及川徹は人を惹きつける天才だと思う。容姿端麗なところはもちろん、頭もそこそこいいし、バレーの主将をしているのだから運動神経は言わずもがな…外見からいっても、申し分のない良さだ。まぁ、それを差し引いてマイナスになるぐらい中身はクズだけど。けれど、周囲をよく見る目が長けているあいつは他人との壁もするりと入っていってしまうし、他人の本質を見抜くことが得意だ。だからだろう、チャラチャラした見た目にたまに第一印象は悪く思われるが、いつのまにか一目置かれる存在になっている。
まぁ、それよりなにより、器用に見えて不器用なあいつの姿に周りがほっとけないのが一番の理由かもしれない。天才さえ憧れてしまうぐらいにひたむきな情熱をバレーにかたむける姿勢なのかもしれない。(あいつ自身は天才を嫌っているのに、天才があいつを求めているのは、なんとなく変な話だといつも思う。)とにもかくにも、あげればあげるほどキリがないあいつの惹きつける理由は、どうやら女だけではなく、野郎にも当てはまるらしい。
「岩泉、どう思う?」
「どうって…」
ある日の昼休み。俺は最近の席替えで近くになった男と屋上に来ていた。日が昇っても肌寒くなった季節にわざわざ外に出て弁当を食べるバカはいない。といっても、俺もそいつも教室で昼飯は食べ終えている。ここに連れてこられたのは、目の前の男が本当に真剣な顔で相談を持ち掛けてきたからだ。
及川を好きなってしまったようだと。
「おかしいってことはわかってるんだ。男を好きになるなんて普通のことじゃないし、気持ちわりぃし…」
まぁ、確かに普通のことではないと思う。最近ではメディアの影響か同性愛者の理解が深まってきたが、まだまだ世間の目は冷たいし、法律でも同性同士の結婚は認められていない。普通に生きていれば、同性愛は<気持ち悪い>というカテゴリーに含まれるぐらいには理解はされても拒否をされるものだ。
「だから、及川ってそういう能力みたいなんがあんじゃねぇかって…」
「能力って…あれか、モテモテの実とかか?」
さきほど教室で読んだ週刊雑誌を思い浮かべながら言ってみると、男はなんとも複雑な表情を浮かべる。
「まぁ、そうだけど…そうじゃねぇんだよ…」
本当に参ってる様子の男に俺は何と言ったらいいかわからない。そもそもなんでこんなことを俺に相談しようと思ったのだろうか。もっと違う友達がいるだろうが。
認めたくはないが、及川と一番仲がよく、近いのは俺だ。ナイーブな内容の上に、そんな人物に相談するほうがおかしいだろう。いや、逆に及川と近いからこその相談なのか。いつも思い浮かぶ疑問はいつも声としては出ず、結局はぼんやりと目の前の男を見つめることしかできない。
「とにかく、なんか魔法使ってるとしか思えないんだよ」
「それだったら真っ先に俺がかかるじゃねえか」
「それもそうだけどさー……でも、俺ノーマルなんだよ!今まで彼女出来たことあるし、可愛い顔立ちの男みても何も思わなかったし、女装とかネタでやるなら笑うけど、ガチでこられたらヒくし。でも、及川だけがなんかドキッとしちまったんだよ!」
「まあ、あいつ顔はいいからな」
言いたいことはなんとなくわかる。そこらへんのモデルよりも整った顔立ちだ。まぁ、それでも及川にドキッとしちまったか。そりゃあ、ご愁傷様としか言いようがない。けれど、俺はやはりそれを声には出さずに、はあっと相手に聞こえないように小さくため息をついた。
「あんなあ、よく考えろよ?あいつ、あんな顔だけど、肩幅ガッチリしてるだろ。下半身なんて立派なもんついてるぜ」
「そ、それはそうだけど…」
男は頬をひきつらせながら答える。俺の頭の中では最近の部活終わりのシャワー室で見た及川の裸体を思い浮かべる。バレーのために鍛え抜かれた体は確かに男の俺でも惚れ惚れとするような肉体美で本当に神様というものはこいつの外見の良さをどれだけ与えれば気が済むんだろうかと思ったぐらいに綺麗で、男の象徴はそれはそれはご立派で俺の男としてのプライドは中学のころから滅多打ちにされている。
「まあ、顔は綺麗だから、キスぐらいはやろうと思えば出来るかもしんねーけど……セックスできんのか?お前、及川の触れんのか?」
そういう性的な意味で。と暗に言ってやると、男は黙り込む。これで頷かれたら、いろんな意味で手遅れだな。残念だ。と言うしかない。けれど、男の目はちょろちょろと動き、悩んでいるようにみえる。大丈夫だ、それならまだ引き返せる。
「じゃあ、気のせいだ。ただの気の迷いだよ」
男が答えを出す前に、こちらから答えを出してやる。しかし、まだどこか納得していない様子の男に、俺はため息をつきたくなったが、男の気持ちもわからないというわけでもないので、実際にため息を吐き出すことはやめた。けれど、これ以上こんな話はしたくないので、これで話は終わりだというように屋上から校内へと戻るドアへと歩みを進めようとしたが、その前に男は意を決したように口を開いた。
「い、岩泉は?」
「は?」
「岩泉は及川とセックス…出来んのかよ?」
「はあ?!」
何を言い出すのか、この男は。開いた口が塞がらない俺に男は畳みかける。
「だって、お前その言い方、まるで経験談じゃねえか。そもそもお前ら距離近いし、幼馴染にしたら仲良すぎるし、ひょっとしてお前ら付き合ってんじゃねえか!?」
「アホか!!セックスどころかキスもしたくねぇわ!」
どこからどうなってそうなったんだよ。男の思考回路に俺は疑問を抱かずにはいられない。たしかに、傍から見たら俺と及川の距離は近い。それは幼いころの距離の近さが変わらずにあるからだ。ふつうは思春期を迎えるころになると、それに嫌悪感や、嫌悪感を抱かずとも周りにからかわれ離れることが多い。しかし、俺と及川は周りからとやかく言われたことがなかったし、バレーで肩を組んで円陣を組むことが多かったから嫌悪感を抱くことがなかったから近いままである。けれど、それだけではなんだか信じてくれなさそうだと直感した俺は、面倒だなと思いながらもそもそもなぜ及川とセックスができるのか云々を聞き出したのかの理由を説明した。
「お前もなんとなくわかってると思うが、あいつは昔の頃からモテんだよ。本当に老若男女で腹たつんだけどよ。…で、なぜか俺はよく相談相手に抜擢されるんだ。それも野郎ばかりに。お前で多分ちょうど10人目じゃねえか?あいつはクソみたいな性格だけど、顔はいいからな。男にも変な目で見られるのも多いんだよ。まあ、なんだかんだ人懐っこい性格だから、顔だけじゃないのかもしんねぇ。それこそ、お前の言う通り変な魔法を使ったんじゃないかっておもうぐらい、あいつは無意識のうちに人を翻弄させんだよ。でも、あいつはクソだから、自分が男に好かれてるってわかった瞬間、今までどれだけ仲良くしてても気持ち悪いの一言でバッサリと相手切り捨てんの」
はじめてそれを見た時のことは今でも覚えてる。笑っていない瞳で笑いながら、あいつは相手を拒絶した。もう用無しだと言わんばかりにハッキリと線を引いた及川を見て、ひどいやつだと俺は心の中でつぶやいたのを多分一生忘れないだろう。人を翻弄するのも上手いが、それは相手のせいだと責任を押し付けるのも上手かった。
「お前はいい奴だよ。だから、及川は普通にお前に好意を示してるんだし、それがお前に変な気を起こさせるようなことをしてんのかもしんねぇ。でも、それがあいつなんだよ。だからそれを気のせいだと割り切れ。あいつといい関係続けたいならそうすることだな」
墓穴を掘った気がする。言葉を重ねれば重ねるほど、相手へのアドバイスが自分への戒めに聞こえてくる。
及川徹は本当にバレーがなければクソみたいな性格で、自分の立ち振る舞いでどうなるかちゃんとわかっている。このタイミング、このトーン、言葉選び、そうして彼は人の心にすんなりと入り込む。侵食されているときづいたときにはもう遅い。毒牙は刺さり、心臓は動きを止める。
それがバレないように、気づかないように及川と接するのがきっと一番最良の方法なんだと、膿を生んだ心臓から視線を逸らした。
「岩泉…」
「あ、ちょっとわり」
男が何か言おうとする前に、ポケットに入れていた携帯が長く震えていたことに気付く。それがメールだと思っていたのが電話だと気づき、急いで携帯を取り出し、相手が誰だとも見ずに耳にあてた。
<岩ちゃあああああん!!!>
耳元の大音量の声に思わず携帯を耳から離す。この呼び名にこの声は一人しかいない。
「う…っるせええええよ!!!及川!!!!」
<岩ちゃんだってうるさいじゃん!ってか、岩ちゃんどこいるの!?及川さん、ずっと待ってるんだけど!>
「待ってるって何がだよ、きもちわりぃ」
<気持ち悪いってなに!?すぐに帰ってくると思って、ずっと岩ちゃんの席で座って待ってるんだよ!>
「やっぱり気色悪いじゃん」
<気持ちも気色も悪くない!こんなイケメンに何いってんの!>
「うぜ」
<さっきから悪口しか聞こえてこないよ!>
それはそうだ。こちらが今どんな話をしているのかも知らないで、こうもうざい絡み方をされると誰だって悪態を吐きたくなる。しかし、はぁっと思いっきりため息を吐いてやると、及川からさきほどの騒がしさが消えた。
<…もう、本当にどこにいるのかしらないけど、早く帰ってきなよ>
瞬時に悟った。その声色、言葉は明らかに俺が『どこで、誰と一緒に』いるかわかっている。だから、電話をしてきたんだろう。このテンションもわざとなのだろう。
ああ、本当にクソみたいなやつだよ、お前は。
俺は適当に返事をしたあと、及川とつながっていた電話を切った。
「及川が教室で待ってるらしいから悪いけど先に行く」
「あ、ああ。悪かったな」
完全に置いてきぼりの男に、少しだけ罪悪感を抱きながらゆるく首を振った。
「いや、俺も悪かった。お前の気持ちを汲んでやらずにずかずかと勝手な推測で言っちまったし。まぁ、これからも相談は乗れねぇけど、話なら聞くぜ」
こうやって、相談に乗って、時にはそれを勘違いだと認識させ、時にはその思いをさらに深く自覚させる。この頃の俺の役割はそのように傾きつつあった。なんでこんな役割なんだと思うこともあるが、たぶん及川と一緒にいる限りこういう役割は続くんだと自覚もしている。そして、いつまでたっても毒牙にかかったクラスメイトを哀れに思い、相談に乗ってやる自分の甘さとずるさに辟易するんだ。
ああ、そういえば…
ぼんやりとしているクラスメイトを見ながら、ふと今までの相談相手たちとの共通点を見つけ出してしまった。
あいつを好きになって、俺に相談してくるのは大体俺のクラスのやつだ。
及川徹は不思議なやつだった。顔が良くて、頭もよくて、バレー部の主将で、私立の高校に来るぐらいだからお金にも困ってなくて…女子にモテてモテまくる男子の天敵であるようなヤツなのに、なぜか憎めないやつだった。いや、俺も最初は気になってた女の子が及川に盗られて、イケメン滅べって思うぐらいには及川のこと敬遠していたから、ほとんどの男子にとって及川は天敵のようなやつだろう。
でも、岩泉と同じクラスになって、近くの席になって話す機会が増えると、なぜか及川とも話すことが増えた。そこから、こいつは性格はあれだけど、嫌いにはなれねぇなと思うようになった。多分イラつく発言をしても岩泉がすぐに殴って、嘆くあいつを見て、ああそういうキャラなんだなと理解したからだ。まぁ、いってしまえば漫才を近くで見ているような気分だった。現にあいつは岩泉がいないときはモテて困るアピールもしないし、普通の男子高生みたいにアホみたいなこと言って盛り上がる。
それだけならまだよかった。けれど、何が原因かわからないけれど、それが少しずつズレていった。いや、原因はわかっているのかもしれない。たぶんあいつの距離の近さだ。幼いころから変わらないのだろう岩泉との距離の近さをあいつはいとも簡単に俺にもしてくるようになった。そして、可愛くもないのに反応してしまう甘えるような声も困る。幼馴染である岩泉にしか発しないはずの甘える声をあいつはたまに俺に向けて発する。猫なで声とはまた違う特別感を出されたその声色はみっともなく俺の心をかき乱してきた。
「やっほー、及川さんのお迎えだよー!…って、あれ?岩ちゃんは?」
うるさい声とともに入ってきたのは、最近ずっと俺の心の大半に住み着いてしまっている及川だった。授業が終わってからだいぶ時間がたってしまっている今、教室にいるのは俺だけでそれに気づいた及川は首をかしげながら俺に近づいてきた。
「まだ委員会だけど」
「俺のところも結構遅かったけど、岩ちゃんとこも大概だねぇ」
今日は大半の委員会が集まる日らしく、半分ぐらいの生徒は委員会へと行っていた。岩泉もその一人で今は委員会に出席している。帰り支度をすませたカバンを持って委員会へと行く生徒が大半だが、岩泉は俺が教室に残っていることを知ると、カバンは任せたといってさっさと行ってしまった。そこからもう一時間ぐらいたつが、どうやらまだ終わってなかったらしい。
一時間も経っているのかと、いまだにろくに進んでいないそれを見下ろす。今日、自習時間に渡されたそのプリントは大して難しくもなく、先週のおさらいのような内容だ。ノートや教科書を見ればすぐに解ける。周りの友人たちもさっさと解いていたし、解けてないやつもわかってるやつに教えてもらったり見せてもらったりして、自習時間中に終わらせてしまっていた。岩泉もめんどくさいといいながらも、雑に見えて達筆な字で問題を解いていた。
俺もこんな問題すぐに解けると思うのだ。それこそ自習時間や今までの時間、ぼーっとしてなければすぐに終わるだろう。けれど、なぜこんなにも進まないかというと、やはり目の前の男が原因なんだろう。いや、プリントだけの問題じゃない。この頃、やけに集中力がないのはこの男のせいだ。
「今日はバレー部休みだっけ」
いつもはパンパンのスポーツバッグが今日は少しだけチャックの部分が凹んでいる。傍に置いてあるペッタンコのカバンの岩泉とは違い、どうやら教科書やノートは持ち帰る性格らしい。そこがまたチャラそうにみえてしっかりしている部分を感じ取り、好感度が勝手に上がってしまう。本当にどうしてしまったのだろうか、俺。
「そうそう、週に一回の休み。今日は岩ちゃんとスポーツショップに行こうって言ってたのに、これだったら家に帰るの遅くなりそうだ」
「そう…」
はぁっと息を吐く及川に、ここでも二人の間柄が見えてしまい、もやっとしてしまう。同じ部活で幼馴染。休みだとしても、一緒に帰るのが当たり前の存在。俺はそれがすごくうらやましく感じた。俺と及川は岩泉を挟んでの友人だ。そう簡単に一緒には帰れない。いや、誘ったら帰ってくれるかもしれない。もちろん、それは岩泉もついているのだろうけど。
岩泉のことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。もちろん、そういう意味ではない。
一年のころから及川と岩泉のことはよく知っていた。及川は言わずもがな女子的な意味で、岩泉は運動会や体育では大活躍する人物だったからだ。敵だったら厄介。味方だったら勝てたも同然と思うぐらいここ一番で決めてくれるようなやつだった。お祭りイベントではほとんど中心にいたといっても過言ではないほど目立つ人物だった。そのうえ、あっけからんとした性格だから、嫌われることももちろんなく、女子にはそれほどだったが、男子には人気だった(くどいと思うが、もちろんそういう意味での人気ではない)。
類は友を呼ぶ。性格は全然あってないのに、一緒にいられるのはそういう人を引き付ける力が二人にあるからかもしれない。俺もそういう力があれば、及川とも一緒にいられたかも、とさえ考えてしまったことがある。
そう、どうやら俺は一丁前に岩泉に妬いてしまっているらしい。
「あ、これ、俺んとこのクラスも今日やった。オガちゃん休みだったもんねー」
近づいてきた及川はそう言って、中腰になって俺のしていたプリントを見てくる。大して進んでいないプリントを見て、にやりと人の悪い笑みを浮かべてプリントから俺へと視線を移した。それさえも人を魅了するんだから本当に顔のいい奴は心臓に悪い。
「なになに、わかんないの?及川さんが教えてあげようか?」
「タダじゃないんだろ?」
「あったりまえじゃーん!」
「じゃあ、いらん」
「ひどいなー、親切心で言ってあげてんのに」
軽口を叩きあいながら、、及川はそ俺の肩に手をおいて、ぐっと顔を近づけてくる。女の子が近くに来た時みたいなふわりとなんだかいい匂いがした。そうこの近さだ。これを及川は平然とやってのける。ちらりと目だけを横に動かせば、綺麗な顔が俺を見ていた。そうして、目が合えばにっこりと笑う。
「どうしたの?」
「い、いや…」
岩泉と及川は普段からこんな距離の近さだ。だから、及川も意識的なこんな距離をしていないのだろう。しかし、俺は女子とも数えるぐらい顔を近づけたことのないうえに、そこらへんの女子より顔が整っているやつの顔が近づいてきたら、男だとわかっていても心臓が速くなる。バクバクとなる心臓をおさえながら、シャーペンを握りなおすと、及川のごつごつとした手がプリントの文字を辿る。
「あー、これね。この問題とか難しく書いてるけど、やることは簡単だから」
ふわりとミントの香りがした。え、もしかしてこれ、こいつの口臭?CMかよ、ふざけんな。イケメンは口臭までもいい匂いがするのかよ。
及川が何かを話している。匂いが麻薬のように頭をグルグルとかき回してきた。心臓がうるさい。文字が躍る。
「ねぇ、聞いてる?」
駄々っ子のような甘えた音が及川の声帯を震わせる。そのあとに聞こえてくる音は、岩ちゃんじゃなくて俺の名前。今こいつの近くにいるのは俺。当たり前だ。けれど、それがたまらなく興奮した。
骨ばった手が紙を滑る。どう見たって男の手だ。どれだけ甘い声を出そうとも、どれだけ綺麗な顔をしていようとも所詮はこいつも俺と同じ男だ。目を動かす。プリントを見ていた及川の視線が俺へとうつる。
「なに?わかんない?」
信頼を顕に、君だからここまで許してるんだよといわれてるような気分だ。及川の息が耳にかかる。それほどパーソナルスペースを明け渡されている錯覚に陥る。及川の目の奥がキラキラしている。まるでグラビア写真の女優のような目だ。その目が俺しか映っていない。
『セックスできんのか?』
あのときの岩泉の声がよみがえる。俺を立ち止まらせたその声は、さきほどと違って背中を押されてる気分だ。
『及川の触れんのか?』
触れない。反射的に思った。誰が男のモノなんて本気で触られるんだろうか。気持ち悪い。
『じゃあ、気のせいだ。気の迷いだよ』
でも、それは本当に?
「ちょ、う、っわっ!!」
及川の声。椅子の引く音。机が悲鳴を上げた。それを遠くで聞きながら、俺より背が高い男を普段使わない筋肉全部を使って押し倒した。
「なに?」
まるで何も理解していないようなきょとんとした及川の顔が俺を見上げた。その瞬間、あ、俺こいつのことを抱ける。と瞬間的に察する。硬さだけしか感じないこの体を撫でまわして、苦悶と快感で入り混じる表情をする及川を見てみたいと思った。
「なんなんだよ、おまえ…自分のことわかってんのか?」
どれだけ自分が相手を魅了させてしまう人物なのかこいつはわかっているのだろうか。岩泉のいう通り、きっとこいつは今までに何人も俺のようなやつをだしてきたんだろう。今まで手を出されてこなかったのはそいつらが優しかったか、それとも岩泉がいたからだろうか。どれほどの距離に近づいたって何もしない岩泉がいるから。
「男同士だからってその距離感許されると思ってんの?お前みたいな綺麗な顔のやつに迫られて、変な気起こすやつだって…」
俺は岩泉とは違う。キスもセックスもしたい。こいつと。及川とセックスをしてすべてを暴いてやりたい。
情欲に押し流された俺を純粋無垢な目をした及川が見上げていた。何もわかっていない及川に興奮を抱いたと同時に、及川は、それはそれは綺麗に笑った。さきほどの表情とは正反対とさえ捉えれる色気さえ感じられるその笑みに、やはり男女構わず惹きつけられてしまう及川の異常なまでの美しさを感じられた。
「あっはは!やっぱり?誘われちゃった?こんなガタイのいいやつに迫られてドキドキした?……ムラムラ、した?」
ふうわりと柔らかく笑う癖に、その瞳はどこまでも暗い。その黒さに金縛りにあったように動けなくなる。背中がうすら寒い。頭の中で警鍾音が鳴り響いている。違う。間違えた。と何かが俺の頭の中で叫んでいる。
「岩ちゃんのことなんか考えられないぐらい俺のことしか考えられなくなった?」
どういうことだ?と疑問に思う前に、ガタンッとドアの方から音がした。慌ててそちらを見ると、少し驚いた表情をした岩泉がそこにいた。そして、廊下の向こうからも話し声が聞こえる。どうやら、委員会が終わったらしい。岩泉のことだ。及川がうるさいからという理由で真っ先に帰ってきたのだろう。
「なにやってんの、お前ら。」
感情を真っ直ぐ伝えてくる岩泉から考えられないぐらい、なんの感情もない声が教室を支配した。
その声で及川徹はゆうるりととても幸せそうに笑った。
END
back