※誠凛VS陽泉 終了後
歓声が体育館内を包む。僕はそれを無表情で見ていた。
誠凛が勝ち、陽泉が負けた。
それはとくにおかしくなかった。テツヤの新しい光である火神大我は、僕たち『キセキの世代』に匹敵する能力を持っているということを大輝の試合で十分見させてもらった。だから、敦が負けてもそれは当然の結果だろう。しかし、自身の視線は試合に勝って喜びの表情を浮かべているテツヤより、呆然としている敦へと向かっていた。
「ほんまに赤司の言うた通りになったなー」
隣にいたチームメイトは感心したように呟いた。その呟きに、そういえばテツヤたちが勝つと試合前に宣言したな、と思い出す。感心せずとも当たり前だ。僕は正しいのだから。僕が言うことは全て真実になる。それはいつも証明していることだ。
そう、僕は正しいのだ。だから、目に入った光景は否定材料になんかなりはしない。
けれど……
「赤司?」
踵を返して歩き出した僕にチームメイトは声をかける。僕は振り返りもせず口を開く。だって、振り返ってしまったら、また見えてしまうだろう?
「少しトイレに行ってくる」
チームメイトはそれに返事をしたかどうかはわからない。僕の耳にはチームメイトの声も周りの喧騒も何もかも聞こえていなかった。
そもそも、敦の学校を決めたのは僕だった。教師たちに早く決めろと言われても、敦は面倒だといって渡されたパンフレットすら見なかった。そして、なかなか決めない敦に痺れをきらした教師たちは僕に頼んだ。いくら面倒くさがりの敦でも僕のいうことは絶対にきくと教師たちも知っていたからだろう。
早く決めさせてくれと頼まれた僕だけれど、僕は敦に学校を決めろとは言わなかった。それより、一番敦に合う学校を僕が選んでそこに進学させることのほうがよっぽど良いと思った。そこで目に付いたのは秋田にある陽泉高校だった。
『よーせん?』
『そう』
はじめて進学のことをいったとき、敦はあいもかわらずスナック菓子を食べていたのを覚えている。敦は僕に渡されたパンフレットを見ながら菓子を食べていたものだから、パンフレットが油まみれになるなとぼんやり思っていたのを記憶の隅のほうに残っていた。
『赤ちんもここに行くの?』
敦はゆっくりとパンフレットから僕に視線を移した。いつもどおりのやる気のないような目だが、僕が首を縦に振ると思っているような目だ。敦の中では、僕がこの高校の名をあげたのは、僕と一緒の高校へ行くための誘いとでも思っているのだろう。けれど、僕は敦の意図に反して首を横に振る。
『いや、僕は京都の洛山に行くつもりだよ』
そうすると、敦は少しばかり目を開いた。しかし、すぐにその目を戻して、パンフレットに視線を戻した。
『ふーん…一緒じゃないんだ』
『僕と一緒にいたら、敦はきっとこれ以上強くなれないからね。』
敦のつぶやきに僕はすぐに返した。勝利を確約されている今の帝光には敵などいない。そんな状態で全員同じ高校にいっても、何も面白くないだろう。現に今のあいつらは一年前と比べると、天と地の差があるほど廃れている。テツヤの退部も大いに関係あると思うが、敵もいない状態で練習をしろと言われても、向上心など生まれはしないだろう。廃れていくのも当然のことだと思う。だから、あえて僕はみんなをバラバラに放した。負けることによって、あいつらはまた強くなるように頑張るだろうから。
『べつに強くならなくてもいいし』
知っているよ。お前はバスケが好きだからここにいるわけではないって。ただ、自分にあっているだけでここにいるって思っていることも。でもね、せっかくここまで来たんだ、さらに上へ上へいってほしい。
『僕がお前に強くなってほしいんだ。敦、行くよね?』
それはもう命令だった。敦は決して命令に逆らったりしない。思った通り、敦はちらりと僕を見て、はあと気だるげに息を吐いた。
『…うん、まぁ、べつにどこでもよかったしー』
敦はこれから僕の知らないところでいろんなものに触れ、変わっていくだろう。敦だけじゃない。涼太も大輝も真太郎も……そして、テツヤも。少しさびしいと思ったのは、きっと子供が親に離れていく感情と似ている。けれど、そんな僕の寂しさなんて関係ない。彼らがもっと自由に羽ばたいていってくれることが僕にとっての願いなのだから。
だから、敦が負けて、悔しそうに涙をためるのは悪いことではない。誰かのために戦おうとする意志が生まれたのも悪いことではない。悪いことではないのだ。むしろ、喜ぶべきことなのである。僕があのとき願ったものが叶っているのだから。
僕の足は自然と人気が全くない廊下へと進んでいた。けれど、僕の目の前はさきほどの映像がちらついてばかり。喜べばいい。やはり、敦をここに進ませてよかったと、この映像をみて、喜ばなければならないのに。
「敦……」
おかしいんだ。とても苦しい。
どうして、そこに僕がいないのだろうか。どうして、僕は敦の頭を撫でてやれないのだろうか。どうして、僕以外の誰かのためにコートに出ているのだろうか。どうして…
経験したことがなかった『後悔』という言葉がちらついて離れないのだろうか。
僕が選んだ道なのに。僕が書き記したシナリオ通りに進んでいるはずなのに。苦しい、心臓が痛い。痛いんだ、敦。
「赤司」
誰もいないと思っていた廊下に響いたひとつの声。僕は反射的に振り返る。
「真太郎…」
僕と目があった瞬間、真太郎は驚いたように目を開いた。君が僕を呼んだのに、どうしてそんなに驚くんだい?
そもそも、なぜここに真太郎がいる。ここは更衣室からも客席からも遠い。バスケ部員だったら、ここに来る人はいないだろう。なのに、なぜ真太郎は僕の目の前にいる。もしかして、僕に用があって、追いかけてきたのではないだろうか。
「何か、用かな?もうすぐ僕と戦うというのに…悠長なものだね」
痛む心臓を無視して、真太郎に笑いかける。けれど、声を出した瞬間、違和感を覚えた。声が震えている。注意深く聞いたらわかるぐらいの程度だったが、真太郎は気づいただろうか。気づかれているならば、赤司征十郎としての威厳がなくなってしまう。
「俺のときのように喜ばないのか?」
「は?」
真太郎の言葉に思わず疑問の声をあげてしまった。しかし、真太郎は気にした様子もなく、くいっと眼鏡を左手の中指で押し上げる。
「いいチームメイトに出会えてよかったなといって喜ばないのか?」
その言葉に、以前真太郎と電話越しでそんな話をしたことを思い出す。IHの後に話した覚えがあるから、秋ぐらいだっただろうか。電話で話したとき、彼は不器用な表現であったけれど、チームメイトとうまくやっていると言っていた。そのときは、本当に喜んだ。
緑間真太郎という人物は、本当はものすごく誠実で優しい人物なのに、素直にそれを表現できない性格であるせいか、どうしても敬遠されてしまうところがある。それを分かってくれる人物が僕以外に会えることができて、本当に嬉しかったのだ。敦だってそうだ。純粋で人懐っこい性格なのに、もともと人間関係というものに興味がないらしく、コミュニケーションをとることが極端に少なかった。だから、そんな敦が誰かのために頑張ろうと思うことはすごく嬉しいことだ。
「喜ばしいに決まっているじゃないか。帝光のとき、本当にお前と敦は僕のそばから離れなかったからね。高校に入ってから浮かないか心配していたから、2人ともいいチームメイトに出会えてよかったと思っている」
これは本心だ。紛れもない本心だ。敦も真太郎も僕と離れてからも、うまくチームメイトとやっていけていて本当に良かったって思っている。思っているのに、胸の痛みは一向に治まることはなかった。
「じゃあ、どうしてあいつのときだけ泣く?」
真太郎の目は僕を映す。その目は一体どんな僕の表情を映しているのかはわからないが、それは大きな勘違いだ。
「泣いてなんか…」
「泣いているのだよ」
僕の言葉を遮ってまで真太郎は否定する。どこをどうみて泣いていると思っているんだ。
「これじゃあ、まるであいつだけ…」
その言葉の続きは容易にできた。その瞬間、ぞわりっと何かが背筋を這う。土足で人の心の中に入ってこられたような不快感がそこにあった。
「黙れ、真太郎。この僕が、間違った選択をしていたとでも言いたいのか」
言わせてはならない。言ってはならない。そんなことはありえないのだ。いつでも正しい僕が間違いなんてするわけがない。だから、先ほど1人でいたときに感じた気持ちも、現在進行形で疼いている心臓の痛みも僕の間違いを示すものになりはしない。
「お前は間違いを導き出すことはなかなかないのだよ。でも、理性と感情はべつものだ」
「真太郎が何を言いたいのか、僕には全くわからないよ。不愉快だね、消えろ」
じわじわと浸食されている気がする。何に浸食されているのかはわからないが、確かに浸食されている。それを振り払いたくて、冷たい言葉を吐く。けれど、真太郎はさして気にしているようには見えなかった。僕の前から立ち去ろうとせず、ただ僕を見ている。僕の中を見られているような錯覚に陥る。
「赤司、お前は何を怖がっている?」
さきほどからこいつの言葉は意味が分からない。僕をどうしたいというのだ。僕に似合わない言葉ばかり吐いて、認めさせたいのか。僕の根底にそんなものが根付いているということを。それはありえないことだ。僕は正しいから、恐れることなんて何一つない。
「怖がってなんかない」
「怖がっているのだよ。紫原が氷室という男にとられてしまいそうで怖いか?黒子のようにお前から離れていってしまいそうで怖いか?紫原がもう自分に懐かなくなってしまいそうで怖いか?紫原に嫌われるのが…」
「黙れ!」
これ以上そんな戯言など聞きたくない。我慢も限界だ。
僕は感情が赴くままに行動を起こす。真太郎に近づき、素早く足を払う。バランスを崩した真太郎はそのまましりもちをつき、目を開いて驚いているなか、僕は中腰になりながら、真太郎の襟元をつかむ。
真太郎の言葉が黒い靄となって胸の中でぐるぐると渦巻いている。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。吐きそうだ。
「お前に僕の何がわかる。これは僕の望んだとおりだ。どこに怖がる要素や不安になる要素がある。どこにもないじゃないか。だから、何も怖いことなんてない。痛くも苦しくもない…」
その瞬間、真太郎の頬に水滴が伝った。おかしい、真太郎の目からは何も流れていないのに、どうして頬に水滴がついている。顔を近づけているから、眼鏡越しの真太郎の瞳の中がよく見えた。
笑いながら泣いている僕がいた。
どうして、僕は泣いている。本当に真太郎のいったとおり、僕は怖がっているのか。敦が僕以外の誰かのそばにいることを。それを望んでしまうことを。触れることができないことを。
痛い。痛い。心臓が痛い。まるで、握りつぶされているような痛みだ。
「わかるのだよ。何年お前の傍で見続けてきたと思っているのだ」
真太郎は襟元を掴んでいる僕の手を掴む。もう片方の手で、そのまま肩を引き寄せられ、抱き寄せられる。人の体温を全身で感じたのは久しぶりだった。久しぶりと感じたのは、中学の時は飽きるぐらいに抱きしめられていた感覚が残っているからだろう。
その感触はひどく愛しかった。ずっとそばにあってほしかった。
そう思ったとたん、感情は素直な声を出した。
本当は否定してほしかった。めったに言わない我儘をいってほしかった。本当は誰かのために動いてほしくなかった。僕にしか動かない敦のままでいてほしかった。本当はそんな表情をしてほしくなかった。その感情を気づかせるのは僕の役目でありたかった。本当は僕以外に触れてほしくなかった。あの大きくて優しい人物を僕以外に懐かせたくなかった。本当は僕だけを見てくれる敦のままでいてほしかった。たとえ、主人と従者のような関係でも、愛がない関係でも、それでもよかった。幸せだった。
真太郎の腕に力がこもる。息がつまった。
「………苦しいよ、真太郎」
ぼやけた視界に見慣れた紫が見えた気がした。けれど、きっとそれは気のせいだろう。だって、ここに来る人なんていないのだから。
僕は目を閉じる。たくさんの思いが詰まった水滴は、逆らうことなく伝って落ちた。
END