桜と梅の違いについて
リクエスト:切甘
***
なんというか、
「やだも〜エッチ〜。もう1回したいの〜?」
ここまで堂々と、“浮気”される自分が情けなくて、言葉が出なかった。
’桜と梅の違いについて’
「うめ、ごめん、昨日急にバイト入っちゃってさ。連絡しようと思ったんだけどする時間もなかった。もしかして待ってた?」
開口一番、それはひどく嘘臭くて。
「待ってた。けど、そうかなって思って寝ちゃった」
「そっか、じゃあよかった」
良くない。本当は、約束の時間を過ぎても目の前の彼が…亜月が来なくて、電話したけど出なくて、心配になって、亜月の部屋まで行った。自転車で20分ほどのところに住んでいるから、それは別に大した苦労じゃない。でも…
「今日もバイトだからさ、うめのとこいけない」
「ん、分かった。頑張ってね」
昨夜部屋の前まで行って引き返したなんて言えない。部屋の電気はついていて、ドアの前に立ってみれば中から女の子の声が聞こえてきて、思わず逃げ帰ってしまったんだから。
でも、亜月も亜月だ。
仮に僕が亜月のところに行ってなくても、それはどうしようもなく嘘臭い発言に思えたはず。本当にバイトでも、違っても、一言“ごめん、バイトだった”って言って欲しかった。夜中でも、朝になってからでもいい。それなら、疑っても信じてあげようと思えるから。
浮気現場と思わしき場面に遭遇して、僕は朝まで一睡もできないで学校に来て。だけど亜月は昼過ぎにやってきて、それまで連絡はなくて。でもそれを責めることなんて、僕にはできない。責めたら、終わってしまうと思った。
「お、亜月〜お前今来たのかよ」
「んー、寝坊」
「うめ起こしに行ってやれよ」
「いらねーって」
亜月は女ったらしの節操なし、と言われている。でも、そんな亜月を好きになったのは僕。
同じ高校で、僕はその頃からずっと好きだった。亜月は僕のことなんて知らなかったけど。まあ、接点もなかったし、言葉を交わす機会もなかったに等しいから仕方がないかもしれないんだけど…それでも、僕は亜月を好きになるきっかけになった日のことを、忘れられない。
「じゃあ俺がうめに起こしに来てもらお〜」
「つーか、ハマごときがうめって呼ぶな」
「もう定着してるから無理だって」
「うっぜーな」
「いいだろ、別に。お前のうめじゃねえんだし」
「うめは俺のだって」
それは高校一年の終わり。
“あ、あの、本…”
“ねえ、これって、桜?まだ三月入ったばっかりなのに、咲くの早いね〜”
“え?”
本、落としたよ、僕はそう話しかけようとした。亜月は、一棟と二棟に挟まれた中庭で、ぼんやりと薄く色づいた花を見上げていて。僕の話を聞くことなく、そう問うてきた。でもそれは桜じゃなくて。
“それ、梅…だよ”
“ふーん、梅…ね。俺桜よりこっちの方が好きかも〜”
亜月は興味なさそうにそう呟くと、僕の差し出した本を受け取ってそのまま立ち去ってしまった。その瞬間、僕は校内でたらしだと有名だった松本亜月に恋をした。だって、呟いたあとで小さく微笑んだ顔が、漏れた小さな笑いが、ひどく甘かったから。
「ふっ、亜月のとか、うめが可哀想だろ。つーか、お前らが仲良いのやっぱ変だわ」
「そお?」
ハマの口癖だ。たぶん、そう思ってるのはハマだけじゃない。僕だって、不思議だ。
よく考えても、変な話なのだ。だって、大学に入ってすぐ、告白されたんだ。僕が、亜月に。
校門のところに咲いた桜を見上げていた僕に、亜月が突然言ったのだ。
“それ、梅じゃないよ。俺、梅の方が好きなのに”
驚いた。風の噂で亜月が自分と同じ大学に進学するということは聞いていた。でも接点はないままで、ましてや話しかけられるとも思ってなかったから。まさか僕のことを覚えてたのかと、少し期待してしまった。
“僕も…そう”
“はは、まじで?じゃあさ”
「付き合おっか」と、軽々しく言った彼に、僕は頷いていて。彼の気まぐれだってことは分かってたのに。それでも僕はずっと好きだったから。悪い話ばかりを聞いているうちに、気づいたらどうでもよくなっているはずだからと言い聞かせて。 そうやって見ているだけで満足していたのに、その人がある日突然“恋人”になった。そんな始まりから、もう一年。
「あ、そういやあお前、マリちゃんとどーなってんの?」
亜月は、同じ高校だったってことも知らなかったし、僕が梅を教えてあげた人だってことは今でも知らないだろう。その出来事さえ、亜月の記憶にはないかもしれない。
「ほら、先週合コンしたときにお前がお持ち帰りした子」
「あー…別に、どうもなってないけど」
「1回きりなのかよ」
「いや、あのまま駅まで送っただけだし」
「お前が?ありえねえって。なあ、うめ」
「へっ、あ…」
「うめにそういうこと聞くなって」
「そうだな、うめはお姫様だもんな〜」
僕はまだ昨夜のことも消化できてないのに、こういう話は重すぎる。亜月を直視できない。
まあ、こんなのは日常茶飯事なのだけれど…僕らが付き合ってることは誰も知らないし…男同士だし、言えないのは当然と言えば当然だし。亜月もこんなんだから浮気してても驚きはしない。もちろん、ショックは受けるし泣くし、学校どころじゃないけど。
現状、精神的に結構しんどい。だって僕が部屋に来るかもしれないってわかってるのに女の子を家に連れ込んで、堂々と部屋で過ごしていたなんて。さすがにそれは驚く。
浮気かもと疑ったのは初めてだったから余計に辛くて。
「そうそう、うめはお姫様だからね」
「やめてよ、お姫様って」
「うめ今日も可愛いよ〜。ってことで今日飲みに行かね?」
「え?あ、うん、いいよ」
「亜月は?あ、バイトか。んじゃあ今日は二人でい─」
「あー、悪い。電話〜この後の授業代返頼むわ」
「はー?バレても怒んなよ〜」
今日はもう、顔を合わせることはないんだろうな…そう思うと悲しくて、でもそんなこと言えないし、ましてや今追いかけることも出来ない。遠ざかる亜月の背中を見送って、僕はハマと講義室に入った。それから一日の授業を終えて、二人でご飯に行った。適当に食べて飲んで、うだうだと喋って、閉店まで過ごす。慣れたコースだ。
「あー、どうする?店閉まるけど。誰か呼んでカラオケ行く?」
「いいけど 、明日朝からバイトなんでしょ?」
「おー」
もう出来上がってる。
ほんのりと頬を赤くして、出来上がっているから適当なことしか言わないハマに、僕は少し感謝していた。きっと一人でいたら、今頃めそめそ泣いていたと思うし、また眠れないでいただろうから。今はお酒も入って、程よく疲労感もあるから、きっと部屋に帰ればすぐ眠れる。
「あー、帰るかあ…あれ?うめ携帯なってね?」
「え… 」
「んあ、出ていーよ、お勘定だけしてもらうわ」
“松本亜月”
携帯の画面に表示されたその名前に、程よい浮遊感が消えた。亜月から電話がかかってくるなんて…どうしよう、なんだか嫌な予感がする。そう思いとどまっても、気持ちは早く声を聞きたいと急かしていて。
「もし、もし…」
「うめ?今どこ」
「へ?あ、ハマと飲みに来てて」
「まだハマと飲んでんの?いつ帰るの」
「えっと、も─」
「サツー、お勘定〜」
「サツのバイトしてる店?」
「、うん」
「迎えに行く」
「えっ、ちょ…」
強引に切られた電話を見つめているうちに、同じ学部のサツマくんがお勘定をしてくれていた。でも僕は亜月が明らかに変だって、そればっかりで。おさまらない動悸に吐き気さえしてきて、ハマに腕を引かれるまで俯いたままだった。「行かねえの?」と問われ、なぜだか亜月が迎えに来るってことを言えなくて、静かに頷いていた。
「サツー、ごちそうさん」
お店を出ると、外はもう普通に深夜で。亜月はきっとバイト上がりに電話をくれたんだろうけれど…ああ、亜月のバイト先、すぐ近くだから…でも迎えに来るって…
「…め、おいっ、うめ?どうした?顔色悪いぞ」
「っ、あ…なんでも、ないよ」
「今日珍しく結構飲んだからな〜。一人で帰れる?送ろうか?」
「だいじょ─」
「うめ!!」
ハマの大きな手が僕の頬を撫でた瞬間だった。
普段張り上げられることのない亜月の声が聞こえたのは。振り返るとその姿は夜の街で怪しくともり始めた電球に照らされていて。
「あ、つ…」
「亜月?おー、バイト終わり?」
「そう、偶然だな。帰るついでにうめ送る」
「あ?おお、了解」
「ちょっ、あつき…」
乱暴に手首を掴まれて、半ば引きずられるようにたどり着いたのは亜月のアパートだった。背後からはしばらくハマのご機嫌な声が聞こえていたけれど、それどころじゃなかった。
この部屋は昨日…
電気のついていた部屋は今は真っ暗で。そりゃあ、住人がここにいるのだから当たり前…じゃあやっぱり昨日は、亜月がそこにいて…
「亜月、痛い…」
「、ごめん」
亜月はそう言いながらも、僕の手を離してはくれなかった。食い込んでいた指は多少緩んだけれど、それでもまだしっかり僕を捕まえている。
「あのさあ、うめ。…ハマだからって無防備過ぎ」
「……へ」
「そうやって。うめは俺のなのに…相手ハマだって分かってんのに、バイト中心配でおかしくなりそうだった。本当はすっぽかしてうめのとこ行きたかったのに。他の誰かと二人きりなんてしたくないのに。それに昨日も、終わってから会いに行きたかったよ」
亜月らしくないことを言ってる、そう思いながらも、“昨日”という単語に背中が冷えるのを感じた。すっ、と。お酒が完全に抜けるような。
「…そ、」
「え?」
「っ、」
「何、うめ」
「何でも…ない、」
「うめ」
「……言ったら、もう」
ダメになっちゃう気がする。その言葉をのみ込んで下唇を噛むと、亜月の手が僕のそこを撫でた。「うめ」と、諭すような言い方に、不意に涙が零れていて。
「うめ?どうした?」
「っ、ずる…いよ、亜月。そんな風にされたら、どうしていいか…分かんない」
なんとか振り払おうとした手は、逆にしっかり掴み直されてしまい、僕はそのまま玄関のドアに押さえつけられてしまった。
「うめ、なに?言いたいことあるなら言って」
「……」
「言って」
「…きの……本当は、来たんだ。……ここ」
「え?」
「連絡つかなかったから、心配で…そしたら、電気ついてて、中から女の子の声が、聞こえて…それで、僕……」
“やだも〜エッチ〜”
いやらしくまとわりつくような女の子の声に、ぞわりと鳥肌がたった。亜月は少しだけ目を大きくして、どうして言わないんだと言いたげに眉を寄せた。
「ごめ…」
「どうしてうめが謝るんだよ」
「……」
「よく聞いて、うめ。確かに、昨日の夜ここに女の子はいた」
「、っ」
「でも、俺はいなかった」
「だけど」
「香月…兄貴がいた。兄貴が彼女連れてくるって。約束してたんだけど、俺急なバイトですっぽかしちゃって。うめが来るかもって、一言いっておけば良かったよな」
お兄さん…確かに、亜月にはお兄さんがいて、何度か顔を会わせたことはある。ならば昨日のあの声はお兄さんの彼女さんの声で…亜月に向けられたものではなかった、ということなのか…
「勘違いさせてごめん。あと、バイト終わってから学校で顔見るまで連絡もしなくてごめん。帰れたの朝方で、そのまま寝たら寝坊して…って、今さらじゃ全部言い訳にしかならないけど…でも、うめのこと傷付けたよね、本当にごめん」
「……」
「疑ってごめん、なんて言ったら怒るよ。悪いのは疑われるような俺なんだからさ」
視線をあげろと言うように、亜月の手が頬を撫でた。それに促されるまま亜月を見れば、情けなく眉をたらした顔があって。胸の奥がぎゅっとなった。思わずその目尻を指でなぞって、視線を絡めたまましばらく沈黙した。亜月のこんな顔を見たのは初めてで、動揺している自分と少しだけ喜んでいる自分がいて。
「あつ─」
「無理。」
「へ」
「俺、別れないよ。うめのこと離さないし、離れたくない。何処にも行かせない。だからふらないでよ。嫌な噂いっぱい聞いてると思うし、俺もそれ否定しきれないときあるけど、でも、今は…うめと付き合いはじめてから、うめ以外の人なんて見てない。だから…」
驚いた。だけど、正直、分からない。
亜月がそこまで僕と真剣に付き合ってくれてたなんて、思ってもなかった。どうしてなのか、いつからなのか、どこからなのか、わからないことだらけで、そもそもそれが信用できるものなのかも分からないのに。それでも嬉しくてしかたがないのは…
あの日“付き合おっか、俺、梅が一番好きなんだよね”そう言って笑った亜月が、あの春恋をした松本亜月くんだったから。たった一度の甘い声に恋して、2年恋い焦がれたから。そんなことを言われたら、僕だって離れられなくなる。
「お願い、嫌いになんないでよ」
僕が理由を知るのはもっと先の話なのだけれど、今はまだ、この“好き”という感情に流されてもいいと思った。
「ならないよ」
僕が亜月を好きになったきっかけを亜月が知らないように。亜月にもちゃんと、理由があるってことを。僕はまだ、知らなくても大丈夫なんだろう。
重ねた唇の冷たさに笑えば、酒臭いって怒られて、僕はもう一度笑った。
「なあ、あの子知ってる?」
「あー?ああ、5組のお姫様じゃん」
「お姫様?」
「そ、男のくせに女みてえだろ。だから」
「ふーん」
「そうそう、梅原だわ。梅原瑞季」
「うめ、ね。」
「梅原が、どうかした?」
「んー、ナイショ」
あの日から、平凡な梅が俺には特別なものになっていた。