どうしよう、そう悩むのも変か…そうだ、別に悩むことはない。挨拶みたいなものなら…僕は意を決して志乃の肩に手を置き、綺麗な顔のその頬へ唇を寄せた。

「っ…」

初めて唇で触れた志乃の頬。
音もなくすぐに離れて、「これでいい?」と問えば「もう一回」なんて甘えた声で返されてしまった。仕方なくもう一度頬にキスをすると「こっちも」と言いながら一度目を開けると、とんとん、と自分の唇を指差し、再び目を伏せた。

「こっち、って…」

唇に唇を重ねろと言うのか。それはダメだ、そういうことに疎い僕にだって、それくらいわかる。わかるから、前思わず止めてしまったわけだし。そんな葛藤をしている僕に痺れを切らしたのか、志乃の手が僕の頬を捕らえた。
捕らえられて、僕はそのまま押し倒されてしまった。

「し、」

「約束した」

「や、でも…まだ、結果分からないのに」

「お願い、り─」

『ガチャガチャッ』

もう唇が触れてしまう、熱い息が交わっている、志乃の胸を押しきれなくて目を閉じたのと同時に、豪快に玄関が開く音が響いた。

『バタンッ』

「っ!」

「りんちゃーん?帰ってるー?お友だち来てるのー?」

バタバタと足音を立てながらリビングに入ってきたその人。僕は慌ててソファーから飛び降り、その反動でずれた眼鏡をかけ直した。家計簿をつけるためにかけていたそれは予備のもので、けれどその人は気にした様子もなく僕と志乃を見て満面の笑みを浮かべて。

「お、かえり。母さん」

「ただいま〜!でもね、すぐ行かなきゃいけないの」

「お母、さん?」

白いブラウスに、柔らかそうなスカート。自分で言うのもなんだけど、母さんは若くてかわいらしい。苦労していたって、そんなことは微塵も感じさせない。ただ、忙しすぎてほとんど顔をあわせることはなくて。その母さんが今、こんな時間に家に居るのはものすごく希なことだ。

「あ、志乃初めて─」

「あらやだ、あなたがはるちゃん?志乃遥くんでしょう?いつもうちのりんちゃんがお世話になってます。母の千春です」

「初めまして、志乃遥です。俺の方こそ、いつも凜太郎くんにお世話になってます。今日も、お邪魔してしまって」

「いいのよ、好きなだけ居てね。それにしてもしっかりしてるのね。これからもうちの子をよろしくね。もっとゆっくりお話したいけど、またこれから仕事に戻らなきゃいけないの」

「すいません、お忙しいのに…」

「また今度ゆっくりお話ししましょうね」

なんだ、まるで別人じゃないか。僕に見せる子供みたいな顔とも、不良の顔とも違う、“大人”の顔。そんな顔ができるなら、普段からそうしていたらいいのに。そう思わずにいられないくらい、普段とは違う表情の志乃。



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