「そう…あ、再試、頑張ったね」

「うん、本当にありがとうね」

「志乃が頑張ったからだよ」

「ううん、りんがいなきゃ頑張れなかった」

ふっと振り返った志乃はもういつも通りのへらりとした笑いを浮かべていて、また「ありがとう」と言った。

「…どういたしまして」

ああ、ダメだ。僕はやっぱりこの顔に弱いらしい。
直視し続けるのが耐えられずそっと視線を外すと中庭が視界に入った。

「……あれ」

ベンチ…旧校舎へと続く通路の脇にあったはずのベンチがない。需要の少ない場所ではあるけれど、あって困るものでもない。つい先日、樹くんと腰かけた覚えがある僕としては、そこにベンチがないのはなんとなく不思議だった。

「どうしたの」

「あ、ううん。あそこのベンチ、なくなったんだなあって」

「ベンチ……そ、だね」

「?」

「……」

それがなくなった理由と、志乃の一瞬の動揺。
でも意味はわからなくて、それを理解できたのは翌日になってからだった。あのベンチで話して以来顔を見なかった樹くんと、廊下で遭遇したのがきっかけだった。

「おー音羽ー」

「樹くん。なんだか久しぶりだね 」

「昼休み会わないもんな〜」

「あ、そっか」

「生徒会様の手伝いと、志乃の赤点解消お疲れ」

「僕はなにも…それに赤点解消は志乃が頑張った結果だよ」

終業式が執り行われる体育館へ向かう同級生の背中を見送りながら、少しだけ久しぶりの赤い髪を見上げた。志乃が「トイレ行くから待っててね」なんて言うからその前で待っていた僕を見つけてわざわざ立ち止まってくれたのだ。そんな僕らのツーショット、というのが珍しいのか、遠巻きで不審な目を向ける人が何人かいた。

「あーあ、音羽って普通に良い奴だよな」

「?」

「そこも無自覚なわけ…」

「樹」

「うわ、最悪」

にゅ、っと突然後ろへ引かれ、後退ってぶつかったのは志乃の胸だった。そのまま志乃の腕に拘束され、樹くんは心底嫌そうな顔で志乃を見た。

「何してんの」

「何も。挨拶しただけだろ」

「……」

「そんな目で見んな。疑うな。あんな忠告されて、誰がお前に喧嘩売るかよ」

「あの、何の話…」

窮屈で思うように志乃の顔を見上げられなかったけれど、なんとか隙間をつくってその顔を見上げると、樹くんの呆れた声が「コイツ、俺が音羽に手ぇ出したって勘違いして、中庭のベンチぶっ壊したんだぞ。まー俺じゃなくものに当たったことは成長だよなー」と続けた。

「え、」

「樹!」

昨日不思議に思ったあれ… そうか、自分が壊したものだから志乃は気まずそうにしたのか。動揺するのも当然かと…思っただけで済むはずもなく。

「あれは樹が悪い。だってりんに…」

「だからしてねえって言ってるだろ」

「でもあれは」

「だったら音羽に直接聞いてみろ。なあ、音羽」

「う、え?」

「俺お前にキ─」

「りんに変なこと聞かないでよ!」

「じゃーどうやって誤解とくんだよ」

むーっと、口を尖らせる志乃と、呆れの限界に達したらしい樹くんのにらめっこ。それは完全に二人の世界で、そろそろ終業式が始まるから体育館へ向かわなきゃいけない、なんて考えているのは恐らく僕だけだろう。

「……」

「ほら、ないだろ。本当のことなんだから聞いたって平気だ馬鹿。音羽、お前俺とあのベンチで話したときのこと覚えてるか」

「あ、うん、覚えてるけど…」

「そのとき、俺お前にキスなんてしたか?」

「キ、ス…?誰が、誰に?」

「俺が音羽に」

樹くんが僕に、ちゅー?

「さあ、してないけど」

全く身に覚えのない質問だった。
どうしてそんなことを問われたのかさえわからない僕は、首をかしげるしかなかった。ただ、“手ぇ出したって勘違いして”というのが、樹くんが僕に暴力を振るった、的なことではないということだけは理解できた。


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