ぐるぐるとまわる。まわる。まわる。熱と痛みと気怠さと、ほんの少しの寒気から解放されていく。それは自分の体が限界を迎えたのか、それとも薬の作用か。深い闇の底へと落とされる感覚。
「おい、デク」
暗闇の底から彼の声が聞こえた。【救う】ことが出来なかった彼が僕に声をかけている。目を開けなきゃ。彼を知覚しなければいけない。これが嘘ではないと証明しなければ。
「デク」
「かっちゃ…」
「今までずっと寝てたのかよ、だっせぇな」
目を開けば、久しぶりに見たように感じる黒色の学生服を着た幼馴染の姿があった。呆れた顔をしながら、僕の前の席の机に腰かけてこちらを見ている。
ここはどこだと周りを見回せば、綺麗に整理された20余りもある机。そして、幼馴染の後ろには見慣れた黒板。学生服を着ている僕と幼馴染。それらの状況で現在の場所は容易に特定できた。
ここは学校だ。どうやら授業中に眠って、皆が帰るまで熟睡していたらしい。深く眠り込んでいたらしく、教室には目の前の幼馴染かっちゃんこと爆豪勝己と僕以外に人はいない。そして、薄暗い教室は夕暮れ時だということを教えていた。
ああ、情けない。早く帰ってオールマイトが作ってくれたメニューをこなさなければならないのに、僕の成績じゃ到底雄英の入試テストもヤバいというのに、呑気に眠ってしまっていた。これじゃあ、僕が雄英に入るなんて、オールマイトのようなヒーローになるなんて、夢のまた夢だ。
「ごめん、ありがとう、かっちゃん」
この睡眠時間を挽回するために早く帰らなければならない。わざわざ帰らず、起こしてくれた幼馴染に謝罪と感謝を述べ、慌てて机の中に仕舞っていた教科書やノート類をカバンに詰め込もうと教科書を取り出した瞬間、その真上にボロボロのノートが出てきて、手が止まる。かっちゃんに爆破された将来のためのヒーロー分析ノートだ。
そういえば、このノートが爆破された日、あのヘドロ事件があった日から、この目の前の幼馴染のかっちゃんに話しかけられたことがなかった。
「まだそんなの持ってんのかよ、ナード君」
かっちゃんも僕のノートを見たのだろう。ニッコリと笑いながら言うかっちゃんはいつかの雄英を受けるなと言っていた顔と一緒だった。いまだにヒーローを目指している僕に対して、笑顔の裏では腹立たしさでいっぱいの顔だ。けれど、僕はそんなことよりどうしてかっちゃんがここにいるのかが疑問だった。
「どうして、かっちゃんはここにいるの?」
かっちゃんは僕を待ったりなんかしない。いつだって先に先に行って、後に続く僕のことなんか見向きもしない。今日だっていつものかっちゃんなら寝てる僕を放って、さっさと帰ってしまうだろう。この教室にいる皆のように、僕の存在など初めからなかったかのように今まで振る舞ってきた。なのに、なんでいまさら?
「んなことはどーでもいいだろ?」
「ど、どうでもよくないよ…かっちゃんが僕を待つなんてありえないだろ」
「なんでだよ?ちっちぇーころはよく遅いお前を待ってやっただろ?」
「それ、は…そうだけど…」
僕の横に子供が二人通り過ぎた。虫捕り網を持った太陽のように明るい髪を持つ少年は後ろの危なっかしい走り方をする少年など目もくれず、木々の間のけもの道を走っている。後ろを走っていた少年は追いつきたくて頑張るけれど、なかなか追いつかない。むしろ差は開いていくばかりだ。個性が発言する前のことなのに、このときから才能は歴然で、いつだってかっちゃんはなんでもできて、僕は何もできない【デク】だった。けれど、あの時は僕たちはよく遊びに出かけていた。
懸命に追いつこうと走っていた少年だったが、ついに前ばかりを見て足元に気を配らなかったせいで木々の根に引っかかって転んでしまう。
「う、うえ…がっぢゃ…」
「デク?」
涙目になってなかなか立ち上がらない僕に、やっと後ろをついてきていないことに気付いたかっちゃんはこちらを振り向く。その姿ははるか向こうで、届かない彼の姿がぼやけて見えた。
痛い。腕が足が、擦りむいたのか、ひどく痛む。立ち上がらなきゃおいて行かれるのに、立ち上がれない。かっちゃんはなかなか立ち上がらない僕に何を思ったのか、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「ほら、帰ろうぜ。デク」
「…え?」
かっちゃんはしゃがみこみ、僕に手を差し出してきた。僕はあまりの衝撃に頭が真っ白になった。
「痛いんだろ?つらいんだろ?じゃあ、家に帰ろうぜ。おばさんに消毒してもらおう?」
戸惑う僕に勘違いしたのかかっちゃんは優しい言葉を吐く。けれど、そういうことではない。かっちゃんは僕のために帰ろうなんて言わない。かっちゃんは僕に手を差し出したりしない。
僕はその【綺麗】な手を、【差し出される】手の形を知らない。
かっちゃんは勝手な人だ。出来ないやつの気持ちなんてわかろうともしない。いつも先に進んで、後ろで頑張ってる人のことなんて気にもせず、どんどん行ってしまう。今だって、あのときのかっちゃんはこちらに歩いてなど来なかった。遅い。何転んでんだ。さっさと行くぞ。と僕がすぐ立ち上がるのを待っていた。こんなふうに手を差し伸べたりしなかった。
そうか、これは夢なのか。と、すとんと全ての違和感がそれに帰着した。そうだ、かっちゃんはここにいない。見たじゃないか。目の前で、彼が消えるのを。真黒の闇の中に消えていったのを、動けない体の前で見たではないか。救えなかったではないか。
「デク?」
かっちゃんはあのときと同じ黒いTシャツを着ていた。もう一緒に遊んでいたときのかっちゃんはおらず、手を握らない僕に首をかしげているのはあの日のかっちゃんだ。それがなんだかおかしかった。雄英に入ってからのかっちゃんは怒ってばかりだった。中学でもそうだったが、雄英に入るとそれがさらに顕著になった。何かにつけて僕に怒って、悪態を吐いて、話など聞いてくれなかった。けれど、あの時だけ。あの時だけ怒らなかった。
「帰らないよ、かっちゃん」
「は?」
「君のところに、行くよ」
痛みはあるけれど、腕も動く。足も動く。僕はまだ立ち上がれる。まだ手を伸ばせる。
そこはもう夕暮れの教室でも太陽が差し込む森の中でもない。あの時、かっちゃんが呑みこんだ暗闇だ。僕も君もずっとここにいた。
「言ったよなァ、デク?来んなって…!」
かっちゃんが僕に差し伸べていた手を握り、そして開く。ボンッ鳴り響くのはかっちゃんの個性で、彼は手の中でそれを何回も鳴り響かせながらこちらを睨み上げた。さきほどの穏やかに話しかけてた姿が嘘のようだ。いや、嘘でいいんだ。僕に対する君はいつだって激情全てを僕にぶつけてきた。
「ああ、聞いた。聞いた…でも…!」
「てめェに何ができるってんだ!?あ!?そんな体で!?デクのくせに!!一丁前にヒーロー気取りかァ!!?てめェはわかってるはずだ!!プロヒーローが俺のとこに来る。来たとしてもお前は足手まといなんだよ!!いらねェんだよ!!そうまでして俺を見下してえか!!!」
「だって、君は…」
「だってもクソもねェ!!俺一人だって帰ってこれんだよ!!なめんじゃねぇ!!!!」
「君が、救けを求める瞳をしてた」
静かな瞳だった。恐れも憂いも直隠し、どこまでも気丈だった。今のように、今までのように怒りに染め上げた瞳とは全然違った。けれど、だからこそ、それで救けないヒーローなどどこにいる。
「僕は今度こそ君の手を掴みたいんだ」
届かなかったと思っていた手が届くと言われた。こんな【綺麗な】手ではなく、爆発の個性を持つがゆえに皮膚が分厚くなった手へと伸ばすことが出来るんだと示された。
「ほんっとムカつくやつだなァ!!!クソナードが!!!」
そういって、かっちゃんは思いっきり僕の肩を押した。てっきり爆破されるかと思っていた僕はそれに身構えていたが、思っていたより小さな攻撃に不思議を感じた。しかし、これが最大手の攻撃だったらしい。
「え?」
僕はどうやら崖のぎりぎり端に立っているようなものだったらしい。後ろは地面ではなかった。たたら踏んだ瞬間に起きる浮遊感。
落ちる。落ちていく。かっちゃんの姿がどんどん見えなくなっていく。消えていく。届かなくなっていく。かっちゃんの方に手を伸ばすが、遅すぎた。もう間に合わない。
「そのまま寝てれば良かったのによォ」
かっちゃんは苛立たし気に、しかし笑ったような気がした。
誰かに起こされるかのように突如意識が浮上する。目の前にはかっちゃんの姿もない。真っ暗な空間でもない。微かな月明かりが差し込む真っ白な天井だけ。病院だ。
時計へと視線を動かすと、決行の約10分前だった。早く準備をしなければ間に合わない。さきほどまで見た夢をぼんやりと思い出すと、まるで夢の中にまで出てきて、かっちゃんが来るなと言ったような気がして、少しだけ苦笑が漏れた。
ベッドから出て、地面に足をつけると、ひんやりとしたリノリウムの感触がする。どうやら薬がよく効いているらしい。痛みや気怠さがさきほどより断然ましだ。棚の方に視線を動かすと、一度も手をつけなかったりんごが目に入った。母さんの心配げな、不安そうな声がよみがえる。
大丈夫。絶対無事に帰ってくるから。もう心配なんかさせないから。かっちゃんさえ戻ればすべて元通りになるから。
綺麗に切られたりんごの一切れを口に含んだ。甘くて、おいしくて、なんだか力が出てきた。
さぁ、君を救けに行こう。
END
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