なにかを期待したわけでない。 とにかく好きが溢れて、涙が止まらなかった。そんな僕に、櫂先輩は大きなため息をついた。

ほしい言葉は


そんな微妙な空気を作った次の日。僕は寝込んでしまった。泣きすぎて頭が痛くなって、考えすぎて知恵熱でも出てしまったのだろう。それ以外風邪っぽい症状はなかったし、一日でそれも治まった。

それより堪えたのは、僕がアクションを起こさなければ、櫂先輩からの応答はないということ。現に、メールも電話も“櫂先輩”からの受信はない。

「糸井?まだ体調悪い?」

「あ、ううん、平気だよ」

休んだ分のノートを見せてくれた関谷くんは、ペタペタと僕のおでこを触っては「うーん」と首をかしげていて。それに、ああ、心配してくれてるんだなと、申し訳なさと嬉しさを感じた。

「ごめん、やっぱりちょっと、保健室いってくる」

「一緒に行こうか?」

「大丈夫」

「そうか、気を付けてな。先生には言っとく」

関谷くんにお礼を言ってから教室を出たものの、保健室に行く気分ではなかった。

とにかく頭の中は櫂先輩で一杯で。
考えれば考えるほど、なりなり会長にしても副会長にしても、僕は二人よりずっと櫂先輩について知らないことばかりだと気づく。僕より櫂先輩のことを知っているし、分かっている。それが悔しいと思うのに、じゃあどうしたらいいのか、それは分からない。

分からないんじゃない…だってなんだって方法はあるし、僕が僕のことを喋ってしまったように、櫂先輩だってつらつらと喋ってしまう時があるかもしれない。でも僕と櫂先輩が一緒にいる時間はあまりにも短くて。
本当はもっと一緒にいたいのに、と。もう、隠しようもない。

ぼんやりそんなことを考えながら廊下を進み、非常階段へ出るドアの前で足を止めた。嫌なことが甦る場所…そう思うのに、手はドアノブを握っていて。

「……」

12月の冷たい空気が一気に全身にまとわりつくのを感じた。考えてみれば、季節が変わっている。あの秋晴れの日から、ひとつ…

コンクリートの非常階段に、先客はいなかった。やっぱり寒いから、この時期には不向きのサボり場なんだろう。それでも僕の体はその死角へ誘われるように座り込んだ。しばらくそこで灰色のコンクリートを見上げていたら、聞き慣れた不機嫌そうな声が届いた。

「もしもし」

聞き間違えようもない、櫂先輩の声だ。
こっそり下を覗き見ると、やっぱりそこには櫂先輩がいて。

「なに。学校なんだけど」

携帯を耳に当てて、何やら電話している様子の櫂先輩は、僕の視線に気づくことなく中庭のベンチに腰をおろした。

「はあ?知らない。……は?今?だから俺─」

櫂先輩の乱暴な物言いに、けれどそれが先輩なりのコミュニケーションだということは、なりなり会長とのやり取りを見ていてなんとなく感じていた。同時に、まさにそれに近い喋り方をする姿に、焦りも感じていたのかもしれない。
僕は電話しながらまた腰をあげた櫂先輩に見えるよう、塀に手をかけた。

「櫂先輩」

「ああ、え?、つぐ」

あの時は無我夢中だったから、怖いとか思わなかった。高さはそんなにないけれど、着地の体勢がとれないまま落ちると言うのは、なかなかに怖い。見下ろしてみて初めて思ったそれに、身震いした。

「っ、おい!お前…」

「櫂先輩、あの、」

僕の声に気付いて立ち上がった櫂先輩は、怒ったような声を出した。

「危ないだろ、降りろ」

「き、いてほしいことが、あります」

「は?分かったから、ちょっとそこで待ってろ」

「だ、だめ!来ないでください」

「何言って…」

怖い。体より、心が傷つくのが。
副会長は分かってたんだ。僕のこの気持ちを。

「いいから、そのままで聞いてください」

「……」

僕が飛び降りると勘違いしていたのか、そんなつもりはないという態度に少しの安堵が見てとれた。それでもまだ困惑は拭えていないらしく、僕を見上げる目は鋭い。

「あの、この前は、ごめんなさい。…あんなに、泣いて」

あのあと泣き止むまで一緒にいてくれたことに対して嬉しかったと告げれば、「でもそのあとまた泣いただろ」と、核心をつかれて言葉に詰まった。どうしてバレたんだろう、というよりは当たり前の顔で泣いたんだろと気にしてくれたことに、嬉しさを覚えた。

「櫂先輩」

「ん?」

「……」

言え、言え、頭の中で命令しているのは自分なのに、それを必死に伝えようとするのも塞き止めようとするのも自分。また、泣いてしまいそうだと思った瞬間、男なら泣くより先に言わなきゃだめだろと、ふっと思った。

「すき、です」

「、は」

意外なことに、“好き”と言ってしまえば驚くほど胸が軽くなって、ああ、好きだ、と素直に心が受け入れてくれた気がした。櫂先輩が困ることはわかっていて、それでも言葉にした瞬間それ以上に好きだと思ってしまったのだ。

「好きなんです。櫂先輩のことが」

「……」

「好き」

「そこ、動くなよ」

「っ待って、待ってまだ」

「いいから、」

「櫂先ぱ─」

塀に片足をかけて乗り出していた体が、ぐらりと揺れた。ヤバイと思ってすぐ、手のひらにあったコンクリートの手応えがなくなった。

「う、わあ」

「馬鹿!」

「──、っ」

「って、」

どさりと鈍い音が響くのと、櫂先輩の腕に捕まるのはほとんど同時だった。焦ったように見開かれた目も、反射的に僕に手を伸ばした手も、スローモーションで、ゆっくり流れた。けれど触れた瞬間、今度は一気に現実に引き戻されたように一瞬で地面に倒れ込んだ。

「っ、わ、ごめんなさ…」

「…馬鹿、怪我は」

「僕は平気です…けど、櫂先輩…」

「だから動くなって言っただろ」

この胸の感触と、匂いと、温度。
櫂先輩と出会ったときみたいだ。初めて触れた櫂先輩は、今と同じ、驚きと困惑を滲ませて、それでも僕に優しく触れ返してくれた。

「だって、まだ話が」

「なに?ちゃんと聞いてるだろ」

「……」

「つぐみ」

「…好きだから、キスしたいし、触りたいんです。そういう好きだって、ちゃんと、分かってます。そういう好きを隠してキスするのは普通じゃないから、だから、」

体を起こすのさえ億劫だったのか、僕が馬乗りになっても気にすることなく地面に背中を預けていた櫂先輩が、突然むくりと起き上がった。

「わ、え…」

そのまま有無を言わさず肩に担がれて、運ばれたのは今まさに僕が落ちた非常階段。唯一の死角で、唯一のサボり場所。そこへ下ろされ、冷たいコンクリートのヒヤリとした感覚がおしりに伝わった。

「…櫂先輩?」

「つぐみ、」

「っ、へあ…」

キスされる、そう思って目を伏せたのに…唇はなかなか重ならず、少し唇を尖らせてみたけれどやっぱり重ならなくて。

「櫂先輩…?」

顎を掴まれているからこれ以上自分から近づくことはできない。息は当たるのに、触れられないなんてと、もどかしさに唇が震えた。

「ん、あ…なん、で……かい先輩…」

情けない声を出す僕に、それでも櫂先輩はキスをしてくれない。もしかしてそれが答えなんじゃないかと、過った考えに体が冷えるのを感じた。

「それで?」

「……え」

「好きだから、何」

「なに、って…」

「つぐみ」

「っ、」

どうしたら良いのか、何て言ったら良いのか、分からなくて震えの止まらない唇を噛んだ。でもすぐに、それを咎めるように先輩の指が僕の唇を撫でた。

「好き、だから…」

好きだから、好きだから、頭の中で何度も繰り返しそう呟いて、それでもうまく言葉には出来なくて。なんとか絞り出した声は、もう泣き声みたいだった。

「こ、い…人に…なり、たい…」

“付き合ってるんでしょ”副会長のその一言が現実離れした勘違いでも、僕はそれが見えないふりをしていただけで。

「恋人に、なりたいです」

好きだと伝えるより、ずっとずっと勇気が必要だった。そんな僕を嘲笑うみたいに「いいよ」とあっさり答えをくれた櫂先輩は、僕の前髪を後ろに押さえつけておでこにキスをした。

「……ふぇっ、え、な、は?」

「だから、つぐみがその意味を分かってるなら、いいって」

「……付き合う、ってこと…?」

「違うのか」

「ちっ、違わない!付き合いたい、です」

僕の一世一代の告白は、驚くほどすんなり幕を閉じた。そしてめでたく“お付き合い”をすることになったわけなんだけど、嬉しくて抱きついたら何故か押し返された。おでこにはしてくれたキスも、口にはしてくれなかった。

どうしてと聞いても櫂先輩は答えてくれなくて、「放課後、校門で待ってて」と言い残して去っていってしまった。なんだそれ、もっと甘々いちゃいちゃするのが恋人じゃないのかとふて腐れ気味に思う頃には、落ち込んでいた気分はすっかり晴れていた。


「返事より、肯定なのだけど」




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