「え、ちょ…志乃?どこいくの。5限体育だよ、もう着替えないと」
ぐいぐい引っ張る志乃は、「いいの」とだけ言って、それからはだんまりで廊下を進んだ。気付けば、旧校舎に入っていて、そういえば前に一度樹くんから逃げて来たなあと思い出した。そのまま入った部屋もそのときと同じ“生徒会室”で。
「……志乃、前も思ったんだけど、その鍵どうしたの」
「これ?落ちてた」
「え?」
どうやらそれは、サボるためにこっちの棟へ来たときこのドアの前で偶然拾ったものらしく。不自然な話だけど、事実それは志乃が所持している。
「あ、そう…」
「はい、入って」
だから、体育に遅れるよ、そう思いながらも体は志乃に引っ張られていて言うことを聞かない。もう完全に遅刻だなんて時計を見上げたら、ガチャンと施錠される音が響いく。
「誰か来たらやだから」
「来ないよ。樹くんも、さすがにここまでは」
「りん、」
「、ん?」
前座ったソファーへ腰を下ろすと、志乃もすぐ隣に沈んできた。だから、向かいにもあるんだから、そっちに座りなよと言う間もなく顔を覗き込まれ。
「ご褒美、もう一個ちょうだい」
「え?」
「お願い」
「え、っと…」
近づいてきた顔に、まさか“キス”だろうかと身構えてしまった。でも志乃は鼻と鼻が触れたところで止まり、悲しげに眉を下げた。
「志乃?」
「……名前」
名前?
「なんで、樹は下の名前で呼ぶのに、俺は“志乃”なの?」
「は…?あ、ああ、だって樹くんの名字、知らないから…」
「大橋だよ。大橋樹」
今さら教えられても…それに、今さら“大橋”なんて呼ぶのも躊躇われる。
「し─」
「はるか。俺のことも、遥って呼んで」
お願い、なんて…ダメだ、可愛く見えて仕方がない。でも、それより僕はドキドキしていて、少しでも動いたらキスしてしまうんじゃないかって程近くにある顔から目が離せなかった。
「…でも、」
「二人きりの時だけでもいいから」
そりゃあ学校でいきなり、“遥”なんて呼んだらみんな騒然とするに違いない。そこのところ分かって言っているのか、ただその方が特別感があると思って言っているのか分からないけれど。
「りん、呼んで」
どうしよう、掌に汗かいてきた。
「は、」
鼻息だって荒い。
顔が熱くて、頭もくらくらする。
「はる…」
「ん」
「…はる、か……?」
「りんっ」
震えてしまった声。けれど安心したように目を細めた志乃は、いつもみたいにぎゅーっと思いきり抱き付いてきた。
「ん、嬉しい」
“はるか”
男にしては可愛らしい名前で、綺麗で、優しい響きだ。はじめて声にしたその名前は、やっぱり自分の口には馴染まなくて。なにも考えずに出てくるのは“志乃”の方。息苦しくて思わず漏れた声も、それを呼んでいて。
「くる、し…」
「っ、うわ、ごめん、…りん!?」
最近志乃の力が半端じゃない気がする。でもそれとは関係なく、天気の所為か頭痛が復活している。慌てて僕を引き剥がした志乃の顔が一瞬見えて、そのままぐらりと視界は揺れた。揺れて、ふっと暗くなってしまった。
「りん!!」
志乃の大きな手が頬に触れたのは分かったけれど、そのまま意識も手放してしまった。まだ志乃に、“テストお疲れ様。よく頑張ったね”って、褒めてあげられてないのに…意識を手放す一歩手前でそう思い出していた。
「凜太郎っ…」
─ to be continue ..
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