雨の音はやまない。



 ボールの跳ねる音がする。誰もいないはずのそこに重く響くその音は、昔幽霊の仕業だといわれていた。けれど、オレはその幽霊の正体を知っているし、その噂はいつのまにかパッタリと消えてしまっているのも知っている。そもそも幽霊が出るのはこの体育館じゃなくて第四体育館だったし、そのうえこの体育館が誰もいない状態になるなんて、それこそ学校内のすべてが施錠された後だ。じゃあ、この音を鳴らしているのは誰だと聞かれると、オレはこう答えるしかない。


 亡霊。


「ヒサシブリ」

 思った以上に片言になってしまったセリフを亡霊に向かって吐く。オレがいることなんてわかっていたくせに、赤い髪をした亡霊は今気が付きましたというように俺のほうへと視線を向けた。黄色い瞳がきらりと光る。

「久しぶり」

 ボールの音がやむ。亡霊がその音を止めさせたからだ。それにしても、噂にしろ今にしろ実体がない霊がボールをつけるとは変な話だ。いや、ポルターガイスト現象があるように、幽霊は実体ない存在だが物体に影響を及ぼすことができるのだろうか。どちらにしろ、オレには関係のない話だけれど。

「少し世間話を、しにきました」

「そう」

 滅多に使わない敬語と言葉につい詰まってしまう。きっと同じ高校の先輩が聞いたなら豆鉄砲をくらった鳩のようにあんぐりと口を開けることが想像できる。それほど珍しいことなのに、目の前の亡霊はさして気にしていないようだった。それもそうだ。この亡霊が最も気にしているのは勝利だけで、それ以外はさして興味がないものばかり。まぁ、オレも人のことは言えないから、そんな亡霊の様子に腹をたてることもない。

「あの日から俺も黄瀬ちんもミドチンも峰ちんも、もちろん…黒ちんもバスケを続けてる」

「うん」

 本当に世間話のように、まずは自分含め周りの近況報告から始める。といっても、そんなこと目の前の亡霊は知っているだろう。さして興味がなさそうに、けれどボールを握っている手は少しだけ力が入ったのが見えた。
 あのみっともなく泣いた大会から、俺はバスケをやめることはなかった。むしろ、もっと熱が入った。あれだけやめると言っておいて、バカなものだと自分でも思う。

「おかしいかもしれないけどさ、今のほうがボールに触れていたいって思ってんだ。アンタは想像できないかもしれないけど、俺、練習後もちゃんと自主練してるし、早朝に毎日走ってる」

「そう」

「時間が足りない。どんだけ練習してもこれじゃあまた負けるんじゃないかって。赤ちんや黒ちんだけじゃない。キセキの中で俺が一番弱いんじゃないかって時々すっげー怖くなって我武者羅に練習するときもある。笑えるでしょ」

「そうだね」

 自嘲めいて笑ってみせると、目の前の亡霊も口角を上げる。本当にありえない。負けることも面倒なことも嫌いな自分が何を怯えているのか。感情だけで突っ走ってもいいことなんかない。頭を使って、勝利だけを考えたらよかった。そう。それこそ赤ちんのように、最短距離で勝利さえつかめればなんでもよかった。
 けれど、感情がそれを許さなかった。あの日から遠のいていく分、勝利への貪欲さは募っていった。勝ちたい。今度こそ、勝利をつかみ取りたい。たとえ、赤ちんが相手でも。

「そういえば、黒ちんの誕生日にね、みんなで集まることになった。バスケ、するんだって。皆練習あるくせに、こういうときだけなぜか特別待遇。全校の監督、OKサインだしたんだよ。バカだねぇ」

「ああ」

 あれは驚いた。もしかしたら、さっちんが何かをしたのかもしれない。さっちんのことだ。それ相応の情報を明け渡したか、条件を出したのかもしれない。けれど、それでも1日部活を休む(それも内容がバスケで遊ぶ)ことを許すなんて特別待遇もいいところだ。

「峰ちんと黄瀬ちんところはまぁOKサインだしそうだけど、ミドチンところとか一日3回のワガママを1か月分使うことでいいことになったらしいよ。べつにそんなことしなくてもいいってみんな言ったらしいけど、ミドチンがそういったんだって。それこそワガママなのに何を言ってんだかねぇ」

 強情で真面目なミドチンらしいといったららしいけど、それを聞いたときバカだなぁと思った。器用じゃない。それこそミドチンなのだけど、やっぱりオレはミドチンのそういうところが面倒で、いつまでたっても好きにはなれない。

「俺は…俺は行きたくなかったけど…新主将のせいで行くことになっちゃった」

 新主将になって、ますます性格がよろしくなった黒髪で泣き黒子が特徴の男を思い出す。お菓子あげるから行って来いといった彼の顔は優しく笑っていて、ひどく苛立ったのを覚えている。

「…行きたくなかったら逆らえばよかったじゃないか」

「そうだね…逆らえばよかった。いつもみたいに、やだ、めんどくさいって言えばよかったんだ。……けど、俺、なんでか言えなかったんだよね。なんでかなぁ」

「…さぁ」

 わかってるくせにわからないフリをする。そうやって疑問を投げかけてみても、それは相手も同じで、赤い髪をした亡霊はボールに視線を落とした。

「赤ちんはどうやってOKサイン出してもらったんだろう?」

「…知らないよ。僕はもう赤司征十郎じゃないから」

 それは少しの好奇心と、純粋な疑問だった。けれど、彼は少しだけ眉を寄せて、ひどく不愉快な表情で返す。そして、手に取っていたボールをそのまま落とした。


 ダムッ   ダムッ


 またしてもボールの音は響きだした。まるで、お話は終わりだといわれているような気分だ。けれど、オレはそのまま続ける。

「じゃあ、アンタはいったい誰なの?」

「誰でもないよ」




 ボールの音はやまない。
 体育館の外の雨もやみそうになかった。あの日からずっとここの体育館は雨が降っているのだろうか。オレと同じように。

「……話はそれだけか?」

「うん。それだけ」

 まるでまだいたのかと、鬱陶しそうに彼は俺を見上げる。飽きもせず、ボールをつく亡霊はなんだか本当にそこから動くことができない地縛霊のようだった。そんな亡霊からボールを奪い取ることはたやすかった。

 なんでもみえる彼が驚いた顔でオレを見た。なんだか、それが少しだけ哀しかった。



 ガシャンッ


 近くにあったバスケットゴールにボールをぶち込む。


 ギシ… ギシッ…


 古いバスケットゴールが俺の体重に悲鳴をあげる。それを聞き入れたふりをして、そっとそこから手を離した。地に足をつけて、振り返る。いまだ呆然と亡霊はオレを見ていた。





「弱いね、アンタ」


 自然と言葉が漏れた。きっとそれがトリガーだった。その瞬間、膝から力が抜けた。久しぶりの感覚に少しだけ驚いて見上げれば、やっぱり亡霊は地縛霊ではないらしく、ちゃんと動いてオレの傍で人を殺しそうな目でオレを見下げていた。そして、首元に何かが突きつけられる。たぶん鋏か何かの凶器だろう。

「何がしたいのか全く理解できないが、勝手に僕の領域を入ってきたうえに、実りのない話をし、僕を愚弄するなど、お前は僕に殺されたいのか?」

「べつに死にたくはないよ」

「では、口を慎め。この僕に向かって弱いなど…」

「でも、アンタはもう赤司征十郎じゃないんでしょう?」

 じゃあ、勝つも負けるも弱いも強いも関係ないよね。アンタはもう絶対の勝利者の赤司征十郎じゃないんだから。そういう目で見上げれば、亡霊はひどく混乱した顔になる。

 迷子の子供みたいだ。帰る場所がわかんなくて、人に頼ることもできなくて、親も見つけられない可哀想な子供。


「僕は…」


 バカだなぁって思った。この人は本当に赤司征十郎<だった>人なのだろうか。だって、赤ちんはもっとなんでもわかって、なんでもすぐにできた。こんなこともわからないなんて、本当にバカだ。きっとバカな峰ちんだってわかるよ。こんなこと。いや、本当はバカだからわかるのかもしれない。だって、よく言うじゃん。

「ねぇ、オレは今だってヘタな奴を見ればイライラするんだ。努力すれば上手くなるとかほざいているやつを見ると、捻りつぶしたくなる。バスケはクソスポーツだって考えは変えるつもりないし、あれは結局高さが大事で、俺は恵まれた才能と体格だけでここまできた。でも…」

 理屈も何も関係ない。どれだけ頭でわかっていても、クソスポーツだと罵っても、この握りしめているボールから手を放すことなんてできない。



「それでも、バスケが好きだ」




 それをバスケ馬鹿だっていうんだ。



「アンタも結局バスケが好きなんだろう?負けても、ここに居続けるぐらいアンタはバスケを…」


「うるさい!」


 オレの声を遮るように目の前の亡霊は声を張り上げる。

「そんなこと…言われなくてもわかってる!僕自身が一番理解している!でも、しょうがないじゃないか!僕が…僕がいられたのは全てに勝てていたからだ。アイツが頼りなかったからだ!でも、立ち直ってしまった。負けて、しまった……」


 悔しそうに亡霊は唇をかみしめる。きっとあの試合で一番悔しい思いをしたのはこの人なのかもしれない。だって、結局この人も赤司征十郎なんだ。もう一つの人格だかなんだか言われてるけど、この人もバスケが好きになったただ一人の人間だ。




「1対1、しよう」


「え?」


 唐突の提案に亡霊は意味がわからないというように目を開いた。オレもちょっとビックリしてる。でも、思いついちゃったから、仕方がない。


 これは勝率が低い賭けだ。


「五本先取。前と同じ。もし、アンタが勝ったら、俺はまたなんでもアンタのいうこと聞くよ。でも、俺が勝ったら…」

 ボールを手に取って、立ち上がる。



 ダムッ



 ボールの音は体育館内に響き始める。あの時と同じように。
 雨はもう少し降り続けるらしい。























 約1か月ぶりの東京は特に変わりはなかった。秋田ほどではないけれど、やはり冬は寒いし、息を吐けば白い靄が現れ、すぐに消えた。見上げれば、冬独特の薄い青が広がっていた。
 他のメンバーとは違い、早朝から新幹線に乗ったからまだ眠いし、本当になんでこんな思いしてまでここに来たのか。とりあえず、おなかがすいたので、バッグの中に入っているポテチを一袋取り出して開ける。
 新幹線の時間の都合上、集合時間より少しだけ早くついてしまった。どっかの店で時間をつぶそうとうろうろしていると、後ろから声をかけられた。

「紫原、久しぶり」

「……赤ちん」

 振り返ると、想像通り赤ちんがいた。電車の向きが反対だから、同じ電車ではなかっただろうけど、同じぐらいの時間帯の電車だったのだろう。それともここらへんで時間をつぶしていたのだろうか。

「久しぶり…」

 改めて向き直ると、彼にしては珍しくラフな格好だった。カッチリした服を好みそうな彼にしては珍しかった。バスケをするために来たからなのだろうか。それとも人格のせいなのか。どちらにしてもどうでもよかった。
 なんとなく変な感じがした。あの時以来、この赤ちんとは会っていない。べつに気まずくはないんだけれど、むず痒いというか、変な感じだ。自然と食べるペースが上がってしまう。




「<弟>が迷惑をかけたね」

 とりあえず、どこかの店に入ろうかということになって、ふらふらと歩いていたとき、赤ちんがぽつりとつぶやいた。
 弟…そんなんいたっけ?と思ったけれど、すぐにピンっときた。もう一人の赤ちんのことだろう。たぶん、赤ちんはあのことをなんとなく察しているのだろう。それか、もう一人の赤ちんが話したのだろう。

「べつに…」

「強情なやつだから苦労しただろう?」

 本当に兄弟のことを話すみたいに赤ちんは苦笑混じりの顔で言う。いや、きっと赤ちんにとっては弟なのだろう。自分によく似た、言ってしまえば双子の弟。

「ううん。ただ、バスケしかしてないし」

 世間話的なものをしたが、あれはまぁオレが一方的に話してただけだし。

「そうか。バスケしか、か…」

「なに?」

 くすくすと小さく笑う赤ちんに意味が分からなくて首をかしげる。変なことを言ったつもりはない。そんなオレに赤ちんは少しだけおかしそうに、でも嬉しそうに言った。

「いいや、紫原からそんなこと聞くのは新鮮な気がしてね」

「そう?……まぁ、そうかもね」

 たしかに、今までのオレは能動的にバスケをしたことがない。だから、新鮮といえば新鮮なのだろう。たしかに、1対1を申し込んだのはあの時が初めてだ。それとともにあの時の記憶も蘇って、自然と立ち止まり、口が赤ちんを呼んでいた。

「なんだ?」

 赤ちんは振り返る。その色はやはり赤色のままだった。



「今日は負けないから」


 それで何かを理解したのか、赤ちんは目を細めた。




「ああ、僕もだ」











 あの時、オレは勝負に負けた。

『5対4…まんま、昔と、同じじゃん…』

『ふふ、僕の勝ちだ』

『やっぱ、負けた…くやしー…』

『でも、強くなったね。敦…』

『はあ…嫌味にしか聞こえねーし。じゃあ、俺、またアンタのいうことはきくことにするよ』

『そうだね。じゃあ、敦が勝った時の願いを聞いてもらおうかな』

『え?』

『また、僕を<赤ちん>と呼んでくれ』

 けれど、賭けには勝った。










「赤司征十郎として、今度こそ全員に勝つよ。今度は僕たち二人で、だけど」


 綺麗に並んだ赤と黄色の瞳に、オレは柄にもなく頬を緩ませてしまった。






『俺が勝ったら、またバスケしようよ。今度は名無しの権兵衛のアンタとじゃなくて、赤司征十郎として』




雨の音はもう聞こえない。きっと、あの日と同じ綺麗な月が見えていることだろう。




END


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