携帯に傷が付いた。ショック。まだ買い換えて間もない携帯だったのに。画面の右隅に入った一本線の傷を指でなぞる。…本当に最悪な気分。はあ、と無意識に溢れる溜め息に向かいに座る男が一瞬反応を示しこちらを一瞥した。どんどん重たくなっていく二人の空気に気分もどん底まで沈む。携帯に傷が付いたこととか、宮地先輩からの着信を無視してしまったこととか、花宮に叩かれたこととか、原因は数知れないけれど。そもそも何で私はこんなところにいつまでも居るのだろう。こんな仕打ちを受けたのだからさっさと帰ってしまえば良いんだ。そうは思っても私の腰は重い。花宮の鋭い眼光がそれを許さないからだ。

「……」
「………」

未だにこの沈黙を破る気配はヤツには無いようだ。もちろん私も。何かを言わなければとは思うのだがどうしてもその勇気が出ない。言いたいことなら山ほどあるのに、肝心なところで声は出てきてくれないのだ。ああ、もう、こんな重たい空気嫌だ。きっとまだ先ほど手を叩かれてから3分も経っていないだろう。だけど私には今までの沈黙の時間が数十分あったかのように思えて仕方がない。花宮は感情の伺えない顔で私の手元をじっと睨みつけたまま何も言わない。どうせなら思っていることの全てを吐き出してくれたら幾分楽なのに。お前なんか嫌いだと、もう俺の前に現れるなと、そう一言言ってくれたら良い。そうすれば私も嫌いだと言い返して私たちは終われるから。

「……、」
「………」

カラン、と溶けた氷が音を立てる。もうとっくにオレンジジュースは飲み干した。だからもう帰って良いはずなの。帰って、宮地先輩に電話をかけ直して、今日のことは全て忘れて。一刻もそうしたいのは山々なのだけれど、この相容れない空気は何。居心地の悪さに耐えかねて身じろぐ。すると一度だけ私の目を見据えた花宮が忌々しげに舌を打った。…急に何をそんなに。そこまで彼を怒らせるようなことをしたのか。ただ私は掛かってきた電話に出ようとしただけ、だったのに。マナーが悪いとか、そういうことでは無いと思うけれど。公共の場で携帯を使うな、ばっちん、という事だったのか…。いやそんなまさか。そんな妄想を繰り広げる私に痺れを切らしたらしい花宮は恐ろしく険悪な表情で沈黙を破った。

「さっきの」
「……はい?」
「電話」
「…電話?」
「誰」
「だ、誰って…」

淡々と間髪いれずに吐かれる単語に思わず戸惑う。じとりと何もかも見透かされたような花宮の瞳はとても怖い。さっきの電話は誰からだったのかという問いかけに言葉を詰まらせるとそのただでさえ怖い瞳はより一層凄みを増して険しくなった。…何だ、この尋問まがいなものは。冷や汗がにじみ出るのを感じつつ答えを探した。単刀直入に言えば、宮地先輩だけど。そもそも花宮は宮地先輩を知っているのか。いや、まさか知らないだろう。黙りこくった私に花宮は再び苛立ちをたっぷり含んだ舌打ちをすると、もう一度誰、と言葉を投げた。本当、何でこんなハメになってるんだろう私。

「部活の、先輩ですけど」
「男だな」
「…いや?女です」
「お前嘘つくとき目そらすよな」

えっ。私の渾身の嘘も見事に見破られた。何だこの男…どこまで私の生態を把握しているんだ。蛇に追い詰められたカエルのごとく身を縮ませる私に花宮は鼻で笑った。もう何十回とされてきたその冷たい反応にさえ今の私はひるむ。さあ、どうしようか。逃げ場を失ってしまった私は目の前の鬼の鋭い瞳に思わず涙が滲んだ。帰りたいですお母さん。その鬼こと花宮はテーブルの下にある私の足にさりげなく自分のそれを乗せ、一見爽やかにまた言葉を吐く。

「名前は?」
「…みょうじ なまえです…」
「いやお前じゃねーよふざけてんのか」

ぐっと踏まれた足に力を込められて顔が歪んだ。痛い、というかこれもう完全なるイジメではありませんか。ちょっと児童相談所に駆け込んで良いですか。ただ聞かれた質問に答えただけなのに。誰の名前かを明確に聞かなかった花宮が悪いんじゃないか。まあ明確に問いかけられたとしても名前なんて教えてあげないけれど。だって宮地先輩は私のだから。花宮には絶対あげないから。いくら宮地先輩がイケメンで男前でちょっと可愛いからって私の宮地先輩に手を出すのはやめてもらいたいですね。と、まあそんなことを言ったらきっと私の踏まれている足が砕け散るのだろう。近くの席に座ったお姉さんたちが花宮を見てカッコイイだなんだと話しているのが聞こえたけれどそんなお姉さんたちに今すぐ見せてあげたい。このテーブルの下の足の状況を。

「オイ聞いてんのか」
「はい…あのですね、失礼を重々承知の上で言わせて頂きますが私のプライバシーにあまり干渉するのは良くないことだと思います」
「ハ?俺の玩具の分際で何言ってんだバァカ」

珍しくまともなことを言ったつもりなのに全てを吹っ飛ばされるような言葉を返された。いつどこで私が花宮の玩具になったのか詳しく聞きたいところだが多分これは花宮の俺様ルールにのっとったものであって私に理解することはできないのだろうと思う。私にプライバシーなんてものは無いと言い切ったような花宮にすごくツッコミたいことがあるけれどどうせそれも意味はなさないんだろうなと判断した私は全てを諦めた。花宮って頭良いのに何か変だよね。どこで路線を間違えちゃったんだろう。きっと花宮も小学生ぐらいのころは可愛かったはずなのになあと泣き惜しむ私に花宮は氷のような視線を容赦なく浴びせ、確信を突いた言葉を言い放つ。

「まさかそいつのこと好きだとか言わねえよな」
「……」

何この人エスパー。さっきから花宮は私の心をいともたやすく読み取り、ズケズケと突いてくるわけだが。何なの、私の全ては花宮に握られてるの。やっぱり花宮の言うとおり私はこいつの玩具なの。なんてバカバカしいことだけどもうここまで来るとそう思ってしまうのも無理は無い。図星を突かれて押し黙った私を見つめる花宮はやはり蔑んだような表情で言う。もうやめてほしいのに。

「ふはっ、本気かよ。お前がそこまで好きになったところで相手がお前に振り向くワケねぇだろバァカ」
「何でそう言い切れるんですか」
「まぁ仮に振り向いたとしても…そうだな、一ヶ月も持たずに終わるんじゃねぇ?」
「何を根拠に、」

食い下がるようにテーブルに手をついて立ち上がると私を見上げた花宮がふっと笑った。それはそれは愉快そうに。童話の魔女でさえも怖気付きそうな不気味な笑みを携えて。その表情に一瞬怯むも今更引き下がれはしない。じっと花宮を見つめると彼は不意に私の腕を力強く自分へと引っ張る。その力に逆らえずテーブルに乗りかかるように肘を付いた私の目に花宮の不敵な表情が映った。オレンジジュースの入っていたグラスが倒れている。脳の片隅でそんなことを思いながら至近距離にある花宮の瞳を睨む。そしてその形の良い唇は見た目とは不似合いな言葉を休むことなく紡いでいく。

「よく考えてみろよ。お前、可笑しいと思わなかったか?」
「…何、」
「中学時代、付き合っても一ヶ月も持たず男の方から別れを切り出されて。自分から告白しても一度たりともそれは実らなかった。そうだろ」
「……それと花宮先輩と何の関係があるっていうんです、?」

本当は少しだけ分かっていた。でも、信じたくなかった。中学時代私が好きになった人は必ずと言っていいほど私を怯えるような目で見ていたし、私と仲良くしてくれていた男の子だって次第に私から距離を置いていってしまうから。まさか、とは思っていたけれどそれほど気にすることなく今に至っていたのに。今になってそれが。視界に映る花宮は嘲笑し、目を細めて言う。
「分かってるくせに」

ああ、やっぱり。目の前が真っ白になっていくような感覚に陥りながら花宮に掴まれている手を振りほどいた。何で、そこまでして。どうしてこんな私にそこまで執着するのか。疑問は積み重なっていく。けれどそれ以上に今は目の前の人物が恐ろしくて仕方がなかった。今すぐここから立ち去りたい。宮地先輩に会いたい。あの爽やかな笑みで物騒な言葉を投げかけられたい。なんて。現実逃避にも似た妄想を繰り出し、花宮から目を背ける。どうしよう、今なら逃げられるかも、しれない。けど。震えそうになる声を振り絞って、どうしても伝えたい言葉を。

「花宮先輩は、私の、」

何?

「嫌いなら、もう顔は見せないから。そんなに私のことが嫌いならもう姿なんて見せませんから、」
だから、許して。
懇願するように絞り出した言葉は弱々しい。その様子を少し目を丸くさせて見ていた花宮はまたすぐにいつもの意地の悪い笑みに戻り、そっと私の手を取り指を絡ませた。それは艶やかというまでになめらかな動きで。きゅっと握られたそれに訳がわからないまま呆気にとられるように花宮を凝視した。そしてその時見た花宮の表情は今までになく柔らかいものだった。…誰だ、この人

「好きだよ」

そんな、作った笑顔で言われても信じられるわけも無いのに。



それからどうやって花宮という魔の手から逃げたのかよく覚えていないけれど何とか家までは辿りついたらしい。深いため息をついてから自分の部屋に入る。今日は散々だった。花宮のお遊びに付き合うのなんてもうごめんだ。全部、そう、今日のことは全部花宮のお遊びだったんだ。中学時代の話も、最後の告白まがいなものも、全て。そう思っていなくてはこの先やってられない。そもそも花宮が私を好きだなんて天地がひっくり返っても無い話だ。そんな笑えない冗談はもうやめてもらいたい。とりあえずやはり傷の入った携帯を取り出して着信履歴を確認する。宮地先輩の履歴を選択し、かけ直そうかと考えるが。
そこは思いとどまってメールにした。出られなくてごめんなさい、何かあったんですかという内容で送信するとしばらく時間をあけてから大したことじゃない、という返事があった。何だとあからさまに肩を落とす。…でももし、さっきの中学時代の話が本当だったとして。今も以前通りになるとしたら花宮は。宮地先輩は。

…それは、嫌だなぁ

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