「音羽、顔色悪くない?」と、僕の顔を覗き込んできた谷口くんにひゃっと変な声を出してしまった。
「え、そう?」
「んー、ちょっと」
そんなことないでしょと、目の前にある鏡の中の自分を見つめる。隣の谷口くんと比べれば、確かに多少青白くは見えるけれど、もともと谷口くんは色黒な方だし、比べるのもどうかなとすぐに目を逸らして手を洗った。
「全然平気だけど」
「なんだろ、不健康な顔色?」
「不健康な色…いつも通りだよ」
「まー元が色白だからな〜分かりにくいっちゃ分かりにくい、か」
「谷口くんが黒いんだよ」
「え、やっぱ?いつの間にこんなに日焼けしたんだろ。宏太と公園行くからかな」
何気なく呟かれたそれに、そうか宏太くんは年長さんだなと思い出す。まおと一つしか年の差はないのに、小学生と保育園児となるとひどく年の差を感じる。ほんの数ヵ月でまおはとても成長したし、それは嬉しい。けれどやっぱり、宏太が宏太がと楽しそうに話す谷口くんが羨ましく思えるのは、その成長が寂しいからだろう。なんて、僕だって端から見たらまおまおと言っているんだろう。自分でもそれは自覚しているからぐっと飲み込んだ。
「具合悪いなら保健室行けよ?」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「……いや、行こ、保健室」
「へっ、でも」
「音羽のこんな顔見たことないし、なんかすげー心配。ほら、行こう」
「谷口く…」
次の授業は数学だ。テストは終わったし、夏休み前ということもあり、おそらく授業は休みの課題配布とそ手をつける時間になるだろう。そんなことを考えながら、半ば強引に腕を引かれ流まま保健室に向かった。そしてつく頃には少し気分が悪くなっていた。
「失礼します」
「し、つれいします…」
「はーい、あれ、どうしたの、顔色悪いね」
ひょこりと顔を出したのは白衣を着た養護教諭の先生で、球技大会の時に少し言葉を交わした時のことがふっと蘇った。そのはりのある声に、谷口くんがやっぱり!と僕の顔を覗き込んだ。
「ですよね、ほら音羽、寝かせてもらえって」
「えっ、でも」
「先生ー、音羽自覚ないみたいですけど、ちょっと休ませてあげて」
「ください、をつけようね。まあ、でも…本当に顔色悪いし、隈も酷いね。熱は?一応はかろうか」
躊躇う僕に体温計を押し付ける先生を横目に、「谷口くんが先生には言っとくし、昼休みには迎えに来るから」と柔らかい声で囁いた。“お兄ちゃん”ってこんな感じなのかな、と呑気なことを考える僕は整えたベッドへ誘導され腰を下ろした。
「熱はー…ない、か。まあ、次休めばお昼休みだし、一時間だけゆっくりしてって。何かあったら声かけてね、わたしそっちにいるから」
「はい、すみません」
「じゃあ、またあとでな。迎えに来るからちゃんと待ってろよ〜」
小さく手を振り、谷口くんが出ていくとすぐにチャイムが鳴り響いた。これは間に合っていないなと申し訳なく思いながら横になると、不思議なことに眠気なんて全然感じていなかったのに瞼が重くなった。そのまま軽く目を閉じ、意識を手放したのはほんの数分後だった。
目を覚ましたのは見事に四限の終了を告げる音で、まだぼんやりする頭で、一瞬で寝て深い眠りにつけたのか…疲れていたんだなと他人事のように思った。バタバタと廊下に響く音に、意識は徐々にクリアになる。なんとなく、この昼休みの賑やかさに取り残されているような感覚が懐かしく思えたのは、この感覚が久しぶりだからだろう。ほんの一年くらいのことなのに、一人で過ごしていた昼休みが懐かしい。なんて。その時感じていたよりずっと、今はその時の自分が寂しく見える。そんな感覚に囚われ寝返りをうつと、勢い良く開かれたドアから「りん!」と僕を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、こら、静かに!」
「あ、ごめんなさい、あの、りんちゃんは?」
「音羽くんなら二つ目のベッド」
乱れた呼吸の音がカーテンの向こうから聞こえる。目を開けていたら驚くだろうか、と思ったものの目を閉じるより先にカーテンの隙間から遥が見えてしまった。
「りんちゃん…」
「……おはよう」
情けなく眉を下げた遥は声にもならなかったのか掠れた声で「大丈夫?」と問うてきた。昼休みに僕の教室へ行ったものの、ちょうど谷口くんが出ていくところだったから呼び止めたらしい。そうしたら僕が保健室で寝ている、なんて言うから慌てて来たんだと、と。何となく想像がつくし、迎えに来ると言っていた谷口くんが来なかったのは、遥のこの勢いに負けたからかもしれない。
「大丈夫だよ、ちょっと寝てただけ」
「ほんとに?」
「本当に」
「歩ける?教室まで行ける?」
「平気」
起き上がって上履きに足を押し込む。体調が悪いようには感じてなかったけれど、少しだけ体が軽くなった気がするのはやっぱり睡眠が足りていなかったからなんだろうか。
「顔色、少しは良くなったわね」
「あ、先生、ありがとうございました」
「いえいえ、我慢しないで来て良いんだからね」
滅多に来ない生徒というのはここまで歓迎されるものなのかと感心しながら保健室を出ると、谷口くんが中庭の自販機から小走りで駆け寄ってくるのが見えた。その腕にはスポーツドリンクが抱えられていて、額に滲んだ汗を拭いながらそれを僕へと差し出してくれた。
「ありがとう。教室戻ったらお金─」
「音羽くん、ここは素直に受け取りたまえ」
「でも、」
「良いから良いから。ほら、代わりに化学の宿題写させてもらうし」
「え?」
「今日当てられる予感がするんだよね〜」
遥の勢いに負けないで迎えに来てくれた上にジュースまで奢ってくれた谷口くんなりの照れ隠しを素直に受け止め、はいはいと返した。それから夏休みに入るまで、保健室で丸々一時間授業を休むということはしなかったけれど、お昼休みに少し横にさせてもらうことは何度かあった。その度に遥は捨てられた犬みたいな顔で付き添ってくれて、それはそれで申し訳ないんだけどなと思いつつも、不思議と安心して寝てしまっていた。
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