六花

どこもかしこも花だらけ。

真っ白な、六枚の花弁を持つ花――

ここはもう自分が元いた世界ではなく、天国にでも来たのではないかと錯覚するほどの花、花、花。

「はあー」

吐き出す息が白い。

吸い込む息は肺が凍るほど冷たい。

咲き誇る花が体を凍てつかせる。

「あっ……」

歩いていたら花に足を取られて転んだ。

やわらかい花の群れが顔に当る。

この花に触れるのは何年ぶりだろうか。

見ることもできなかった。

もしかしたら見るのも触れるのもこれが最後かもしれない。

「ラクル……」

彼の名前を呼んだだけで涙が自然と頬を伝った。


** *** **


少女、ルアン・パイカは極めて特殊な病気を患っている。

初めて発症したのは数年前の冬の初めであった。

まだ彼女が子どもだったとき、突然倒れて意識を失ってしまったのだ。

急いで幼なじみのラクル・エポタの実家が経営する医院で診られた彼女の症状は、極度の低体温症にかかり、ほとんどの臓器が機能を停止させていた。

すぐに入院したが、どんな治療を行っても彼女の病状は何一つ変わらず、彼女の目は固く閉ざされたままだった。

ラクルの祖父も父親も手の施しようがないと落胆し、ルアンの両親は娘がいつ亡くなってしまうのかと憔悴していた。

原因も治療法も分からぬまま時だけが過ぎ、冬が終わりを告げ、春の兆しが感じられる季節のころ、彼女はついに目を開けた。

驚くことに、目覚めた彼女の身体は健康そのものであった。

低体温症の後遺症も何もなく、神の奇跡だと、みなが口を揃えて驚いた。

入院していたとは信じられないほどの元気な姿で退院したが、翌年の冬の初めに彼女は昨年と同じ症状にかかり、再び入院した。

二度も奇跡が起こるのだろうかという周囲の心配や不安をよそに、冬が終わると彼女は昨年と同様に目を覚ました。

一体どういうことなのか。

ラクルの祖父と父親は知り合いの医師たちと幾重にも議論を重ねて、ある一つの仮説を導き出した。

ルアンの病気は「冬眠をする」ものだと――

人間が他の動物のように冬眠をするわけがないと、殆どの医師は半信半疑であったが、彼女が毎年毎年冬の始まりに眠りにつき、冬の終わりには目を覚ますことを繰り返す症状は疑いを確信へと変えていった。

初めての発症から数年経った現在、彼女は、医師となったラクルの住まう家に一緒に暮らし、毎日彼の診断を受けながら、治療法の研究を手伝っている。

そして今、彼女は彼と一緒に北国まで旅行に来ていた。

突然彼女が雪を見たいと言い出したのだ。

最初は断固反対していたラクルだが、ルアンの熱心な要望に折れ、外には必要時以外出ないことを条件に、彼女を暦上では秋でも雪が降る北国へ連れて来た。

しかし彼女は彼が買い物に出かけた隙を狙い、宿から抜け出し、いつ発症するかわからぬ身体で雪が降りしきる中に一人いたのだった。


** *** **


「――!」

声が、聞こえる。

どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。

「――!」

ああ、この声はよく知っている。

嬉しいときも悲しいときも怒るときも心配するときも謝るときも、いつでもどんなときでも、一番傍でわたしの名前を呼んでくれる人の声だ。

うっすらと目を開けると、ラクルの顔がすぐ目の前に見えた。

その顔は今にも泣き出しそうな子供みたいだ。

「よかった……」

ラクルはほっとした表情を見せ、身体を起こしてくれた。

「ごめんなさい、勝手に外に出て……」

「いや、君が無事ならいいんだ、それで」

彼を見ると胸が痛くなるほど鼓動が速まる。

彼に触れられると泣きたいほど切なくなる。

――今、話さなければ。

わたしにはもう時間がない。

そして本当の気持ちは隠したままで。

伝えたところで彼の負担になってしまう。

「……ラクル。わたし、この旅行から帰ったらあなたの家を出るわ」

彼が大きく目を見張る。

「なっ……! いきなり何を言うんだ!」

「ううん、前々から言おうとしてたの。でも言い出せなくて……。わたし、来年には修道院に入るそうよ。この前届いた父さまから手紙に書いてあったわ」

「修道院って……。病気は――病気はどうするんだ? 治療法はまだ見つかってないのに」

「命に関わらない、ただ冬の間に眠るだけの病気よ。うまく付き合うわ」

「……君はそれでいいのかい……?」

「だって、こんな身体じゃお嫁にも行けないでしょ?」

思わず自嘲の笑みが浮かんだ。

冬眠する娘を欲しがる家なんてあるわけがないのだから。

「今までありがとう」

無理矢理にでも笑顔を作ろうとしたが、堰を切ったように涙が溢れてきた。

修道院に入れば、ラクルには二度と会えない。

父からの手紙を貰ったときから覚悟はしていたはずなのに、いざ別れを告げると自分の感情が抑え切れない。

幼なじみとしてでも患者としてでも、彼の一番傍にいられて幸せだった。

病気を患ってからそれ以上の関係なんて望めなくなった。

それでも彼の傍にいられればそれでよかったのに。

もう、それも叶わない。

「……本当はどうしたい?」

彼が手を伸ばし、わたしの頬を流れていく涙を拭う。

「え……」

「僕は、君の本当の気持ちが聞きたい」

不意に強く抱きしめられた。

それと同時に彼が震えていることに気付く。

「ラクル……?」

「あの日――君が倒れた日、眠っている君を見たときとても怖かった。あのまま目を開けないんじゃないかって、もう声を聞くことも笑った顔を見ることもできないんじゃないかって……。今でも君が冬眠するたびに怖くなる」

ああ……。

わたしが眠るたびに彼はいつもこんな思いをしていたのだろうか。

こんな風に震えていたのだろうか。

先程の、今にも泣き出しそうな子供みたいな顔を思い出す。

彼はあの日からずっと、わたしが眠りにつくたびにあんなに辛そうな顔をしていたんだ……。

ひどく愛おしくなって彼の背に手を回す。

震えが、なくなる。

「だから僕は今までずっと君の傍にいたし、これからも傍にいたい。勿論君の病気が治っても――」

わたしの身体を支える腕の力がいっそう強くなる。

「一緒に逃げよう。君の病気を治せて、僕らが二人で暮せるどこか遠い国へ」

「そんな……急に……」

「君が僕の手の届かない場所に行くなんて堪えられない。君の本当の気持ちを聞かせてよ、ルアン」

ラクルがわたしと同じ気持ちだった。

それだけでも幸福なことだというのに、彼はわたしと一緒にいられる場所に行ってくれると言う。

あるのだろうか。

わたしの病気が治せて、二人が平穏に暮せるところなど。

信じていいのだろうか。

彼と二人でいられる未来を。

「わたしは……――っ」

目が霞む。

視界が揺れる。

暗闇に引き擦り込まれるような感覚。

身体から力が抜け、ラクルの胸に倒れこむ。

こんなときに発症するなんて……。

「……無理よ。私のこんな身体ではあなたと一緒に行くことなんてできないわ」

重い足枷のような眠気。

彼の人生の足枷になる自分。

自分の身体に、幸せな夢は幸せなまま終わらせるべきだと言われているようだ。

諦めるしかないとラクルに言おうと口を開こうとした矢先、身体が宙に浮く。

彼がわたしを抱き上げていた。

「そんなの、僕が抱えてでも負ぶってでも君を連れて行く。僕にいっぱい頼ってよ。恋人ってそういうもんだろ?」

「あっ……」

そう、彼はいつだってそうだ。

わたしが病気で諦めたものを乗り越えようとしてくれる。

いつも傍にいてくれた彼にしかできないこと。

「もう一度言うよ。ルアン、一緒に行こう。僕を信じてほしい」

目が潤む。

視界が滲む。

大丈夫。

この人とならわたしは大丈夫。

何でも。

どこまでも。

「うん……っ」

そのとき、二人の間に一片の白いものが舞い落ちてきた。

空を見上げると同じものが数え切れないほど降り落ちてくる。

「……雪か」

あっという間に空一面が白く覆われていく。

「雪じゃないわ……花よ」


** *** **


わたしが自分の病気を知ってふさぎ込みがちになっていたとき、ある日突然部屋に訪れてきたラクルは目をきらきら輝かせていた。

「ルアン! 来て来て!」

「え、なあに?」

「いいからいいから」

手を引かれながらついて行くと彼の実家の屋根裏部屋に案内された。

彼は窓際においてある顕微鏡を指差す。

「これ、覗いてみて」

「何か面白いものでも見つけたの?」

「面白いっていうか、まあ見てみてよ」

「?」

彼に言われるがままレンズを覗くとそこには、真っ白な六角形状の模様が視界いっぱいに広がっていた。

「わあ! なにこれ! すごくきれい!」

「雪の結晶だよ。実はこんなふうになってるんだよね。僕もさっき初めて見たとき驚いたよ」

「これが雪なの? こんなにきれいだったなんて知らなかったわ! ……でも雪なんてどこから?」

首を傾げると、彼は得意そうに笑ってみせた。

「去年の冬に降った雪を保存しておいたんだ」

「わたしに見せてくれるために、わざわざ?」

「うん。ルアン、君は雪を見られなくなったけど、こうやって別の方法で見ることだってできるんだよ。だからさ、二人で一緒に探そう? 病気になっても『これから』を楽しめる方法をさ」

これから……――

病気に悲しむばかりで考えたことなかった。

自分の過ごす冬が暖かい暖炉の前でも、温かい家族の中でもなく、暗いベッドの中で一人、ただ眠りながら過ぎ去るのを待つだけになってしまったと泣いていた。

でも彼が言うとおり、「これから」を楽しめる方法を探せたなら悲しむことなど何もない。

「……そうよね。ありがとうラクル!」

「どういたしまして。ルアンの笑った顔、やっと見れた」

二人で額を合わせて笑い合う。

それだけで春が来たような温かい心地になる。

「ふふ、今日はお花見ね」

「花?」

「雪ってお花みたいじゃない? 花びらが六枚ある真っ白なお花に見えるわ」


** *** **


そして少女は降り積もる花に包まれながら目を閉じた。





〈了〉










雪の話なので名前にアイヌ語を使いました。
パイカルアン=春になる
エポタラクル=医者
最後の雪が降ってくるシーンはスノードロップの伝説から。
エデンを追われたアダムとイブをある天使が励ました際、降っていた雪を天使がスノードロップに変えたそうです。(Wikipedia知識)


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