僕は空を飛んでいた。もちろん、僕の背中には羽根なんか生えてない。けれど、僕は飛んでいた。見慣れた東京の街が遠く見える。ひどく気分がいい。空を飛ぶのはこんなにも気持ちがいいものだったのか。
 そう思いながらしばらく飛んでいると、広原に一人立つ姿を見つける。僕がよく知っている後ろ姿だ。敦だ。いつも通り、スナック菓子を食べながら、ぼーっと空を見ている。


 「敦!」


 「あれー、赤ちん?やっほー」


 上空から呼びかけると、敦は僕の姿に気づき、大きく腕を振る。僕はそれに呼ばれるように、地面へと近づいていく。まるで高いところから飛び降りたかのように、重力に従って落ちていく。しかし、着地しても想像していた足の痺れは起こらなかった。いや、今はそんなことどうでもいい。敦がこんなところにいることの方が気になる。


 「敦、どうかしたのか?」


 「んー、何がー?」


 「いつも中庭は蟻が寄ってくるからイヤだ、みたいなこと言っていたじゃないか」


 周りの景色はいつもの学校だった。休み時間だからか、がやがやと廊下の窓からの生徒の声がうるさい。いつもはもっと静かなはずなのに、今日はやけに周りがうるさく感じた。その声に眉をひそめていると、敦は隣でそれもそうだねーと呑気に答えていた。

 敦はお菓子をいつも食べているせいか、中庭で座っていたり寝転んでいたりすると、蟻やら虫やらが寄ってくる。それはとてもうざったいもので、普段は他に比べて静かな場所としてここを好んでいるが、敦がいるときは絶対に行かないようにしている。敦もここに近づいているところを見ないので、多分避けているのだろう。


 「んーとね、赤ちんを待ってたのー」


 「僕を?」


 「うん、そろそろ疲れちゃったかなーって思って」


 敦の言葉に首を傾げる。よくわからない。そりゃあ、僕だって人並みに疲れを感じることがある。しかし、今は疲れを感じていないし、それにさきほどまで空を飛んで、いい気分を味わっていたのでストレスもない。


 「疲れなんかないけど…」


 「でも、ここに降りてきたじゃん」


 それは敦がいたからで、べつに疲れたから降りてきたわけではない。そう言い返したかったが、その前に敦はあの大きな手で僕の頭をぽんぽんと撫でた。それは優しいもので、何も口から発せなくなってしまった。


 「ほら、赤ちん。いつもみたいに寝転んでー」


 敦はへらりと笑いながら、そのまま座り込んで胡坐をかく。そして、膝をぽんぽんと叩いた。きっと膝枕をしてくれるのだろう。蟻が寄ってこない屋上ではよくしたものだ。しかし、いつもはどのように寝転んでいたか…とまるで思い出を振り返るように記憶の糸を辿る。そして、思い出した通りに敦の膝に頭を乗せるように寝転んだ。





 久しぶりだな…




 なぜかはわからないが、そう思ってしまった。いつも会っているはずなのに、今日はひどく久しぶりに感じた。敦の温もりや声、姿を毎日いやほど見て、感じていたはずなのに…
 寝転んだ僕に敦はゆっくりと頭を撫でる。それがひどく心地いい。多分、空を飛んでいたときより何倍も。周りの雑音もいつのまにか消えていた。










 「赤ちんは真面目だから、いつも全力でいるけど。たまに休んでもいいんだよー」




 「敦…?」



 いきなりの言葉に僕は名前を呼ぶことしかできなかった。今日の敦はいつもと違う気がした。僕に意見することなど敦はほとんどない。そんな敦が僕に意見をしたのだ。



 「べつに完璧じゃなくていいじゃん。俺は赤ちんの言うこと聞かなきゃダメダメなやつだけど…今でも十分幸せだよ。赤ちんのそばにいれるだけで幸せ」










 だから、赤ちんもそう思ってくれたらもっと幸せ。





 敦の様子はいつもと違う。それは気がかりなことだが、敦の言葉は真っ直ぐだった。裏表のない言葉はまっすぐに僕の心にしみこむ。ふと、敦の表情が気になった。しかし、見上げた敦の顔はよく見えなかった。多分、太陽が敦の頭のところにあるからだ。表情は見えなかったけれど、多分敦は笑っていると思う。だって、敦の手は相変わらず優しかったからだ。その感触になぜか泣きそうになった。多分、普段聞かない言葉を言われたからだろう。








 でもな、敦…




 「それじゃあ、ダメなんだよ。僕は勝ち続けなきゃいけない存在なんだから」




 生まれたときから、勝者の道を歩むことが決められていた。負けることは許されない。いまさら、道を外れることは許されない。だって、僕は『キセキの世代』のキャプテンである赤司征十郎なのだから。






 「でも、ありがとう。敦…」




 お前がここにいてくれて本当に良かった。敦の言うとおり、もしかしたら僕は疲れていたのかもしれない。でも、もういいんだ。敦は自分の居場所に帰るといい。敦が心配しなくても、僕は一人で勝利の道を歩み続けることはできる。たとえ、光が見えなくなった深海に溺れたとしても、僕は進み続けるよ。



















 敦の感触は消えていた。当たり前だ。僕はずっと深海の奥の奥に沈んでいるのだから。きっとさきほどの感触は僕が作り上げた幻影だろう。空を飛んでいたということも、敦がそばにいたことも、すべて嘘だ。本当に笑いが出てくるほど、よくできたものだった。


 いつからだろう。勝利を掴んでも、自分は沈んでいく存在だと気づいたのは。光に手を伸ばして勝利を手に掴むはずなのに、いつのまにか光が遠くなっていた。そして、気づいたときには、光が届かない深海にいたのだ。深海にいて、苦しいと思ったことはなかった。それが当たり前で当然だったから。寂しいとは少し思ったことがある。けれど、光へとまた進み出した彼らを止めようとは思わなかった。
 深海に沈むのは、僕一人だけでいい。







 「それは違います。赤司くん」




 誰かが僕の手を掴む。沈んでいく僕をこれ以上沈まないように引っ張っている。そんなことをしても無駄だよ。僕にとっては、勝利とは当たり前のことだ。人が重力に従うのが当然のように、僕がこの勝利に堕ちていくのは当然なのだ。だから、そんなに引っ張らなくても、どうせ堕ちていくよ。







 「違いますよ、赤司くん。君はそんな場所にいない」




 頬に触れられる。でも、ここは真っ暗だから何も見えない。頬に触れ、目の前にいるのは誰なのかわからない。そんな誰かが僕の居場所を否定する。何が違うんだ。僕は今までここにいた。だから、わかる。ここは深海だ。何も感じない、何も聞こえない、静かな世界だ。






 「ここは静かでも暗くもない。赤司くん、目を開けてください。耳を塞がないでください。やっと君のもとに辿りつけたんです。僕を見てください」





 その言葉で自分が目を強く瞑り、手で耳を押さえていたことに気づいた。その優しい声に導かれるまま、手を外した。目を開けた。




 風の音が聞こえた。




 澄んだ空がそこにあった。








 「テツヤ…」





 「迎えにきましたよ、赤司くん」








 一緒に帰りましょう。
 そういって、テツヤは笑った。












△△△△△△△△






 ピッピッピッ…



 電子音が耳に響いた。目をゆっくりと開けると、一番初めに視界に入ったのは真っ暗な部屋に見慣れない白い天井だった。





 ここは…どこだ?




 ゆっくりと視線を左に移す。そこには見慣れた緑色の頭があった。その緑色の人物の肩に青色の頭がもたれかかっている。その緑色の人物はスタンド電気だけをつけて、本を読んでいた。




 「……し、んた…ろう…?」




 声を出した瞬間、自分の喉が張り付いた。咳き込みそうなのを押さえて、つばを飲み込もうとしたが、のみこむ唾も出てこなかった。すると、緑色の頭の人物…もとい真太郎は驚いたように顔をあげた。あぁ、真太郎の顔、久しぶりに見た気がする。




 「あ、かし…!」




 慌てて真太郎が立ち上がろうとしたが、肩に乗っている大輝の存在を思い出したのだろう。彼は僕から大輝へと視線をずらし、起こさないように大輝の肩を背もたれにもたれさせることで、自身から離した。そして、ゆっくりと俺に近づいてくる。その顔はどこか怒っているように見えた。


 そういえば、何で真太郎がこんなところにいるんだ…?





 「貴様、いつまで寝ているつもりなのだよ。俺たちがどれだけ…」




 真太郎は途中で言葉をつまらし、ふいっと僕から視線を逸らした。


 俺たち…?



 そう疑問に感じたと同時に、手にぬくもりがあることがわかった。視線をそれぞれの手に移すと、左には敦、右にはテツヤが僕の手を握り締めながら顔を突っ伏している。テツヤの隣には涼太もいて、僕の手を握っているテツヤの手の上に自分の手を乗せていた。

 なんで、こんなことになっているのかと疑問に思ったが、記憶はすぐによみがえった。
 そうだ、僕は負けたのだ。誠凛に…テツヤに。試合終了のホイッスルが耳の奥でなる。あのときの絶望は多分一生忘れないだろう。記憶は整列のときまではあった。テツヤが泣きそうな、でもどこか晴れ晴れとした表情で僕を見ていたのだ。その顔を見た瞬間、自分の全てが真っ暗になった。

 そこまで思い出すと、ここの場所を特定するには簡単だった。病院だ。自分の目に映した天井やシーツを見る限り、清潔感のあるその白は病院特有のものだから、間違いではないだろう。
 僕はまだ生きている。今までの自分はあまりにも勝利をすることが当たり前すぎていたから、負けたら死んでしまうのではないかと思っていた。しかし、そうでもないらしい。倒れはしたが、僕はしぶとく生きている。




 「まったく…世話のかかるやつなのだよ…」



 いつのまにか真太郎はベッドの傍にきていた。声が震えている。僕は真太郎を見上げるが、真太郎は眼鏡をなおすフリをして、目を合わせようとしなかった。しかし、めがねをあげているその手は震えていた。そこから、自分が一日寝ていた程度ではないということがわかった。
 真太郎に向かって話しかけたかったが、喉はまだはりついている。真太郎も自身が起こさなければならない行動を思い出したのだろう。




 「医者を呼んでくる…」




 そういって、真太郎は病室から出て行った。僕は目を窓の外に向ける。この暗さだと深夜にあたるだろう。





 脳裏には澄んだ青空が蘇る。優しい感触が蘇る。彼らの温かさがきっと僕をここに連れ戻してきてくれた。ありがとう。帰ってきたよ、僕は。


 目蓋が重くなる。あぁ、眠いな…真太郎が医者を呼びにいったが、もう一度寝ても大丈夫だろう。それに今は深夜だ。医者のほうが困るだろう。







 もう深く暗い長い眠りには陥らないと確信があった。堕ちても引っ張り上げてくれる人物が傍にいるのだから。だから、それまではおやすみ。




END


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