「…ど?音羽ちゃん」
「……」
「これが本当の“志乃遥”。誰より強くて、狂ってる。そして無慈悲」
「アマ」
「ああ、良くできました、志乃ちゃん」
「りんから、離れろ」
「うん、ここは俺が何とかするからさあ、連れて帰ってくれていいよ」
倒れたまま動かない人、血の水溜まり、へこんだパイプに転がるバット。しんと静まり返るそこで、僕に歩み寄ってきた志乃の靴音が妙に響いていた。
「りん……」
「ほら、早く行きなよ。これからのこと考え直してくれれば、もう音羽ちゃんには手ぇ出さないし」
差しのべられた手は血で真っ赤に染まっていて、それを握るのを躊躇った。その瞬間を見逃さなかったのか、志乃は手を引っ込めて、眉を下げた。“アマ”の言っていたことは、こういうことなんだろうか。こんな志乃を知った僕は、志乃を怖いと思って関わりたくなくなるとか。もうこんな目に遭いたくないから、近づかないでと言うとか、そういうことなんだろうか。
志乃も、そう思ってしまっただろうか。思わせてしまっただろうか…
「行こう」
「あ……うん、でも」
「行きなよ、音羽ちゃん」
分からなかった。
今志乃は明らかな後悔の色を顔に浮かべている。僕の為、なんてことはないと思うのに…でも、志乃は僕を見ようとしないで「こっち」と、出口へと誘導した。
外に出てみれば、そこは駅のある大通りから一本裏に入った道で。僕らが居たのは今は廃墟と化した、お店のような建物だったのだと知る。こういうのものを俗に言う溜まり場、というものか。
なんて、そんな呑気な考えも、すぐに消されてしまう。
「りん、ごめん…」
「や、僕は大丈夫だけど…僕より志乃の方が─」
「ううん、俺なんか全然平気だから…りん、ごめ…」
「志乃?どっか痛い?救急車呼ぶ?」
泣きそうな顔に、震える声。
立ち止まってしまった彼につられて、僕も足を止めた。
「志乃─」
「ごめん、俺の所為で…ほっぺ、腫れちゃってる…痛かったよね、ごめん…」
そう言いながら、志乃は僕の頬に手を伸ばして、けれどそれは僕に触れることのないままだらりと落ちてしまった。きっと、僕がさっきその手をとることを躊躇ったから…ダメだ、と自制心が働いたのかもしれない。
「あ、ううん…すぐに引くと思うから大丈夫だよ。とりあえずさ、まお預けてるから、迎えに行って、もう帰ろう。手当てしないと、バイ菌入るかもしれないし」
そうだ、まおをひろみ先生のところへ置いてきたのだ、時間がわからないけれど待たせてしまったのは間違いないだろう。慌ててポケットから携帯を引っ張り出せば、知らない番号からの着信が一件。もっとも、電話帳に登録されているのなんて、ほんの数人なのだけれど。
「ほら、行こう志乃」
「……りん、俺…」
「ん、?」
「後から行くから、先行ってて」
「え、でも」
「お願い、こんな姿、まおちゃんに見せたくないし…」
彼の言葉にああ、と妙に納得してしまって、志乃の腕を掴もうとした自分の手を止める。
「そ、っか…」
そんなにも眉を垂らして、今にも涙をこぼしそうな目をして、唇を噛んで、志乃はいったい何を考えているんだろうか。せっかく綺麗な顔なのに、たくさん傷をつくって、浮かべられたその歪んだ表情も…
そうだ、何よりおかしいのは僕が拉致されたことで。アマと言う人の言い分もわからないでもないが、志乃があそこまでキレる程の事だったんだろうか。それに、責任を感じるのは分かるにしても…僕は血が出るような怪我も、痕が残るような痣もない。確かに怖かったけれど、男だしそんな傷の一つや二つ、気になんてしない。
「……今日はありがとう。じゃあ、また」
「ああ、うん、また─」
言い終わるのと同時に、志乃の顔が近づ気、ふわりと柔らかい唇が頬を掠めていった。
キス、だ。
その二文字はどうしても、僕のなかでまだうまく処理できない。できないけれど、それを理解する度にどくん、と心臓が大きく脈打つ。離れていった志乃は、ひどく悲しそうに目を細めて、僕に背を向けた。
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