去年は遥と二人、旧校舎で食べたお昼も、今年は遥の教室でみんなで食べた。降りだした弱い雨は、雨と言うより霧みたいな雨になっていて、残り少しのプログラムも予定通り進めるという旨の放送ががかかった。
「良かった〜ここで終わったら俺らの負けだし。あ、音羽携帯光ってる」
「あ、樹くんだ」
「え、なんでりんちゃんに?」
「遥が返さないからじゃないの」
「もー、だからってりんちゃんに送らないでって何回も言ってるんだけど」
「大橋なんて?」
「んー…体育祭は?って」
たった五文字のそのメールを読み上げると、遥はブスッとした表情のまま「樹の穴埋めで疲れたって返して」と溢した。樹くんが代行した実行委員は、また他のクラスメイトに任された。それは遥じゃなかったし何に出るかを決めたのは休みが明けてからだったから、穴埋めと言うほどではないのだけれど。これはきっと、寂しがっている、という解釈でいいだろう。
「電話してみて」
「出るかな」
高坂くんに携帯の画面をトントンと指で催促され、発信ボタンを押すとワンコールで「もしもし」と低い声が聞こえた。
「あ、でた」
「なに、出るだろ」
「ううん、出ないかなって…電話、大丈夫?」
「ああ」
なんだか久しぶりに聞く声だな、と嬉しくなりながら「雨降ってきたけど、少しだし最後までできそうだよ」と言うとスピーカーにしよう、と遥に携帯をさらわれてしまった。
「樹なにしてるの」
「なに、遥いんの?」
「そりゃいるでしょ」
「女子に集られてんのかと思った」
「なにそれ!」
「いや普通に思うだろ。俺は今店出てた」
ははっと短く笑った樹くんの声を囲むみたいに谷口くんも身を乗り出す。そのまま、元気してんの?と問うと「ぼちぼち」といつものトーンで返ってきた。
「お店、もう大丈夫なの?」
「んー、まあ、なんとか開けてる」
「なに、大橋んちって何屋?」
「花屋」
「花屋!?まじ?大橋がメルヘン売ってんの?」
「どういう意味だよ」
意外、と笑った谷口くんだけが知らなかったらしい。高坂くんは半年同じクラスだったしどこかで聞いていたようだった。そのあと少し他愛の言葉を交わし、じゃあ頑張れよと電話は切られた。最後に「文化祭は遊びに来てね」という文字と一緒にみんなで撮った写真を送信して。
「ちょっと寒いくらいになったな〜」
「終わったらすぐ着替えないとね」
テントの下ではジャージを羽織っていないと確かに寒い。僕はもう出るものがないからいいけれど、谷口くんや遥は選抜リレーが残っている。グラウンドは良い感じに柔らかくなっていて、けれどここを全速力で走るとなると転びそうだ。それを察した子と靴をそれ以上汚したくない何人かがが靴を脱ぎはじめていた。それぞれの団の点数はもう見えなくなっていて、最後種目であるリレーの召集がかかった。
「よっし、行ってくる」
「うん、頑張って」
それぞれの団で二チーム、計四チームでトラックを回る。一年生から順番に走っていくため、谷口くんと遥は列の後ろから二番目にいる。僅差でバトンを受け取ったら、二人が一緒に走るのかと気づき、そう言えば去年は二人は同じクラスで遥が走ったんだと、はっとした。じゃあ遥の方が早いかもしれない。どっちも応援したい気持ちで、トラックを囲んで応援する全校生徒の中に紛れた。
「位置について、よーい」
パン、と最後のピストルが鳴り響く。
白い煙が一瞬だけ宙を舞い、すぐに消えた。霧だった雨が僅かに形を作り始め、頬に当たる感覚があった。もう少し耐えてくれと、心の中で拝みながら見守ったリレーは抜いて抜かれて転んでがありすごくドキドキした。上手に振り分けられていたらしいそれは、転んだチームが遅れをとっているもののどこもまだ一位になれる可能性があるくらいの差だった。歓声が大きくなるのと比例するように雨足は強まっていて、遥たちがバトン受ける頃には結構な降り方になっていた。
「志乃くーん!頑張れー!」
「遥先輩〜」
「きゃー」
と、遥以外の走者には完全アウェイな中、遥が一番にバトンを受け取った。
「はる、」
金髪に白いハチマキ。長い手足がとても綺麗に動き、それを追う谷口くんがすぐ後ろに見える。僕は二人の名前を叫び、頑張れと続けた。バトンは順位を変えずそのままアンカーへと繋がる。柔らかかっただけの土が水分を含み、走る度泥が綺麗に飛ぶため、走った本人も応援していた側も白い体操着には泥のシミができていた。
「パーン!」
先にゴールテープを切ったのは僕らの団長だった。同時にゴールしたように見えたけれど、ほんの少しの差で一位を勝ち取ったらしい。再び一気に歓声があがり、けれど強まる雨に全員がゴールするとすぐにテントへ移動するよう指示が出た。しばらく待機するよう放送がかかり、閉会式はその雨が小雨になってから始まった。
ぐちゃぐちゃになったグラウンドにはたくさんの足跡がつき、すぐに他の靴で上書きされる。これは靴も洗わないといけないなと、自分の爪先を見下ろして思った。思いながら、それぞれの得点を読み上げる声にドキドキする胸を押さえ、きゅっと下唇を噛んだ。
「優勝、赤団!」
あ、と自分の口から漏れた声は周りの歓声にかき消され、隣にいた谷口くんが僕の肩を抱いた。雨に濡れた体操着が冷たくて、けれど体温は高い。僕はその熱気につられて何人かとハイタッチをして泥が跳ねるのも忘れて団長を胴上げする群れに混ざった。閉会式は雨というのもあり、たぶん例年よりずっと短い時間で済まされた。新しい生徒会の発表やこのあとの片付けのことは指示されないまま、速やかに校内へ戻るようにと校長先生が言い放った。けれど、その言いつけを守ったのは一、二年生だけで、僕ら三年生はドロドロになって写真撮影を楽しんだ。
「これ洗濯大変だよね」
「パンツもやばそう」
ゲラゲラ笑いながら、また雨が少し降ってきたところで強制的にグラウンドから退去させられるまで子供みたいにはしゃいだ。そのままのベタベタドロドロで入った昇降口は足跡だらけで、けれどここまで汚れると気にならないから不思議で。それでも、少し前をいく蜂蜜色の髪が泥に汚れているのは可哀想だなと思った。早く帰ってシャワーを浴びないとと言いたい気持ちとは裏腹に、体は疲弊していて自分が着替えるだけで精一杯だった。
「音羽今にも寝そうだな」
「うぅ、眠い…」
「疲れたもんなー、裸足で泥遊びとかな」
「うん」
「いつぶりって感じ」
パンツまで濡れていたから制服を着るのはやめて、汚れていないジャージに着替えた僕の横で、谷口くんも同じ格好になる。帰りのホームルームはなく、着替えた生徒から速やかに帰るよう教室を追い出されてしまった。僕はそこでやっと自分の携帯を開き、母さんが本当に見に来ていたことを知った。
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