言った。


「よく覚えてるね」
「………」


うん、と声が出ない代わりにやっぱり首を縦に振るだけの俺はどう考えてもおかしいと思う。

それなのにこの子は何故だか、そんな俺にもめげずに話しかけてくる。他のクラスメートたちは既に、用がない限り俺に話を振ってくることは無い。俺も他の人には用事がないので不便じゃない。そんな感じでクラスメートとの溝はぐんぐん深まるばかりであった。

なのに、白石さんと俺の間にだけは溝が無いかに思える。…溝が無い代わり、盛り上がった場所も無いけれど。


「聞いてますかー」
「えっ」


びく、と視線を上げると白石さんが俺の顔を凝視していた。思わず視線を外して、心の内を読まれないように必死にペンを動かし日誌を進めていく。万が一心を読まれたからって、俺の心はぐしゃぐしゃにかき乱れているので理解はできないだろうけど。
すると、白石さんが手を出した。


「貸して」
「………」


視界の端に、白石さんの手のひらが見える。ここにペンを乗せなきゃならない。渡さなくては。緊張して手が動かない。変な目で見られているだろうか、と恐る恐る顔を上げると再び目が合った。


(と、ど、ろ、き、くん)


そして今度は俺の視線を逃がすまいとしたのか、口パクで名前を呼ばれた。


(な、に?)


俺も、声には出さず返事をした。とても奇妙な光景だと思う。俺だってそう感じる。


「口パクだと会話できるの?」
「………そ…」


そういうわけじゃ無い。と言いたいんだけど言えないので、もしかして本当に口パクじゃないと会話ができないポンコツなのかも知れない。


「私と話すの、緊張する?」
「…………」


うん、ものすごく。


「二人で居る時ぐらい頑張って」
「…え」
「金曜日までの課題ね」
「………」


あんぐり口を開けた俺を見ながら立ち上がり、「出してくる」と白石さんが日誌を持った。職員室へ提出してくれるらしい。ここで俺が言うべき「ありがとう」あるいは「俺が行く」もしくは「俺も行く」、そのどれも言うことが出来ずに無言で見送る俺はやっぱりポンコツだ。





「ジュニア遅いぞー」


グラウンドに出たのは俺が一番最後だったみたいで、既にボールとバットのぶつかり合う気持ちの良い音が響いていた。なぜ上級生が俺のことを「ジュニア」と呼ぶのかは、俺が監督の息子だからかも知れない。


「雷市てめえ何してた」


今日から週番だと言うのを今朝教室に入るまですっかり忘れていたので、そう言えば誰にも伝達していなかった。


「週番!」
「ンなもんもう片方にやらせときゃいいだろ」
「はっ?ぜ…絶対やだ」


この親父ほんとうにぐうたらだな、俺が白石さんに週番の仕事を丸投げするなんて有り得ない。相手が白石さん以外の誰かだったとしても、そんなことが出来るほど教室内の俺の肝は据わっていない。


「なかなか真面目チャンですね」
「おかしな事にな」
「おかしくねえよ!腹減った」


親父の座る椅子を蹴り上げるとようやく腹ごしらえのバナナを出してくれたので、それにかじりついていると「食ったら素振りな」と声が降ってきた。それに頷いた俺の頭の上ではまだ会話が続く。


「週番てのはどんな事すんだっけ?」
「簡単な事ですよ。ノート集めたり配ったり、黒板消したりとか」
「しょーもねえ。明日から放棄してバット振ってろ」
「やだね!」


食べ終えたバナナの皮を親父に投げ付けたけど、慣れっこの親父はひょいとそれを避けた。その代わり、隣に立っている真田先輩にべちっと当たった。やばい、と思ったけど真田先輩はバナナの皮を拾いながら言った。


「まあまあ、高校は部活だけじゃないですから。クラスの事もちゃんとしないと友達できないっす」


なんという出来た人間なのだこの先輩は。敬意を表して何か呼び方を考えよう。真田先輩、サナダ、ううん。


「お前友達できたの?」


ぴたりと俺の思考が止まった。


「………は?」
「握手の練習付き合ってやったろ」
「握手って。まあ大事ですけど」
「こいつ三島ぐらいしか友達居ねえからさ」


わははと笑う親父に怒りを覚えたけれど、言ってることに間違いはない。俺は友達がいない。後にも先にも三島や秋葉以外の友達は存在しないだろうと諦めている。だから、べつにいいのだ。


「…友達なんか…」


友達なんか居なくたって、と吐き捨てようとした時にふわりと良い香りがした。


「あ、轟くんだぁ」


天地を揺るがすような衝撃が走った。男くさい、おっさんくさいこの場に似合わぬ透き通る声がする。その声が俺の苗字を読んでいる。


「はい?」
「はい!」
「ひぇっ」


…が、それは親父の苗字でもあるので二人で一気に振り向いてしまった。おかげでその声の主、白石さんはびくりと跳ね上がった。


「…こんにちは…」


挨拶をしたのは白石さんではなく、その隣にいた別の女の子。たしか同じクラスのスズキさん。あれ、ヤマダさんだったっけ。そして彼女が挨拶をした相手は俺たち親子ではなくて、真田先輩であった。


「…俺?こんにちは」


真田先輩は自分宛の挨拶だったのを理解すると帽子を脱いで、ぺこりと頭を下げた。するとスズキさん(もしくはヤマダさん)が嬉しそうに顔をほころばせた…もしかしてあれだ、ファンってやつか。
再び帽子を被り直しながら、先輩が二人の女子に向かって言った。


「雷市の友だち?」
「…雷市?誰ですか?」
「こいつ」
「あ、違います友達じゃないです」


スズキさんは見事なまでの即答だ。俺もこの子を友達だと認識したことは無いから良いんだけど、「違います」と聞いた瞬間の親父が「やれやれ」と肩を落としたのだけが気に食わない。そんな中白石さんが、おずおずと言った。


「わ…私は一応、友達です」
「え?」


その、え?という驚きの声はその場の全員から上がっただろう。俺を含めて。白石さんはどうしてそんなに驚くのかが不思議なようだったけど、それよりも不思議そうなスズキさんが口を開いた。


「友達だったの?」
「最初、隣の席だったし…」
「クラスで喋ってんの見た事ないけど」
「喋ってるよ。ね」


く、ち、ぱ、く、で。

と俺に向かって口パクをして、白石さんが悪戯っぽく笑った。頭が爆発しそうだ。何でか分からないけど。


「それに今日から週番だもん」
「あー…」
「雷市の友達なんだ?仲良くしてあげて、こいつ友達居ないらしくって」
「え、あ、はい」


真田先輩は空気を読まないふりが得意のようで、スズキさんに向かって微笑むと反射的にスズキさんも俺と仲良くするのを了承していた。それを見た白石さんは嬉しそうだ。そんな白石さんを見て俺はおかしな気分になった。

やがてスズキさんが「行こう」と白石さんに声をかけると、そばに置いていた鞄を持ち、二人は会釈をして校門のほうへと歩いていった。


「よかったじゃん。友達」


もう声が届かないだろうという距離まで遠のいてから、真田先輩に背中を叩かれた。


「しかも女子かよ。やるなあお前」
「………」
「そりゃあ週番だって楽しいよな。な?」


続けて親父にも背中をばしんと叩かれたけど、それは腹が立ったので殴り返してから素振りを開始した。

リップシンクは蜜の味.02