「櫂さん、櫂」

何か言いたげな瞳は揺れるだけで、肝心の言葉にはされなかった。それをもどかしく思ったのはきっと、俺だけじゃない。つぐみ本人が一番、どうしたら良いのか、わからなかったんじゃないだろうか。

努力だなんてそんな


つぐみが勃起していることには気づいていた。
というか、させた自覚はある。激しくキスをして胸を撫でまわして、快楽に弱いつぐみがその刺激に素直な反応を見せることは、分かっていた。

だからなんとか、出来るだけ、抑えたのに。

ただただ往生際の悪い奴にしか見えなかっただろう。何より、付き合うことになったのなら我慢なんてしなくていいはずなのに、やっぱりまだ早い気がしたのだ。こんなにも簡単に受け入れられては、これからが心配だし、俺が我慢すればすむと言われてもそれはそれで無理だ。だからなるべく理性を保たせようと努力はしたのだ。

でも、それよりまずかったのは、つぐみの言いたいことを聞かなかったことだ。聞き出そうとすればきっとできたはずなのに、どうにも上手くいかなかった。というか、俺も結構ギリギリのところだったのだ。

「……」

つぐみの家を出て、その足でバイトへ行き、夜中には帰宅して次の日は4時からバイト。つぐみとはたぶん、顔をあわせない週末になる。それが幸か不幸か、それでも少しだけ安堵していて。会ってしまったら、また押し倒して服を剥ぎ取ってしまうだろうから。

いやそもそも、つぐみは分かっていない。
勃ったことを隠したのだ、やっぱり分かっていない。

そんなことを悶々と考え、迎えた日曜日。
つぐみからは金曜の夜に“今日はありがとうございました。バイト頑張ってくださいね。おやすみなさい”とだけメールがきた。相変わらずこのギャップはすごい。

「櫂ー、暇なら有の迎え行ってきてよ」

「……」

「おいくそ坊主」

「蹴るなよ」

「有の迎え行ってきて」

「小学校?」

「うん。肉まんでも買ってあげて」

「おいなんで100円なんだよ」

「貴様は自分で買え」

なんて母親だよと呟けば、お玉で思いきり頭を叩かれた。小学生で元気とやる気を捨てた俺としては、こういう母親が同じ生き物とは思えない。でもまあ行ってやるかと、上着を羽織って自転車の鍵を掴む。

「つーか、有何で行ったわけ」

「寒かったから送ってった」

「じゃあ迎えに行けよ」

「今カレー煮込んでるから無理」

なんて母親だよと、今度は胸の中で呟いて家を出た。小学校までは歩いて15分ほど。まあまあな距離をこの極寒の中迎えに行く自分は滑稽だけど、高梨家では割りと日常的な光景だつまり、なんだかんだ行ってしまうくらいには俺も兄貴な訳で。

「あ、にーちゃん」

「……」

「中で待ってれば良いのに。寒いでしょ」

小学生の弟は、バスケのクラブチームに入っていて、暗くなるのが早いこの時期はこうして迎えに来ることも少なくない。

「さみーよ。早く帰るぞ」

「はーい。、肉まん食べたい」

「……」

「ねーねー、櫂ー」

くそ、ポケットにあるこの100円玉は、やっぱり肉まんになるのか。すげえな、予知能力。
仕方なく近くのコンビニに寄れば、もちろんと言うかなんと言うか、当然他のものまで買わされるはめになるわけで。ため息を落としながらぐるりと店内を回ると、マフラーをぐるぐる巻きにした見たことのある横顔があった。

「……つぐみ?」

「、えっあ、櫂先輩!」

あれ、何でこんなとこいんの、と自然と出た言葉に「母さんと出掛けてました」と、嬉しそうな声が返ってきた。その帰り道だと付け加えたつぐみは、カゴに弁当とおにぎりを放り込むところだった。

「櫂先輩、おうちこの辺なんですか」

「あー、まあ」

母親帰ってきたのにコンビニ飯なのかとも思ったが、そんなのは俺が口を挟むことじゃないかと飲み込んだ。

「にーちゃーん、これもー」

「……やめとけ。今日カレーだぞ」

「えっまじかよまたかよ」

この時間にカレーパン食べるとかどんなだよと思いつつ、俺も小学生の時は馬鹿みたいに大食いだったなと思い出す。そのやり取りを見ていたつぐみは、きょとんと首をかしげて「櫂先輩の弟?」と呟いた。

「弟」

「にーちゃんの友達?」

「そうです、こんにちは。似てますね」

「こんちは。ねえ、ほんとに友達?櫂にいじめられてるとかじゃない?」

「あはは、そんなことないよ」

「じゃあいいけど。俺、ゆう」

「つぐみです」

「つぐみくん?つぐみくん今日これがご飯?少ないね」

「おい、有」

人様のカゴを身を乗り出して覗くんじゃないとジャージの襟を掴むと、「あとカップ焼きそば買おうと思ったんだけど、レジにあるから揚げも美味しそうだなあって思ってて」と、まさかの答えが飛んだ。

「大食いじゃん!あ、うちくる?櫂の友達でしょ?ご飯食べてけば?うちご飯大盛りだよ」

この無神経。
今日は親と過ごすんだからそっとしといてやれと思ったが、そんなことは有の知ったことではない。

「そうなんだ。だから二人とも大きいんだね」

「なっ!にーちゃんでかいよな」

「有、もう帰るぞ」

「えーつぐみくんは?」

「親、待ってるんだろ?」

「え?あ、えっと…もう、別れました」

「は?」

「そのまま、次のお仕事に」

じゃあこれは本当に自分の夕食ってわけか。あんなに楽しみにしてたのに、それを早々に次の仕事に行ったって…ケロッとしてるけど、本当のところどうなんだか。
というか、何よりちょっと喜んでる自分がまずい。泣いてんじゃないかなーとか、気にしてたからだろう。案外平気そうで、安心してるのもある。

「くる?」

「えっ」

「カレーだけど」

おいでよおいでよと、つぐみの腕を揺らす有は確かにオレに似た顔をしているけれど、中身は全然違う。

「でも、迷惑じゃ…」

「大丈夫大丈夫。だってなりなりとかいっつも急にご飯だけ食べに来るし。俺もにーちゃんもいないのに食べてたこともあったよ」

なりは例外だと言いたかったけど面倒だからやめた。代わりに上着のポケットから携帯を引っ張り出し母親を呼び出す。

「あ、もしもしユリ?友達くるから。…うん、頼むわ」

「オッケーだって!行こ、つぐみくん」

「えっ、あ、でも、やっぱり」

「つぐみ」

「、」

案外平気そう、なだけで、平気ではないんだろう。有に掴まれた手が、不安げに震えている。それをどうこうしたいわけじゃないし、するつもりもないけど、でもご飯を一緒に食べるくらいは出来る。それを面倒だとか思ってないんだから、そんな俺の意思を尊重しようと思ったのだ。

「おいで」

「……はい、じゃあ…あ、でも、これは買います。タクシー待たせてるので、お金も払ってきます」

「タクシー?つぐみくんお金持ち」

親と別々に帰る、に加えタクシーを待たせている、とは。確かにボンボンかもしれない。「にーちゃん、俺たちもレジ行こ」などと言う弟が生意気なのは今に始まったことではないのに、無性にその頭を叩きたくなって携帯の角を押し付けた。

そのまま三人でコンビニを出て高梨家へ向かった。有の人見知りのなさと、つぐみの人懐っこさが上手く繋がったのか、普通に仲良くなった二人を横目に俺は一人違うことを考えていた。
そういえばつぐみがうちくるの初めてだなとか、こんなに早く母親に会わせてしまうのかとか、そんなことを。

「ただいま!うひー、寒かった〜」

「おかえりー」

「あれ、から揚げもあるの?つぐみくん食べたがってたね!」

「なにそのビックリした顔。いつものことでしょ?」

「はあ?いっつもカレーだけじゃ─」

「有ちゃん、静かに。」

「あの、お邪魔します」

「あらあらいらっしゃい」

強引に口を塞がれた有を哀れみながらつぐみを通すと、ユリは気持ち悪いくらい愛想の良い声で「どうぞ、座って」と微笑んだ。

「失礼します」

「櫂が友達連れてくるって言うから、どんな不良か変態が来るのかと思ったけど…やだこんな可愛い子が来るってわかってたら、パスタとか作ったのに〜」

可愛い可愛いと、つぐみの、頭を撫でるユリの手は完全に油まみれだ。無言でその手を叩くと、つぐみに見えないところで思いきり睨まれた。俺の母親はこういう人だから、余計につぐみの母親に対して思ってしまうところがあるのかもしれない。

それから4人で意味がわからないくらいの大盛りカレーとからあげを平らげた。

つぐみが意外と大食いだということを知って、それでこの不健康な細さはなんだと不思議に思う頃には、つぐみは完全にうちに馴染んでいた。クッキーありがとう美味しかったと、何度も言う弟は、相当つぐみことを気に入っていたとも思う。

そんな、日曜日の夜のこと


「大層なものではないことを」





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