「雨、だ…」

傘。
志乃、持ってなかったはず。今から追いかければ、そんなに濡れないで帰れるだろか…そうだ、せめて少しでも濡れないように、と静かにまおの頭をソファーにおいて、慌てて傘を持って家を出た。だけど、出たところで僕は志乃の家を知らないから、道もわからない。
前は連絡先を知らなくてはっとした。今はそれ以上に大きく動揺していた。こんなにも長く、しかも志乃は僕のことを何でも知りたがって、そして覚えてくれるのに…僕は知ろうともしないで、知らないことばかりのまま…

「……」

とりあえず、いつも志乃が歩いていく方向へ行こう。傘をさして、予備の傘を持って、サンダルをつっかけて走った。
小雨の雨は、けれど確実に雨脚は速くなっていて。早く追い付かないと、志乃がびしょ濡れになってしまう。長い直線を走り、突き当たりで立ち止まると、左の方向に大きな背中が見えて。雨に打たれているというのにその背中は、焦ることもなく優雅に歩いている。まさにそれは、たった今別れたばかりの志乃のもので。
僕は慌てて「志乃」と呼んだけれどその背中が立ち止まることはなく。雨の音にかき消されてしまったのだろう…もう一度、今度はもう少し大きな声で呼ぼう。

「、し……」

呼ぼうとして、不意に志乃が立ち止まった。その真ん前、高級そうな車が止まったのだ。「え?」と、声が漏れていたかもしれない。ただ、それどころじゃない…
もしかしてやばい場面を見てしまったんだろうかと不安になりながらも視線は離せなかった。

「……、って…い………」

当たり前だけど何も聞こえない。たまに志乃が怒ったように車の後部座席に怒鳴っているのが聞こえてくるくらい。それも、言葉は聞き取れない。しばらくその光景を見つめていたら、後部座席のドアが開き志乃と話していたであろう人が現れた。スーツ姿のその人は志乃の胸ぐらを掴むと、躊躇いもなく平手打ちをかました。
「あっ」と思わず漏れてしまった声も、雨の音に拐われて消えてしまった見てはいけないシーンだったかもしれない…驚いた僕の足は動かず、そこに立ち止まったまま。そうこうするうちにスーツの人は車に乗り込み、車ごと消えた。雨の降る中じっと佇む志乃の名前を呼べたのは、随分経ってからだった。

「……し…はる、か」

「……っ!」

「か、傘…」

「り、ん。なんで…」

もう、びしょ濡れじゃないか。
それでも僕は彼に駆け寄り、自分のさす傘の中に入れた。濡れたはちみつ色の髪がぺたりと顔に張り付いていて、顎から水が滴っていて、まさに“水も滴るいい男”状態の志乃。

「ごめん、遅かったよね…」

「……」

僕を見下ろす志乃の目は、なんの感情も宿していない。濡れているのか、涙を流しているのか、それもわからない。ただ泣きそうだ、ということはわかる。

「とりあえず、こ─」

「見た?」

「……へ」

「さっきの…」

「……」

「ごめん、何でもない」

ふっ、と伏せられた睫毛に、胸がざわついた。子供みたいな志乃、色気垂れ流しの志乃、大人な志乃、優しい志乃、いろんな志乃を見たけれど、そのたびに驚いたけれど…今の志乃は、また知らない顔をしている。

「志乃」

「傘、ありがとう。借りるね」

目も見ないで、志乃は僕の手にあった予備の傘を握った。僕が手を離せば、そのままいってしまうんだろう…そう思ったら、自然と手に力が入っていて。どうしても、今の志乃を一人にはさせたくないと感じたから。


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