そのあと志乃をしっかりソファーにおさめてやり、毛布をかけ直して家を出た。いつもと同じくらいの時間に保育園へ迎えに行けて良かった、そう思った僕の前にまおが駆け寄ってくるのにいつもより時間はかからなかった。何事かと思えば、目を輝かせて「ただいまりんちゃん!はるちゃんは?」なんて問うものだから呆れてしまった。
かわいい妹をとられた気分で面白くない、そんな感覚だ。

「家で待ってるよ」

鞄を持っていないことに疑問を持たれなくて良かったと思いながら家路についた。まおはいつも通り一日の話をしてくれたけど、やっぱり明らかなテンションの違いが見える。そりゃあずっと待ってたし、嬉しいんだろうな。

「音羽ちゃん」

なんて、そんな和やかな考えもその声が聞こえた途端に、消え失せた。
足を止めたのはまおが先で、キョロキョロと辺りを見回してから僕を見上げた。ん?なんて首をかしげる姿は悶えるかわいさだけど、それどころじゃない。僕は意を決して振り向き、想像した通りの声の主に先日のことが甦った。

「久しぶり、音羽ちゃん」

長い前髪をセンターで分け、三白眼をちらつかせるその人は。

「アマ、さん?」

「あはは、良く覚えてたね、俺の名前」

でもその“アマ”さんは、今の志乃の数倍傷だらけだった。顔も体も。松葉杖をついているけれど、それより車イスの方がいいんじゃないかと心配してしまうほどに。

「あの、大丈夫ですか?その怪我…」

「あー…肋と指の骨やられて、足も捻挫。殺されるかと思ったよ」

「……」

「安心してよ。ここまでやられてたら音羽ちゃんに手出せないし、何よりまた君に何かしたら、今度こそ本気で殺される気がするからね」

ああ、赤髪くんの言葉が、いますごくリアルになった。

「ただやっぱり、ここまで強い志乃が君みたいな人間のために、俺らの世界からいなくなるのは納得いかないんだよね。ま、俺も殺されたくはないから君を餌にするのはやめておくけど」

「…あの、志乃は…そもそもどうして」

「不良なの?ってか」

そう、どうして。
確かに強いとか怖いとか、それはわかったとしても。志乃は喧嘩も痛いのも嫌いなのに。最初から強かった訳じゃないだろうに、どうてこうなるまで…ふと過ったその考えは、アマさんの口角をあげさせた。

「なにも知らないんだ、音羽ちゃん」

「……」

「知ったらどうなるかな。あいつの過去とか、生い立ちとか…はは、志乃のこと軽蔑するかな、するだろうな。でもさ、それは俺の口からは言えないよ。志乃に直接聞いたら?教えてもらえなくて、またいつか俺と偶然会うことがあったら、そのときは教えてあげてもいいけど」

「自分で聞くよ」

「あ、そう。じゃあ俺行くね。偶然見かけただけだし、こんなとこ志乃に見られたら怖いし、退散するよ。あ、でもこれ、返しとくね」

最後に渡されたのは、僕の眼鏡だった。あの日無くしたもの。ヒビ、入ってるけど…

この人は、僕の知らない志乃を知ってるんだ。赤髪くんも。
僕はなにも知らないくせに近くにいて…それは、女の子が嫉妬しているのと同じようなものなのかもしれない。羨望の眼差しを向ける人の横に居るのが、僕みたいな人間じゃ面白くないんだ。

「りんちゃんお友達ー?」

向けられた彼の背中は、痛みに耐えていると露にしたまま遠ざかっていった。

「……友達、かな」

「はるちゃんと同じくらい?」

「はは、そんなことないよ」

「はるちゃん一番?」

「いち、ばん…」

一番の友達、という表現は違う気がした。
でもそれを素直に返事にすることもできないで、僕はしっかりまおの手を握り直して歩き出した。家はもうすぐそこで、きっと志乃も待ってる。アマさんに遭遇したことは、黙っておこう。やましいからではなく、アマさんに志乃の怒りの矛先が向くのはなんだか嫌だなって思ったから。

「帰ろう、まお」

家に帰れば、志乃はその音に反応してむくりと起き上がった。まおはきゃっきゃと喜び、志乃にベッタリでぬいぐるみのしーちゃんを紹介していた。ほほえましい光景だけれど、僕はアマさんの言葉が頭から離れなくて。志乃はあの微笑みの下に、何を隠しているんだろうかと。どんな顔を隠しているんだろうかと。漠然と考えていた。

─ to be continue ..



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