ハリ様への一万打御礼
賑わう午後の街でのことである。空には橙の雲が飛んでいた。爽やかな柑橘類の香りに誘われて、色とりどりの果実が並んでいる店の前を通りかかると、よく通る声がジャックたちの歩みをとめた。
「お嬢ちゃん、お兄さんと一緒に来たのかな?」
一瞬間、ティーの手が緊張して強張りをみせた。ぱっと青い瞳がジャックを仰いだ。
「手なんか繋いで、仲の良い兄妹だね?」
気の良い果物屋の店主は屈託ない笑顔で問うた。ティーはだんまりである。彼女はこの手の話題が嫌いで、こうしてわかりやすくむっつりしてしまう。
「悪い。こいつは人見知りでね」
「いいさ、こっちこそ悪かったねえ」
店の者は笑いながら、真っ赤な林檎をひとつ、ティーへ手渡した。
「また来ておくれよ、お嬢ちゃん」
ティーはおずおずと受け取った。礼はジャックがかわりに言った。
ティーはそれから物思いに沈んだらしく、静かになってしまった。重い口を開かせるのはなかなかに難しい。ジャックは先程からどうしたものかと思案していた。
「ジャック」
意外にも、ティー自ら堅く絞っていた唇をやんわりと開いた。この娘は元来表情に乏しいところがある。が、しかし、こころなしか憮然たる面もちでティーは足下を見つめていた。
「なに」
「……はやく、おとなになりたい」
「なんで」
「おとなになれば、ジャックの隣にいても変じゃない」
「今だって変じゃないだろ」
「でも、さっきだって妹と間違われた」
「じゃあ何だ。お前は、なんて思われたい。俺の隣にいて、なんて思われたら満足する」
ほのかにティーの頬が美しく染まった。瑠璃色の瞳が瞬く。水面に光が散る。
「ティーは」
細い指が、そろそろとジャックの手の甲に触れた。
「ティーはジャックのなに……?」
いじらしく唇を突き出して、しゅんとしている。
( その表情は、ずるい。 )
ジャックは息をついた。
「じゃあ、お前は俺の何なんだ」
「ティーはジャックのだもん」
彼は目を見開いた。
「は……?」
「ジャックはティーの天使だから、ティーはジャックのだもん」
珍しく、よく喋る。彼は腰に手を当てて、顔を覆った。ちらと見たティーは頬を膨らませていた。むくれた表情も愛らしい。
「だいたい、おとなってなんだよ」
「え?」
「俺はなった覚えなんてないぞ」
「でも、ジャックはおとなでしょう?」
「知らねえなぁ」
ティーは困ったように笑った。ジャックもクツクツと笑って、指先で幼い顔にかかった髪をはらった。柔らかな金色が弾んで、波打つ。
「じゃあ、こうしよう」
ほんのり赤い頬にそっと触れた。
「お前が、おとなになるまで」
真摯な眼差しがティーを見つめた。
「俺は待ってる」
彼は口元を引き結ぶと、照れたように目を伏せた。かわりに大きな手が差し出された。ティーは明るい瞳をきらきらと瞬かせた。
「約束する」
掌が重なった。花のような可憐な笑みがティーの満面に浮かんだ。
「うん。待ってて。ちゃんと待っててね」
急に辺りが明るくなったようだった。触れた先からじんじんと甘く痺れていく。ジャックは心が震えるのを感じた。気を抜けば、涙がこぼれそうになる。感傷的になると泣けて仕方がない。
「帰るぞ」
彼は小さな手を引いた。寄り添うように歩く。ティーの顔は輝いていた。華やかな顔立ちに笑みがたえない。うつくしかった。
胸にあたたかな水のようなものが満ちていく。それが溢れて、ジャックの左目から一筋の滴が頬を伝った。ティーがそれに気づくことはない。彼女には穏やかな彼の横顔がうかがえるだけである。
後日。ティーはあの果物屋の前にひとりでいた。それに気づいたらしい店主は休ませていた腰をゆっくりと上げた。先日の礼を伝えて、彼女は甘い果実を買っていった。家には、天使が待っている。
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