変化の始まりは、ある日突然だった。
「りんちゃん指輪変わった」
「えっ?あ、うん、よく分かったね」
「それくらい分かるよ」
右手の薬指に指輪をしていたことはもちろん知っていて。それは仕事のときはしていかないものの、家に居るときや休日は我が物顔でりんちゃんの指にあった。それが、左手に移動したことにまず気づき、よく見たら指輪のデザインそのものが違っていてそれはまさに「結婚指輪」を意味しているのだと、すぐに分かった。
「はるちゃんと、その…」
「まだ、考えてる」
「考えてるって」
まおが高校に入ってすぐの事だった。ゴールデンウィークを来週に控えた四月の後半。りんちゃんははにかんで、「いろいろ」と答えた。
「でも、指輪してる。左手に」
「そうだね、答えは出てるけど、何て言うのかな…」
「まおのこと?」
「え?」
「まおが、悩ませてる?」
「あはは、違うよ。僕が、もう少しまおや母さんと一緒に居たいなって思ってるだけ」
りんちゃんは高校を出たあと短大に通い、今は栄養士として働いている。りんちゃんが働き出してからは、自分の事も家の事もまおがするんだと決めてご飯も洗濯も掃除もするようになった。りんちゃんはそれを褒めてくれたし、でも自分がなにもしないのは落ちつかないから分担にしようと言ってくれたり、家にも多すぎる額のお金を入れている。ままはその一部をこっそりりんちゃん名義の通帳に貯めているけれど…とにかく、りんちゃんはいつまで経っても“お兄ちゃん”をやめなくて。
「じゃあ、まおがもう出ていけば良いのにって言えば良い?」
「やめて、泣きそう」
りんちゃんは困ったように笑い、「遥に一緒に住もうって言われたんだ」と嬉しそうに呟いた。それはつまり、答えは出ていると言ったりんちゃんにとってこの家を出ていけない理由があるのだ、だからまだ考え中だなんて言うのだ。
「まお?」
「……」
「何、どうしたの」
分かっていたことなのに、りんちゃんの口からこの家を出ていく事を匂わせる言葉を聞いた途端、泣きたくなった。いつかは出ていく、いつかははるちゃんと一緒になる。それがリアルになって、まおはどうしようもなく寂しくて、たぶんそれが、りんちゃんを悩ませているのだと、自分で悟った。
りんちゃんはその日から、まおにたくさんの事を教えてくれた。もうまおは一人でも生活できるくらい一通りの家事は出来たけれど、細かい溝を丁寧に、りんちゃんは埋めていくみたいに。
まおは何度も「早くはるちゃんのところ行きなよ」と声に出した。それは本心で、もう十年も付き合っていて、音羽家はみんな認めているのに。りんちゃんはなかなか最後の一言をままの前では言わなかった。
結局、指輪が左手に移動してから三ヶ月かかった。
「僕、この家を出ます。遥と、一緒に暮らすことにした」
りんちゃんがその言葉を口にするまで。
それがとても自然で、けれど二人にとってはそこがとても大きな一歩で、まおも嬉しいはずなのに、テーブルに並んだ自分の好きなものの味が分からなくなるくらいにはショックだった。
矛盾していた。そうなることを心から望んでいたし、お祝いしたいし、思いきり二人の事を抱き締めて「幸せになってね」と言いたい。その反面で何だかんだりんちゃんはまだ家に居てくれると甘えていた。
はるちゃんが「凛太郎と、家族になりたいです、いつか。その為に、一緒に暮らしたいと思ってます」と、真面目な顔で緊張した声で言い終わるのと同時にまおは「りんちゃんをお願いします」と呟いた。
ままは少し驚いた顔をしてから口元を緩めた。
「思ってたより、遅かったな〜」
「まおもそう思う」
「ええっ」
「はるちゃんヘタレかもって思った」
「ええっそうかな?ごめんね、今も緊張しすぎて心臓飛び出そうだよ」
全員が笑っていた。
はるちゃんがうちでご飯を食べるのは月に一度くらいだったけれど、その日は来たときから様子が変だった。なんだろう、と構えていたはずなのに、まおは笑いながら、けれど今にも涙がこぼれそうだった。
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