昔から、何かに執着したことがなかった。というのも、一度だけとても大切なものができて、それを失ったから。その瞬間から、“特別”というのが怖くなり、必死になることも諦めてしまった。
視線の先は
しなやかな動きで放たれた矢は、勢い良く的の真ん中を射た。まるで体力を使っていないように見せかけて、けれどその腕にはかなりの力が入っているのを知ったのは、まだ最近のこと。
「で、どうしたわけ、櫂が来るなんて珍しい」
「別に。通りかかったら慧悟が見えた」
「なんだそれ」
「まだ弓道やってたんかって」
「ああ、そういう。他にやることないしな」
慧悟は一年の時同じクラスで、出席番号が前後だった。普通に仲良くやっていたように思うのだけれど、今年はクラスが替わり言葉を交わすことも減っていた。
「櫂もひく?」
「やらない」
弓道部といっても、この学校の機能していない部活動に倣い、名ばかりのものだ。現に、この西門慧悟も、たった一人、気まぐれにこの道場にやってくるだけ。道場と呼べるほど大層でもないのだが。
「あ、そういえば、お前でくの坊辞めたらしいな」
慧悟はゆっくりと矢を掴むと、またしなやかな動きで弓をひいた。俺に負けず劣らずな悪い目付きをして、真剣に的を見つめる様は、最早殺人でもしそうなほど凶悪だ。
「んー」
ひゅん、と迷いなく放たれた矢は先ほど射られた矢の少し上に刺さった。
「成川が文句言ってたぞ。仕事が増えたって」
「は?なんだそれ。てか、なりと仲良かったっけ」
ちょっと聞いてないよ、それ。
なんて、そんな聞き方に俺も普通に男子高生だなと実感した。
「あー、生徒会室でよく会うってか」
「へえ」
生徒会室、ね。
何の用があってあんなとこ行くのかとか、俺はなりの口から慧悟の名前聞いたことないとか、言いたいことはあったと思うんだけど。慧悟が何でもないように続けた言葉に、それも何処かへすっ飛んでしまった。
「南條」
「……は?」
「だから、南條に用があってよく行ってるだけだけど」
慧悟と…副会長?
どこにも接点がなさそうで、けれどそういえば今二人は今同じクラスだったかもしれないなと気付く。でもそれなら別に、わざわざ生徒会室など行く必要がない気がしないでもない。
「南條って…いや、ああ、そう」
南條か、南條ね…俺の中では完全に淫乱ビッチのレッテルを貼ってしまっているあの南條と、慧悟、か。
「いいよ。櫂が今思ったこと、たぶん間違ってないから」
「ふーん」
なんだかそれ以上追求する気は起きず、俺は道場のひやりとした床に背中を預けた。このくそ寒い中よく裸足でやってるなと、茶化しをいれてやろうと思ったのに、それも出来なくなるとは。
「えらく可愛がってる後輩がいるって、聞いたけど」
「それもなり?」
「他に誰が居んの。まあ、成川は心配してる風だったけど…いや、どうなんだろ。楽しんでんのかな」
生徒会室で、副会長と二人、そんな話をしているとはちょっと想像ができない。それでも慧悟が聞いたと言うのだからしているのだろう。いや、なりが一方的にべらべら喋ってるのを、南條が聞き流しているのかも。そこにたまたま慧悟がいて、彼は見た目にそぐわず律儀な性格をしているからあの馬鹿なりの話を聞いてやったとか…たぶん、それだ。
「珍しいな、櫂が面倒見てやるとか」
「別に、そういうつもりじゃない」
「でも結果そうなってんだろ。まあ俺は相手も知らないし、聞いたのは後輩のこと可愛がってるってその一言だけど」
まあ、可愛いのは事実だし、好かれているのも悪い気がしなくて何かと面倒をみているのもまた事実なわけで。特に否定する節はなく、慧悟がまた矢を握るのを見つめながら「面倒くせえよ」と、溢した。
「そう思ってるようには見えねえよ」
「…俺も、最近あんまりそう思ってなかったかも」
「やけに素直だな」
でも、相変わらず考えるのはだるい。悶々と考えてるより、つぐみのパンツのことでも思い出してる方がよっぽど楽だ。
仰向けに寝転んだまま目を閉じると、またとん、と的に矢が刺さる音が響いた。
「おい、寝るなよ」
放課後の、この寒い中、今日は雨だったから電車できて、帰りも電車と決め込んだ。なのに、そういう日に限って帰りのショートが長引いて、一本見送るはめになる。といっても30分ほどだが、それでも時間をもて余して絡まれたりしたらたまったもんじゃない。
だから今日は慧悟が一人で部活しててよかったなと、現金なことを思った。
「寝れそう」
「ほんと何時でも何処でも寝れるよな」
そのあと、慧悟が何かを話しかけてくることはなく、こういうところがたぶん、合っているんだなと改めて感じた。認めないでいたことを、あっさりと認めてしまうくらいには。
「…櫂先輩?」
うとうとと、考えていた俺の思考を遮ったのはまさにさきほど話題になった張本人だった。
「……」
道場の開け放たれたドアから下半身を投げ出していた俺に気づいたらしいその声は、やっぱりつぐみのものだった。入り口のところに腰掛けそのまま寝転べば、確かに死体みたいに足だけが飛び出してしまうなと、その時やっと気づいた。
「お昼寝ですか」
とん、とまた慧悟が弓をひいた。
俺が目を開くと、ちょうどその音につぐみが視線を向けたところだった。
すでにやんだ雨に、つぐみの手にあった傘は持て余されている。
「あ」
「……おお、」
のそりと起き上がると、慧悟が切れ長の目を少しだけ見開いていた。
「副会長の…あ、こんにちは」
「こんにちは」
なんだそれ。知り合いか、と思った裏で確かに生徒会室に頻繁に行くのなら、見かけたことくらいはあってもおかしくないなと気づく。でも同時に、だったら俺が可愛がっているのがまさにこの男だと、チクるだろうにとも、思う。
「また会うとはね」
「お、お昼休みは、すみませんでした」
「平気」
「櫂先輩のお友だちだったんですね」
「うん、まあ」
「じゃあ、副会長さんも?」
「さあ、それは本人に聞いてみれば」
ここで南條の名前が出てくるのか。一体どういう繋がりがあるというのか。
そんな疑問を俺が口にするより先にちょこんと俺の横に腰をおろしたつぐみ。そのまま鞄を開けて中をごそごそと漁った。まあなんというか、マイペースだよなとその姿を見つめていると、不意に視線が俺に向けられた。
「あげます」
「……のど飴?」
「なんだか声、掠れるから」
「……」
いやそんなに言葉は交わしていないけれど。素直に手を出すと、レモン味ののど飴が三つも落ちてきた。俺が食べるのを期待するような目で見つめるつぐみに負けて、ひとつ黄色の塊を口に放り込んだ。
「…へえ、この子が」
「慧悟」
「はは、ごめんって」
慧悟を振り返ると相変わらずの目付きで眺められた。袴のよく似合うその佇まいが、今は少し憎たらしい。
「それより、俺そろそろ片付けるんだけど」
「……」
「帰んないの?」
「今日自転車ないから電車待ってんだけど」
「じゃあ駅で喋ってれば」
「……」
ほらほらと背中を軽く蹴られ、それは面倒だから嫌だと残して腰をあげた。
「歩いて帰るわ」
それが一番だるいだろ、と思いながらもまあそこまで遠いわでもないし。つぐみを時間潰しにして電車を待っても、一人駅に残していくのはちょっとどうかと思う。
「つぐみ?帰らないのか」
「えっ!あ、帰ります!」
本当に、どうしたものか。
面倒くさがりが何をしているんだか。
それを言い訳にしている俺はきっと、つぐみよりずっとずるい。でも俺がずるいのは、もうずっと前からだ。
諦めを知ってしまった、その瞬間からだろう。
「いつも自分の安泰」
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