「えー、くれぐれもはめを外さないように。三年生にとってはとても大事な時間です」
茹だるような暑さの体育館で、マイクを前にスーツをビシッと着込んだ校長先生が汗一つ流さないで言葉を紡ぐ。鳴き止まない蝉の声が館内に反響している気がするのは、この耐えがたい暑さとなかなか終わらない先生の話のせいだろう。
「ぜひ、有意義に、」
うんざりするほど長い挨拶も、ここまでくると子守唄のように思える。事実、この気絶しそうな暑さの中、船を漕いでいる生徒が何人か居る。明日から夏休みという実感はないけれど、それでもわくわくがないわけじゃない。遥は正式に、週に何度かお店を手伝う事に決めた。僕も平日はほとんど補習があるから出来る限り参加する。でも、谷口くんや高坂くん達と遊ぶ約束もした。去年とはまた全然違う夏休みだ。
じりじりと照り付けていた太陽が姿を隠したのは、先生の挨拶が終わって少し経ってからだった。それぞれの教室に戻って短いホームルームを終えて学校を出る頃になってゴロゴロと嫌な音が響きだしたのだ。
「雨降りそう?」
「だね」
むせかえるような湿気とその臭いに雨が降るのは時間の問題だと察し、僕と遥はいつもより少し早足で家路についた。今日は僕の家でお昼を食べて一緒に過ごすことになっていて、せめて家に着くまで降りださないで欲しいなとそんな願いを込めたけれどダメだった。自転車で通りすぎていく背中を見送りながら、ぽつりぽつりと落ちてきた水滴に気づいてしまった。
「やばい、降ってきた」
「遥、急ご」
「うん」
けれど雨足は急速に早くなり、数分しか雨には当たらなかったのに家につく頃には全身びしょ濡れにっていた。夕方までこの調子ならまおも迎えに行かないとなと思ったけれど、雨はすぐに止み晴れ間まで見えてきていた。
「鞄大丈夫?」
「うん、中身は大丈夫だと思う。どうしよう、俺一回帰ろうかな」
「大丈夫だよ、靴下と制服脱いで」
「えっ!」
「ジャージ、鞄の中入ってるでしょ」
「あ、うん、ジャージね…」
自分も玄関で靴下を脱ぎ、洗濯かごとタオルを持って再び遥のもとへ。半袖半ズボン姿の遥の頭にタオルを乗せて、乾かせるものだけ乾燥機にかけた。
「一瞬だったね」
「ね、寒くない?」
「うん、むしろ暑いくらい」
「クーラーつけよっか」
「あ、ううん、そこまでじゃないから俺は平気だよ」
確かに、室内は閉めきっていたからか、なかなか蒸し暑い。濡れて温度の下がった体でそう感じるのだから相当暑いのだろうが、この状態で冷えると風邪を引きそうだなとクーラーはつけないことにした。
「まおちゃんまだ学校?」
「うん、まおは明後日終業式」
まおも、夏休みは学校のプールに毎日行くと意気込んでいた。朝自分とまおの二人分のお弁当を作って、お昼は帰ってくることにした。補習の休み時間は一時間半あるし、それだけあれば帰ってお弁当を食べてまおを送り出してから学校に戻ることが可能だ。午前中は一人にさせてしまうけれど、宿題や工作をするから大丈夫だと胸を張られたから僕もそれ以上心配を口にすることは出来なかった。
「あ、遥がくれたそうめんしよっか」
「うん」
「でもいいの?こんなにもらっちゃって」
昨日、一度帰ったはずの遥がもう一度来て、いつも休みの日にご飯を食べさせてもらっているから、と野菜や食材を届けてくれた。確かに食費は多少かかっているかもしれないけれど、それにしても多すぎるくらいのものをもらってしまった。今までも何度かあったけれど、今回は一段と量が多かった。
「これじゃほとんどうちがただでごはん食べてるみたいなもんだよ」
「そんなことないから気にしないで」
「ありがとう。あ、でも、寒いかな」
「りんちゃん寒いの?」
「普通」
着替えを済ませても暑くはないし、やっぱり少し冷えているのだろう。そう思いながらそうめんの束を二つ掴む。それを邪魔するみたいに、ジャージに着替えた遥がキッチンに立つ僕に後ろから抱きついて、こうしてれば寒くないよと柔らかい声で呟いた。
「火使うから危ないよ」
「うん」
「はる─」
確かに遥の体は温かくて、心地良いくらいの温度だった。お鍋に水をいれて火をつけようとする僕を、やんわりと引き留めるみたいに腕に力が込められる。
「なに?どうしたの」
「んーん、りんちゃん寒いの我慢してるなら温めようかなって」
「ええ?ありがとう、でも大丈夫だよ」
「そ?」
「うん」
「でも、やっぱり手とか冷たいよ。ほっぺも」
大きな手が僕の手を甲から肘へ、そして肩を辿ってむにむにと頬を撫でる。若干怪しい触れ方だ、と思ったのと同時に遥が溢した言葉。それは予想外なもので、全然違うことを考えていた自分が恥ずかしくなった。
「無理しないでね…」
「、へ?」
「りんちゃんが元気ないと、俺全然寝れないの。最近ずっと疲れてるみたいだし、りんちゃんは明日からも学校行くけど、でもやっとお休み入ったんだから、ちゃんと休んで」
「いや、あの…僕は元気、だけど」
「元気でも疲れが顔に出てる」
「えっ、ほんと?」
「ほら〜やっぱり疲れてるんだあ」
「そうじゃなくて、」
「だからね、俺がやる」
「は?」
「そうめん。俺が茹でて、片付けもする。お皿洗いも」
「待って、そんなことしなくていいよ、ほら、僕の家だし。遥はお客さんだよ」
「お客さんじゃないもん。もちろん、お邪魔させてもらってる側だけど、でも…」
お客さんじゃないよともう一度、今度は小さな声で呟いた遥はぎゅっと音がするくらい僕を強く抱き締めた。ごはんを作るとか後片付けをするとか、言葉にしてしまえばただの“お手伝い”になってしまうけれど、遥がしたいのはそういうことじゃない。そういうことじゃないんだ、と理解した途端恥ずかしくなって、顔が一気にと熱くなった。
「りんちゃん?温かくなった?顔…えっ、あ…」
「み、見ないで」
後ろから顔を覗き込もうとする遥を押し退けるけれど、顔が赤くなったのはもうバレていてあっという間に体の向きごと変えられてしまった。
「ほんと、見ないで」
「なんで、俺、なんかダメなこと言った?」
「ちが、くて、…僕が恥ずかしいから」
簡単に両頬を捕らえられ、近づく顔を避けることは出来なかった。体を軽く持ち上げられシンクの角にお尻を乗せると、今度こそ遥の手は意図を持って僕の背中を撫でた。
「りん、」
「っ、ん」
同じ目線で、しっかり抱き抱えられて、むにむにと重なる唇に意識を集める。本当に心地良い温度で、顔は熱いし心臓もドキドキとうるさいけれど、それでも不思議と落ち着く。その唇の隙間から舌がちらつき、一瞬だけ僕の舌と触れた。ピリッと感じたその一瞬、すぐに遥は顔を離して僕を下ろした。
「遥、」
「お腹、すいたね」
「っ、う、ん…」
明らかに途中で止められた。
きっとあと一秒長く触れていたらもっといやらしいキスになっていただろう。僕もそれを覚悟して、たぶん期待もしていた。けれど離れてしまった体を引き寄せることは出来ないまま二人でそうめんを食べることにした。音羽家では夏以外でもそうめんが出るけれど、やっぱり夏が一番多いしこれを食べると夏だと感じる。それをおいしいねと微笑んで食べる遥にまたドキドキした。
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