「はるちゃんくるかなー」
「どうだろうねー」
「チョコケーキやけちゃうよー」
「ね、もうちょっとだね」
「ねぇ、りんちゃん」
「なあに」
「今日は、好きな子にチョコあげるんでしょ?」
「そうだね」
「……」
「え、な、なに?」
「んー…」
オーブンにかじりつくように中を見つめていたまおは急に肩を落として唇を尖らせた。“好きな子にあげる”というところに引っかかっているんだろうか…だとしたら…いや、まさか…この可愛い可愛い口から「まお、○○くんにあげたい」なん言葉が…そんなことを考えたらショックでしばらく寝込む自信がある。可能性はゼロじゃない…いや、ダメなわけじゃない、こともない、けど…許したくはない。悶々とそんなことを巡らせた僕とまおの間に変な沈黙が流れ、僕はじっとまおを見つめるけれど返事はないまま。それを破ったのは焼き上がり目安にかけたタイマーの音だった。
「まお、焼けたよ」
「うん」
「ほら、上手にできてる」
「りんちゃん、まお、これ全部りんちゃんにあげる 」
「へ?どうしたの急に」
「……だってまお、りんちゃんのこと好きだもん」
「へ……」
「でもままもはるちゃんも好きだし、康太くんも好きだし…えらべないもん。だから一番好きなりんちゃんにあげる」
「まお…」
なにこれ…なんだこれは、この可愛い生き物は…天使すぎる。
他の誰かを好きだって言ったらどうしようなんてことを考えた自分が恥ずかしい。それを許せないなんて醜過ぎる…
「ありがとう、嬉しい」
思っていたよりずっと上手に焼きあがったケーキをテーブルに移動させてからまおを抱きしめ、「でもね、誰か一人じゃなきゃダメなんてことはないんだよ」と呟けば「それでもりんちゃんがいい」とさらに可愛いことを言われて脳みそが揺れた。
「ありがとう。じゃあ、まおからもらったケーキみんなで食べたいんだけど、わけてもいい?」
「うん!それはいいよ!!」
なんていい子に育ってくれたんだろう。そしてとにかく可愛い。でも保育園で他の男の子にも同じようなことを言ってないか心配してしまう僕は、やっぱり心がけがれている気がしてならなかった。それから三十分もしないうちに遥はやってきて、よれよれのブレザーと疲れ切った顔で「もうやだ」と言って玄関でしゃがみ込んでしまった。その手には谷口くんから受け取ったエコバックが確かにあるのに、中身は少ししかないように見える。と言うか、確実に昇降口で最後に見た時より減っているではないか。
「遥、貰ったチョコ、どうしたの」
「……」
「まさか、捨てた、とか…」
「す、捨ててないよ、置いてきただけ」
「おいてきたってどこに?」
「……生徒指導室?」
「……」
なんてことをするんだろう、この不良は。
いや、単純に没収されただけかもしれないけど。そこはあんまり追及してほしくなさそうな顔をしている彼に負けてフラフラの体をリビングまで引きずった。
「なんか…チョコの匂いする…」
「遥はいらないかあ、ガトーショコラ焼いたんだけど」
「え!?りんちゃんが?」
「まおと一緒に。あ、生チョコもあるけど…」
遥こそ匂いでお腹いっぱいだよな…そうだよなと勝手に頷くと、まおがさぞ残念そうに「はるちゃん食べないの?残念だねえ、りんちゃん」と僕を見上げた。決して嫌味でも当て付けでもなく、本心からいらないかなと思ったのは事実だ。
「遥学校でたくさんもらったっから─」
「た、食べる!食べたい!」
「でも今日はきついでしょ」
「ううん!りんちゃんがくれるならいつでも食べれるよ!!」
尻尾を大きく振って、大きな手で早く早くと催促するように触ってくる、そんな犬にしか見えない遥に目眩がした。可愛い。まおの天使発言には敵わないけど。それに匹敵するくらいと言って良いほどには可愛いと思ってしまった。
「じゃ、じゃあお茶いれるから、あっちで待ってて。まお、向こうのテーブルの上綺麗にしてくれる?」
「うん!」
「じゃあこれで拭いてきて」
「はーい」
「遥も。座ってて。疲れたでしょ」
「んーん、平気。疲れたけど、それよりりんちゃんといれる時間が少なくて寂しかったかなー。だからちょっとぎゅーってしてもいい?」
「え、今?」
「いまー」
ご機嫌でリビングのテーブルの上を軽く片し、布巾で丁寧に拭いてくれているまおを横目にくっついてきた遥はへらりと笑って僕の頭を撫でた。初めて遥を間近で見たとき…二年になってからだけど…恐ろしく整った顔をしているなと確かに思った。でも今はそれ以上に格好良い。贔屓目だと言われればそれまでかもしれないけど、それを差し引いても、だ。
極端な話、日に日にそれは増していいる。何度となく同じことを思ってきた気がするのは、つまり僕が日に日に遥を好きになっていると言うことなのかもしれない。少女マンガとかは読んだことがないけれど、恋をして綺麗になる、みたいなことはそういうことに疎い僕だって聞いたことがある。でも、実際遥がそうだとすると…自分がその原点にいるってことに、なるのかな。だとしたらすごいことじゃないか、たくさんの子が志乃遥に好意を抱いている、それを差し置いて自分が…
「りんちゃん、」
「あ、うん?ほら、持ってくから離れて」
「えー、もうちょっとー…」
「りんちゃーん、綺麗にしたよ!あ、はるちゃんずるい!まおもりんちゃんとくっつくー!」
「あわ、ちょ、危ないから、まお、落としちゃうよ?」
「だめ!!絶対だめー!」
じゃあ僕はどうなんだろう。変われているだろうか、いや、変わってない気がする。変わったことといえば眼鏡からコンタクトになったくらいで、それも、眼鏡を新調しようと言う話になれば元に戻ることで。本当に何もに変わっていない。それなのに遥はどうしてどんどん格好良くなっちゃうんだろう。と、真面目に考えてしまった。そんなことを口にしたら、「そんなことない」と遥は不思議そうに首を傾げて笑うのだろう。
「ホワイトデー、二人にお返しするね」
「いや、僕はいいよ」
「俺バレンタインってあんまり良くわかんなかったから何にも用意してなかったし…りんちゃんたちにもらえるとも思ってなかったし…だから、お返しはちゃんとする」
「いやほんとに、気にしなくていいから、ね」
「だって好きな人にあげるんでしょ?俺りんのこと大好きだもん」
「も、…分かったから、ケーキ食べよう」
「わーい」
「はるちゃんどーぞ!」
「ありがとう、いただきます」
遥は美味しい美味しいと何度も言いながら笑顔で僕とまおを交互に見て、割り当てた分を綺麗に平らげてくれた。こうして慌ただしかったバレンタインは幕を閉じたのだけれど、翌日とさらにその次の日まで遥はチョコレートの襲撃を受けていた。渡しそびれた子や受け取ってもらえなかった子が、諦めきれずに押し掛けてきたのだ。それについてはもうみんな苦笑いで、僕も仕方ないよねと笑って過ごすことができた。