花想1

「郵便でーす」

(来た!)

日菜子の鼓動が一気に高まった。

急いで玄関に向かい、下駄を履く。

使用人たちは事情を察しているので引きとめようとする者はいない。

玄関を出ると、門のところに郵便屋さんの制服に身を包んだ青年が一人見えた。

「藤吾さん!」

藤吾と呼ばれたその青年は日菜子に気がつくと脱帽し、柔和な笑顔を向ける。

「こんにちは!」

「こんにちは、日菜子さん」

二人が互いにほほえみあうと、場にはなごやかな空気が流れた。

「はい、これが今日の分です」

「ごくろうさまです。お仕事がんばってくださいね」

「ありがとうございます」

藤吾は帽子を被りなおして日菜子の手を取る。

「次の休みのとき、どこか行きましょうね」

「……! はい!」

「では」

藤吾は日菜子の手を離し、次の配達先へと駆けていった。

日菜子はその姿が見えなくなるのを見届けてから一つ深呼吸をする。

心臓がどきどきしている。

顔も体も熱い。

気温のせいではない。

藤吾に会ったからだ。

おさまらない胸の鼓動とほてりを抱えながら日菜子は屋敷の中へ戻っていった。

日菜子にとっては一日の中で最も心がときめき、幸せに満ち溢れる時間が今日も終わった。

日菜子と郵便屋さんの藤吾は恋仲にある――

出会いは半年前。

その日、日菜子は仕事で英吉利に行った父からの手紙を待っていた。

門の外から郵便を告げる声がし、使用人の女が取りに行こうとしたのを引きとめて門の方へ行くと、自分と同い年くらいの青年が立っていた。

それが藤吾だった。

やさしい笑顔であいさつしてきた彼に、日菜子は一目惚れをした。

生まれてから十四年、初めての恋だった。

名も知らぬ郵便屋さんの青年が帰ってからも、日菜子の頭と心は彼のことでいっぱいで、眠りにつくまで彼のことばかりを考えていた。

名前は?

どんな人だろう?

きっとやさしい人。

いつから家の配達をやっていたんだろう?

もっと前から郵便を取りに行けばよかった。

この日以来、日菜子は藤吾に会いたいがために手紙を取りに行くようになった。

使用人たちも空気を読み、主人の息女に任せた。

幸い、父の仕事や交友関係のおかげで手紙は毎日家に届くので、藤吾とは毎日顔を合わすことができ、すぐに親しくなれた。

そして二人は徐々に惹かれあい、意外と積極的な日菜子からの告白により晴れて恋仲になれたのだ。


** *** **


数日後――

「郵便でーす」

「……あれ?」

いつも藤吾が配達に来る時間帯、藤吾のとは違う男性の声が聞こえた。

「藤吾さん、どうしたのかな…?」

昨日は家に届ける手紙がなかったらしく、藤吾とは会えなかった。

だから今日は会えると楽しみにしていたのに。

日菜子が疑問を抱きながら外に出ると、門の外にいたのはやはり藤吾ではなく、別の郵便屋さんだった。

「今日の分です」

「ごくろうさまです。あの、藤吾さんは…?」

日菜子は思いきって訊いてみた。

手紙は来るのに藤吾は来ない。

もしかしたら体調でも崩して寝込んでいるのではないかと思ったからだ。

「藤吾? ……ああ、深森のことですか。あいつなら昨日辞めましたよ」

「え……?」

「実家に戻るそうですよ。理由までは知りませんけど。じゃ、俺は次に行くんで」

郵便屋さんは次の配達先へ走り去っていったが、日菜子はその場に立ちすくむ。

(お仕事を辞めた……? 実家に戻る……?)

郵便屋さんが先程言っていた言葉が日菜子の頭の中をぐるぐる回る。

藤吾の実家のことは以前彼自身から聞いたことがある。この町よりずっと離れた町にあると。

だから仕事を辞めて実家に戻るなんて、何か余程のことがあったにちがいない。

日菜子は心配と不安で胸が押し潰されそうだった。

(藤吾さんは今どこに……?)

「日菜子さん?」

聞き覚えのある声がした。

日菜子が顔を上げると、普段会う制服姿ではない着物姿の藤吾が心配そうな顔をして立っていた。

「藤吾さん!」

「どうかなさ――」

「実家に戻られるって本当ですか?」

「!」

「さっき来た郵便屋さんから聞きました。それで昨日辞められたって……」

「……本当です。父が病で入院したと一昨日電報が来たので、一旦こっちを離れて実家を手伝おうと思いまして。今日はそのことをご報告しに来たのですが、先を越されちゃいましたね」

藤吾は苦笑いするが、日菜子は何と返せばいいかわからず押し黙る。

「ねぇ日菜子さん」

藤吾の黒く澄んだ瞳が日菜子を捉える。

その瞳が心なしか冷たく感じられ、日菜子は背筋が寒くなった。

「今日きりで私のことは忘れませんか?」

「…………今、なんて……?」

藤吾から突然突き出されだ別れ話に日菜子は耳を疑った。

「この町に帰ってこられるかわかりません。帰ってこられても何年後になるか……」

「だから別れるっておっしゃるんですか? 私は藤吾さんと別れるなんて絶対に嫌です!」

冷静に話す藤吾に対して日菜子は必死だった。

藤吾と別れたくないという気持ちでいっぱいだった。

別れるなんて考えたことがなかった。

ずっと藤吾と幸せな時間を過ごせると思っていた。

「会えなくなるなんて悲しいじゃないですか。いっそ別れた方が……」

「嫌です…! 私、いくらでも待ちます! 藤吾さんが帰ってくるまでずっと、ずっと……!」

すがるように嘆く日菜子を見ても、藤吾は動揺した表情を見せない。

それがいっそう日菜子の心を痛ませた。

「もしかしたらあっちで縁談が来て、結婚して、そのまま帰ってこないかもしれませんよ?」

「!」

藤吾は自虐的に笑った。

「それでも待つとおっしゃえますか?」

日菜子は思わず藤吾から目をそらした。

怖くなったのだ。

藤吾が別の女性と近しい関係になることが。

自分との関係がなくなることが。

そして自分が忘れられることが。

そんなの嫌だ。

悲しい。

寂しい。

怖い。

暗く重い感情が行き場をなくし、日菜子の目からは大粒の涙が溢れ出てきた。

藤吾は無言で袂からハンカチを取り出し、静かにその涙を拭う。

別れ話をしているときでも変わらずやさしい藤吾を日菜子は少し恨んだ。

(別れたい女なんかに優しくしなければいいのに……)

いっそ冷たく突き放されたほうが楽かもしれない。

今の日菜子にとっては残酷なやさしさである。

「あなたもそろそろ縁談が来る年頃です。どうか新しい方と幸せになってください」

幸せ。

幸せ?

今ここで藤吾と別れれば幸せになれるのだろうか。

父が持ってきた縁談で結婚して、藤吾のことは過去の人だからとだんだん忘れていく。

これが自分の幸せなのか。

違う。

「私の幸せは藤吾さんです」

いつでも会える人に恋をするのも、幸せの一つの形かもしれない。

でもそれは自分が願う幸せの形ではない。

今ここで別れてずっと後悔するよりも、別れず、会えないと日々悲しむ方がいい。

「だから、私は待てます」

「日菜子さん……」

「藤吾さんの気持ちはどうなんですか?」

「私の気持ち…?」

「そうです。私と会えなくなるというだけで別れたいんですか?」

「………」

「別れようとしているのは、私のことを考えての藤吾さんなりのやさしさだとわかっています。でも私は藤吾さんの恋人でいたいんです。別れたくありません」

日菜子の毅然とした態度に、藤吾は言葉が出なかった。

「勝手だとは思いますが……」

「いえ、勝手なのは私の方です」

「え?」

藤吾の表情はどこかふっきれた様子であった。

「何が大事で何が欲しいのかちゃんとわかっていたのに、意固地になって……。でも、あなたのおかげで決心がつきました」

藤吾は日菜子の手を握り、日菜子の顔をまっすぐ見る。

今度はやさしさを含んだ瞳で。

「待っていてください。必ず帰ってきます」

「はい!」

二人は互いを慈しむように見つめあった。

しばらく会えない。

だけど、待てる。待っていてくれる。

それがとても嬉しくて――

「あの、縁談はできれば断ってほしいです…」

「わかっています。日菜子さんもですよ」

「もちろんです。あとですね、藤吾さん」

「なんでしょうか?」

日菜子は自分の手の上に乗っている藤吾の手に、さらに自分の手を重ねる。

「寂しくなったときは私から会いに行きますね」


** *** **


藤吾が実家に戻ってから二年の月日が流れた。

二人の関係は相変わらず続き、頻繁ではないながらも文を交わしている。

「はぁ……」

日菜子は小さなため息を一つついた。

手元に一カ月ほど前に届いた藤吾からの手紙を持って。

細い丁寧な字でつづられたそれの内容は、実家の父が回復したこと、今咲いている季節の花のこと、町の人のこと、その他近況報告。

「はやく会いたいなぁ……」

手紙を書けば書くほど、読めば読むほど会いたくなって困る。

会いに行きたい。

でも待っていてくださいと言われたからには待っていたい。

だけど寂しくなったときは自分から会いに行くと言った。

乙女心は複雑である……。

「お嬢様」

使用人の女が日菜子の部屋の前に来た。

「今郵便屋が来ているのですが、お嬢様宛てに届いている荷物の受け取りがお嬢様ご本人じゃないといけないらしくて」

「わかったわ。すぐ行く」

急いで玄関に向かい、下駄を履く。

(なんだ、藤吾さんからの手紙じゃなかったのか)

日菜子の儚い期待はあっけなく散ってしまった。

玄関を出ると、門のところに郵便屋さんの制服に身を包んだ青年が一人見えた。

彼がこちらに振り向き、ゆっくりと帽子を取った。

「お久しぶりです、日菜子さん」

信じられない。

目の前に藤吾がいる。

二年前と変わらないやさしい笑顔を自分に向けている。

誰よりも何よりも愛しい彼が。

日菜子はいてもたってもいられなくなり、藤吾に勢いよく抱きついた。藤吾もそれを抱きとめる。

顔に、腕に、体に、確かなぬくもりを感じる。

夢じゃない!

「藤吾さんおかえりなさい!」

「ただいま帰りました」

ずっと言いたかった言葉が今ようやく言えた。

日菜子は顔を上げて藤吾を今一度見る。

二年前より大人っぽくなっていて、どきっとした。背も高くなっている。

「帰ってくるなら手紙で前もって知らせてくださいよ!」

「すみません。驚かせたくて」

「……でも会えて嬉しいです。ずっと会いたかったんですよ」

「私もです」

藤吾は制服の衣嚢に手を入れ、小さな包みを取り出す。

「なんですか、それ?」

「再会の記念です。もらってください」

藤吾が包みを開けると、小ぶりな藤の髪飾りが日の光に照らされてきらきらと輝いた。

「きれい……」

「日菜子さん、藤がお好きでしたよね」

日菜子は自分の名前につく菜の花も好きだが、藤は格別に好きだった。

幼いころに出かけ先で両親と見た藤棚がまるで別世界にいたかのように幻想的で、心に強く残っているからだ。

だから自分が好きになった相手の名前に大好きな花の名前がついていると知ったときにはとても嬉しかった。

「じっとしててくださいね」

藤吾の二年前より大きくなった手が伸ばされ、やさしく日菜子の髪に触れる。

さっきは自分から抱きついときながら、藤吾との至近距離に日菜子は気恥ずかしくなった。

体が二年前と同じ胸の鼓動とほてりを思い出してきた。

「はい、できました。お似合いですよ」

「ありがとうございます」
藤吾は満面の笑みを浮かべ、日菜子も赤くなってほほえむ。

やっぱり自分は藤吾のことが好きなんだ。

離れ離れになっても変わらなかった想い。

藤吾も自分と同じ気持ちのままだった。

ただただ嬉しい。

幸せをかみしめている日菜子を見つめながら、藤吾はいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「日菜子さんならご存知ですよね」

「え?」

「藤の花言葉」

藤の花言葉
それは
『決して離れない』





〈了〉










ほぼ処女作。まだ話を書くことに恥じらいがありました。
藤史郎と咲菜の名前の元ネタです(…というよりこの二人からあっちの二人に使い回されたというかげふんげふん)


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