桜の花が咲く前に

「ごめんくださいましぃ」

玄関の方から若い女性の声がした。

「今日は人間の来客か」

青年は吸っていた煙草を灰皿に押し潰し、腰を上げてそのまま玄関へ向かう。

磨り硝子がはめられた戸には人影が一つ写っているが、彼は一人だけじゃないのか、と小さく呟いた。

戸を半分だけ開けると、二十歳くらいの若い女性が緊張した面持ちで立っていた。

青年は女性の隣――何もない空間に一瞥し、また女性を見る。

「突然お邪魔してすみません。こちらは涼鯉(すずり)先生のお宅でしょうか?」

「そうですが」

涼鯉と呼ばれた青年が短く肯定の返事をすると女性の顔はぱっと明るくなった。

「とりあえずご用件は中で聞きましょう。お上がりください」

涼鯉が女性を案内した部屋は畳敷きのこぢんまりとした部屋で、閉めきった硝子戸からは外の光がふんだんに注ぎ込み、真新しい畳の縫い目をつやつやと照らしている。

「そちらの御仁はアヤカシですよね」

腰を下ろした涼鯉が唐突に口にした言葉は世間一般の人間にとっては全く聞き馴染みのないものだった。

アヤカシ――それは人間には見ることができない異形の存在の総称だ。

しかし稀に見ることのできる人間もいる。

見えない人間にとっては何もない空間だが、見える人間にはアヤカシが他の生物と同じように存在している物体として視界に映る。

見える人間にしか認知されていない存在、それがアヤカシである。

「はい。こちらは人来(ヒトク)、鶯のアヤカシでございます。あ、あたしは梅枝と申します」

梅枝は慌てて涼鯉に頭を下げてから興奮気味に話を続ける。

「人来が他のアヤカシ達から先生のお噂を耳にしたんです。アヤカシが見えるうえに、絵に描く方がいらっしゃるって」

「絵と言っても画帳に鉛筆だけで描いたお粗末なものですよ。そんな大層なものじゃない」

涼鯉が苦笑しながら頭を掻くが、梅枝は落胆する様子もなく大きく首を振った。

「それでも良いんです。先生にあたしと人来の絵を描いていただきたいんです。そのために今日はこちらに参りました」

「ええ、そりゃあ構いませんよ。一寸待っていてください。画材を取って来るので」

席を立ち、奥に引っ込んだ涼鯉を目で見送ると、梅枝は依頼を受けてもらってほっとしたのか、一息吐いた。

「噂が本当でよかった。ね、人来」

梅枝は人来がいるのであろう隣の空間に、少女の初々しさが残る笑みを向ける。

「こうやってよそのお家であなたと話せるなんて不思議ね。あ、あたしの髪型地味じゃないかしら? せっかくなんだから着物だって……。え、そんなことないわよ。もう人来ってば……」

もしアヤカシを見ることのできない人間が今の梅枝の様子を見たら、ひどく気味悪がったにちがいない。

彼女は誰も座っていないところを向いて、そこに嬉しそうに話しかけているのだから。

それほど、アヤカシの見える人間と見えない人間の視界は別物であった。

「お待たせしました」

「あ」

涼鯉が画帳と筆入れを引っ提げて戻ってきて、梅枝は慌てて背筋を伸ばした。

それを見て涼鯉は小さく吹き出す。

「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。そんなに時間は掛りませんので、あんまり動かないようにはしてください」

「は、はい」

涼鯉は早速画帳を広げ、鉛筆を動かし始めた。

鉛筆が紙面の上を引っ掻くように滑る音だけが室内に響く。

二人が座る正面を一寸見つめては、すぐに画帳に目を向けて迷うことなく画帳に鉛筆を走らせ、また正面を見つめ……幾度も幾度も同じ作業を繰り返す。

様々な濃淡の薄墨色が画帳を埋めていく。

細い線は一本一本、繋がり重なり、それらは固まりとなり少しずつモノの輪郭をかたどる。

顔、目、鼻、耳、口、髪、首、肩、衣服……。

真白だった画帳は涼鯉の軽やかな手付きによってどんどん形を作っていった。


** *** **


しばらくして鉛筆の滑る音がぴたりと止んだ。

「……よし、こんなもんだろう」

涼鯉は満足そうに頷いて鉛筆を畳に置く。

つい先ほどまで鉛筆を走らせていた頁を画帳から丁寧に破って切り離すと、それを梅枝に手渡した。

彼女は渡された絵をまじまじと見つめる。

そこには梅枝自身と、その隣に穏やかな笑みを浮かべる目元が涼やかな男性――人来が描かれていた。

「すごい……あたしにしか見えてなかった人来がこんなふうに……。先生、ありがとうございます!」

梅枝は両腕で大事そうに絵を抱えながら絵に描かれた自然な微笑みとは正反対の、無理矢理作ったような笑顔で人来のいる方に顔を向ける。

「人来、これであたしあなたの顔をずっと忘れないでいられるわ。あっちに行って何年経っても、ずっとずっと・・・…」

梅枝はそこで急に言葉を切って目を伏せる。

その目からは涙が一筋、頬に流れていた。

様子を見ていた涼鯉は眉間に皺を寄せ、梅枝を見据える。

「別れてしまうのですか、彼と」
「はい。あたし、桜が咲く頃に遠い所へお嫁に行くんです。だから最後に、と思って……」

涼鯉は袷の袂から煙草を取り出し、火を点ける。

硝子戸の先にある外に視線を向けながら静かに煙を吐いた。

暦の上ではもう春だが、夕方と呼ぶにはまだ早い時間なのに空はもう薄暗くなっている。

「あなた方みたいなお客さん達、時々来るんですよ。恋仲の、人とアヤカシが。でもみんな人間の方が彼らから離れていってしまう。結婚やら歳やらで。だからお互いに忘れぬようにと、お互いの存在が夢でも幻でもなかったと残るようにと、みんな俺に絵を依頼しに来る」

最後の方はほとんど独り言のようになっていた。

外を見つめる涼鯉の目には遠い過去に思いを馳せるような、どこか悲しげなものが漂っている。

「人とアヤカシは生きる時間も、生きる道も全く異なる。だのにどうしてこうも惹かれ合うのでしょうね」

淡々と呟いてから涼鯉はまた一つ静かに煙を吐いた。





〈了〉










『夏目友人帳』と『乙女なでしこ恋手帖』に影響されて書きました。
あと恋愛が当事者のじゃない話も書きたくて。


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