伊藤開司
「名前!!!」
勢いよく飛び込んできたのは、黒髪で長髪の男性。
その人はベッドへ駆け寄ると私に勢いよく抱きついた。
「!!」
「名前、名前〜…ぐすっ、良かった、俺、もうお前が目を覚まさないかと思、」
「…こ、こら離れなさい伊藤さん!名前さんがビックリしているでしょう!」
看護師さんに引き剥がされようとしている。
けれども彼は私に抱きついたまま離れようとしない。
不思議と怖くはなかった。
さっきまで知らない人に囲まれてとても不安だった心を溶かしていくようだった。
それに、彼の匂いには覚えがある…気がした
この中で私のことを分かってくれる唯一な人の気がしたのだ。
「…やだ。離れないで」
私も彼の服を軽く握った。
「仕方ないわねえ…まあ、1ヶ月ぶりなんだから無理もないわね」
「2人きりにしてあげましょう」
「名字さん、伊藤さん。彼女は目を覚ましましたが、まだ安全だとは言いきれません。この後すぐ、しっかりとした検査を受けていただくことになります。30分ほどは我々も席を外しますが、そのつもりでよろしくお願いしますね」
伊藤さんと呼ばれた彼以外を残して全員が出ていった。
さっきは反射的にあんなことを言ってしまったが、2人きりというのは緊張する…
なんせ、私には記憶が無いのだから。
そんなこと知る由もない彼は私に話しかけてくる。
…号泣しながら。
「名前、本当に良かった…すごく心配したんだぞ。俺お前が眠ってる間も毎日ここに来て…
お前が目を覚ますかもって思ったらパチンコとかも行く気になれなくて…うぅっ」
目の前で泣かれると、どうしたらいいか分からない。
彼は私の恋人だったのかな…
「えっと、私はなんでここに入院していたんですか?」
「お前は信号無視したトラックに跳ねられたんだよ。…その日俺と約束してて…なかなか来ないお前を不思議に思ってたら、なんか事故があったって周りが騒ぎ始めて…っ見に行ってみたら血だらけのお前が…うぅっまた泣けてきた…ってなん、で敬語なんだよ。そんなよそよそしい話し方すんなよ…」
…なるほど、だいたい分かった。私は事故に合って、入院していたらしい。そこで頭でもぶつけて記憶が無くなってしまった…ということだろうか?
私はまた泣き始めた彼を横目で見る。
彼は私を見舞いに毎日来てくれていたそうだし、言うならこの人しかない気がした。
「その…ごめんなさい」
「だから、なんでそんな話し方、」
「私、記憶が無いみたいなんです」
記憶喪失。
…そんな漫画みたいなことに自分がなるなんて…
どこか第三者目線で見てしまう自分をよそに、彼は分かりやすく慌て出す。
「は…は!?どういうことだよ名前!!記憶が無いって…ちゃ、ちゃんと説明しろよ!!」
「説明も何も…言った通りです。目が覚めるまでの記憶が何もありません。私が誰だかも分からないし、…あなたのことも分から…ないです」
言うにつれて声が小さくなってしまった。
私のことを大事に思っているであろう彼にこの事を告げるのは少し、心が傷んだ。
「…」
彼は絶句している。
「お、俺の事分からないって、…本当に?なにも、思い出せない?」
「はい。…ごめんなさい」
「そ、そんな…やっとお前が目を覚ましてくれたっていうのに…そんなの…っ」
「…」
自分から言っておいてなんだが、本当に申し訳ない気持ちになってくる。
彼は絶望した顔になり、涙を流したかと思うと自身の裾で目元を乱暴に拭った。
そして、私の方に向き直った。
「…えっと、じゃあ初めまして…で、いいのか?俺の名前は伊藤開司だ。お前と俺は…その、付き合ってた。」
やはり私の恋人だったようだ。
「は、はい。初めまして。その…私の名前は名字…えっと、なんでしたっけ?」
「そ、そうか…自分の名前も忘れちまったんだもんな…お前の名前は名字名前だよ。俺は…名前って呼んでた」
「分かりました…覚えました。…本当にごめんなさい」
「そんな、謝んなよ…お前が悪いわけじゃない。あの運転手が100パー悪いんだからな」
「でも、伊藤さんをそんなに悲しませてしまって…」
あなたは、私を大切に思っててくれたんですね。
というと彼はまた目をうるうるとさせ始めた。
「そんな…そんな、伊藤さんなんて呼ぶなよ…お願いだから、そんな…」
「わ、分かりました!!私は普段あなたをどんな風に呼んでましたか?」
「…開司。カイジって呼び捨てだった。あと敬語も無かった」
「…分かりま…分かった、カイジ。ごめんね…そんな顔しないでよ」
知らない人を名前で呼んだりタメ口で話すのは気が引ける…いや、彼は他人じゃないのだ。これ以上伊藤さん…カイジを悲しませてはいけない。
「記憶、もう戻らないのかな…」
「…分からない。お医者さんに聞かないと」
そこまで言ってハッと気がついた。
「あの、カイジ…お願いがあるんだけど…」
「ん?なんだ?」
「私、さっき起きたから記憶が無くなったこととかカイジ以外に言ってないの。だから、お医者さんとかに説明しないといけない」
「…うん」
「その時…一緒にいてほしいの。説明は私がするから…知らない人に囲まれるの、怖い」
「お、おう!もちろんだ!」
私が少し怖がっているのが分かったのか、カイジは安心させるように頭を撫でてくれた。
不器用というか、あまり気持ちいい撫で方じゃなかったけど、暖かい。
「さっきもね」
「ん?」
「起きたら知らない人に囲まれてて、怖かった。…けど、あなたが駆け込んできてくれて私を抱きしめてくれて…すごく安心した。怖くなかった」
「…名前…」
「カイジ、ありがとう。私思い出せるように頑張るから」
すぐに医者や看護師が大勢来て検査の準備をし始めた。
私はタイミングを見て、彼らに打ち明けた。
話す時はなんとなく不安だったから、カイジの手をずっと握っていた。
カイジは口を挟むことはしなかったけど、最後に、俺も名前の記憶が取り戻せるようになんでもやりますと言ってくれた。
その顔はキリッとしていて…さっきの彼とは別人のようだった。
(…泣き虫って思ってたけど意外にこういう面もあるんだ…)
そして私は医者と共に検査へ向かった。