「りんちゃん、もう明日から補習?」
「うん」
「俺もお手伝い」
「そっか、じゃあ…」
明日は会えないから次はいつ会えるだろうかと、遥の背後にあるカレンダーを見る。補習は土日にはないけれど遥はバイトだろう。約束を取り付けた日以外はいつが空いているとかそういう話はしていない。なんとなく、去年みたいになんだかんだ会える日が続くのかなと、漠然と思っている、というのもあって。会っている今、会いたいなと考えながらもそれを口には出来なくて。顔を見てその体温を感じている今はなんてことない…でもしばらくは顔を見ない日が続きそうだと思うとものすごく寂しいなと思った。
「りんちゃん頑張ってるって思って、俺も頑張る」
「…うん、僕も」
「へへ」
僕の好きな顔だ。へらりとだらしなく目尻を下げて口を緩めて笑う顔。まおも今ごろ給食かな、なんて話をしながら二人で昼食を済ませ片付けをしてから僕の部屋で少しだけ課題に手をつけることにした。本当の事を言えば、夏休みに入る前から手はつけていたのだけれど。今年はクラスが違うから課題すべてが同じ、という訳じゃないし、進路も違うからそれぞれの量も違う。だから二人で同じように進めることは出来ない。遥はもう一人でもきちんと課題をやるだろうし提出も忘れないだろう。だから一緒にやる必要はないのかもしれないけれど…変わらず僕を頼ってくれることは嬉しいし、会う口実にもなっている。
「遥、そこ、」
「えっ」
「使う公式…」
「あ、あー…、そっか」
「…うん、そう、で、」
「……こう?」
「正解」
「すごーい、俺数学一番苦手なのに!解けた〜こんなの絶対一生出来ないと思ってたのに」
勉強したての今だからこそ解けたんだと言われたとしても、遥は変わらずそれでも嬉しいと言うんだろう。僕も、遥がこの一年すごく頑張って勉強してきたことを知っているから、そんなことを言われたって気にしない。所詮進級する為、テストの為、将来役にたたないと言われても、だ。それよりも目に見える成長が、結果が嬉しいのは当然なんだから。
「へへ」
次の問題でもう躓きながらも、機嫌良く課題を進める遥を見つめ、やんわりと蜂蜜色の髪に手を伸ばす。見た目以上に柔らかい髪は初めて会った頃の面影を残しつつも全く別物で、整った顔が際立つ短さ。
「りん?」
指はするすると抵抗なく遥の頭を撫でた。
「えっ、なに、なになに、りんちゃん?」
「…あ、ごめん」
「えっ、いや、離さなくて良いよ!?」
無意識に撫でまわしていた手を離すと、遥は慌ててそれを捕まえて自分の頭に戻した。そんな行動まおでもしないよと笑うと、少しはにかんで「もう一回して」と、僕の手の甲を撫でた。
「はい」
差し出された頭を今度は両手で撫でまわすと、遥は褒められた犬みたいな顔をした。目を細めて嬉しそうに、得意気な。犬と触れあう経験が豊富な訳じゃないから言い切ってしまうのは失礼かもしれないけれど、それでも可愛いことに変わりはなくて。
「りんの手、好きだな〜」
「手?」
「うん、優しいし、温かいし」
「大きくはないけど」と悪戯に笑った遥にむっとして、両頬を思いきりつねる。ケラケラと笑う顔も可愛くて、そのまま伸びた唇に自分の唇を重ねた。不意をつかれたらしい遥は間抜けな顔で動きを止め、二秒ほど遅れて顔を赤くした。
「りっ」
「はい、じゃあ次の問題」
「それはずるい!」
もー、と盛大なため息を落とした遥はペンを置いて僕に抱きついてきた。キッチンでも思ったけれど、雨に濡れたせいかいつもよりその体温や匂いを強く感じる。とくとく、と、少し早い鼓動も。
「うー…」
「ふふ、なにその声」
「なんか、ダメかも」
「え?」
あ、と漏れた自分の声はぽーんと宙に投げ出され、くるんと目線は天井に移った。
「ご、ごめん、あの、」
熱い手が僕の手を握る。僅かに汗ばんだそれに、こっちまで緊張して変な汗が滲む気がした。
「ちゃんと、勉強もするし、りんちゃんにも無理、させない、から…」
ちょっとだけ触らせてと、遥は馬乗りになって少し強引にキスをした。何を今さら、と思ったもののそう言われて悪い気はしないし、遥の不器用な優しさみたいなものも伝わってきているから黙って背中に手をまわした。
「りん、」
「、ん?」
「なんか、今日やっぱり、ダメ、」
「何が?」
「頭、くらくらする」
「えっ、風邪─」
「ううん、違くて…なんて言うか、りんちゃんの…フェロモン?」
「ふぇ、え、なにそれ」
「分かんないけど、いつも以上に我慢できないの」
遥はそう言うともう恥ずかしいから喋らないと言うように深いキスを落とした。もしかしなくても、僕も遥と同じことを感じて思っていたんだろう。重なった体から伝わる全てが、とても愛しくてそれだけで胸が一杯で、それでも遥と繋がればそれは溢れて、こぼれて、それでもまだ足りなくなってしまう。
何度もキスをして、名前を呼んで、いつの間にか汗だくになりながら。
───…
「欲求不満かよ」
「えっ」
「その顔」
「僕今そんな顔してる?」
「んー、逆か?欲求満足?なんか、すげーエロい?顔」
「ええっ、やめてよ」
「いや、俺も見たくて見た訳じゃねーから」
「そうだよね、ごめん」と返すと、何故か学校に来ていた樹くんは僕のほっぺを軽くつまんだ。家を継ぐという進路が決まっている樹くんにとって、この夏休みは最後の長期休暇になるはず。それなのにどうして学校に、と聞くと「大人の事情」と曖昧な言葉が返ってきた。
「赤点補習じゃねえからな」
「思ってないよ」
「遥でもないんだもんな」
笑いながら、それでも本当に頑張ってるよなあと目を細めた樹くんは、僕が向かう教室の一歩手前で足を止めた。
「俺こっちだから」
目の前の階段をあがれば三年の教室があり、補習では一組と二組の教室を使うことになっている。けれどそこへは向かわず、樹くんがこっちと指差したのは向かいの校舎へ続く渡り廊下だった。
「そっか、じゃあ、」
「おう」
本当に、どうしてそんなところに用事があるのか…結局わからないまま遠ざかる背中を見送った。そのあと教室に行くと、何人かが着席していて特に席の指定はなさそうだったからすでに席についていた森嶋の隣に腰をおろした。
「おはよう」
「音羽、おはよ…あ」
「ん?」
「あ、ううん、顔色良いなって」
「え?そうかな」
「なんとなくね」
最近の自分の顔色や体調について気にしていなかったけれど、周りから指摘さるというのはそれだけ出ていた、ということだろう。テスト勉強と進路のことで余裕がなかった事を除いて、他に原因はないつもりだった。が、もう一つ…あるとしたらそれは、遥についてかもしれない。余裕がなくて疲れてる、と思われていたからかここ最近はあまり触れあうこともなかった。
昨日、本当に久しぶりに感じた遥の体温にそういう“欲求不満”みたいなストレスで蓄積されたものが払拭された気がしないでもない。森嶋はそれ以上何も言わなかったけれど、それでも僕は誰かに気にかけてもらえるってことに申し訳なさと嬉しさを感じていた。その数分後に先生が来て補習は滞りなく進んだ。お昼の休憩には予定通り一度家に帰り、二人でお弁当を食べてからプールに向かうまおを見送り学校に戻った。
始まった夏休みは想像していたよりハードで、それでも充実したものだった。一週間が経つ頃、やっぱり朝出くわす樹くんはやっと自分から「体育祭の実行委員なんだ」と溢した。
「えっ、そうだったの?知らなかった」
「夏休み前に実行委員だったやつが学校辞めて、何もやってない生徒であみだくじして担任に決められた」
「そうなんだ…それ、遥知ってるの?」
「言ってない」
「だよね…学校で会ったって言ったら、何でだろうねって首かしげてた」
そっか、実行委員か…夏休みにもやることがあるなんて知らなかったなと、そういえば特別教室などがある向こうの棟は、授業以外は主に委員会活動に使われている。
「…じゃあ、そのあみだくじ遥も入ってたのかな」
「……じゃねえの」
「もしかして、遥を避けるために樹くんが率先して…」
「なわけねーだろ。なんで俺が」
だから最初に会ったときすぐに言わなかったのかも、と思ったけれど呆れた声に笑い飛ばされてしまった。
「まあでも、さすがに遥に決まったからよろしくとか、言えないだろ。遥の事まだ怖がってるような担任だし」
どちらかと言えば遥より樹くんの方が今は怖い気がするけれど、それは飲み込んだ。怖い、というのはあくまで見た目の話だし、結果的に真面目に出ているわけだし、先生も適役だったと思ってくれれば良い。勝手にそう言い聞かせ、まだ暑くなりきらない廊下を進んだ。
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