「、るか、」

「…、」

「遥?どうかした?」

「あ、ううん、何でもない」

そろそろまおを迎えに行く時間だからと腰をあげようとした僕を捕まえて、しばらく抱き締めていた志乃はゆっくり体を解放してくれた。ぼんやりと何かを考えているようだったけれど、すぐにいつもの緩み切った表情に戻り、それ以上は聞けなかった。
気になるけど、思い詰めた様子はなく、穏やかな顔だ。あえて突っ込まなくていい、か。

「りんちゃん、明日…」

「明日?」

「明日、いつも通り、行っても良い?」

「うん、まおもね、明日から休みなんだ。だから明日は一緒にケーキ作ろうと思って」

遥も一緒に作ろうと誘えば、満面の笑みが返ってきた。

「りんちゃんブレザー」

「あ、ありが─」

「わわ、大丈夫?」

腰が、痛い。腰というか、お尻とか、もろもろ。いやまあ、仕方ないし、誰が悪いとかではないから文句も言わないけど。

「ごめん、辛かった?」

急に立ち上がったものの力の入らなかった体を支えてくれた志乃。ゆっくり僕を座らせブレザーを羽織らせてくれた。

「平気」

「無理、してない?」

「してない。言ったでしょ、痛いとか辛いばっかりじゃないって」

「りんちゃあん…」

泣かないでよ。
あんなに大事に大事に抱かれて、何度も好きだと囁かれて。幸せで涙が出そうなのは僕の方なのに。なんて、そんなことを考え始めると、最中の志乃が甦って直視できなくなるから嫌なんだけど。吸い付く肌とか、濡れた唇とか、優しく撫でる指先とか、そういうの全部がぶわりと甦るから。体の奥で燻る熱に気づいてしまうから。

「い、くね、そろそろ」

「待って待って俺も行くから」

「大丈夫だよ」

「無理、一緒に行く〜」

「ちょ、分かったから。一人で歩けるから離して」

「でも階段は危ないよ?」

おんぶしてあげると言う志乃を押し退け、なんとかまおのお迎えに向かった。

───…

「あ、樹さん。ちわっす」

「おー」

「今日から冬休みとか早いっすね」

「そうか?」

「俺らクリスマスまで普通に学校っすよ」

「ふーん」

じゃあ何でお前はここにいるんだよと、そんな野暮なことは言わないけれど。樹は見慣れたたまり場をぐるりと見渡して、寒さのせいで少し寂れたその空間に一つため息を落とした。

「……」

「あ、そういえば何日か前に志乃さん見かけたんすけど、相変わらず格好良かったっす」

格好良いのは見た目だけだ。中身は女々しくて寂しがりやで泣き虫で…いや、まあ凛太郎のことに関してはそれだけではない、けれど。

「でもほんと変わりましたよね。なんていうか、雰囲気?とか。丸くなったっというか柔らかくなったっというか。挨拶したかったんすけど、なんか逆に出来なくて」

いやそんなことはどうでも良い。樹は話しかけてきた、遥と同じような金髪頭の後輩を一瞥し、ふっと口元を緩めた。

「…樹さん?」

「俺も、もうここ来んのやめるわ」

「え、あ…えっ!?」

「あとちょっとで三年だし」

「え、突然なんすか、何かあったんすか」

「なんもねーよ」

「まさか、樹さんも身近な人になんかされたとかですか」

「そんなんじゃないって。ただなんとなく、そろそろかなって」

「まじっすか〜…樹さん居なくなったらここ寂しくなりますよね」

「変わんねえだろ」

事実、遥が色々とけじめをつけてからは静かなもんだし、喧嘩とかそういう類いのものもほぼ無くなった。つまり、結局のところここは本当にただの“たまり場”だ。特に何をするでもなく、ここに足を運べば見知った顔があり時間を潰すには最適なわけで。女子がファミレスで何時間も居座るのと大差はなく、勢力争いとかそんな大それたことも今や話にも上がらない。
それがつまらないわけではないのだけれど、今がこの場所を卒業する時期なのかもしれないと、樹は感じていた。

「潮時なんだよ、たぶん」

「……平和ボケっすか」

「そんなとこかもな。もう俺の力貸してほしいとかって連絡もないし、世代交代」

そんなに深くは考えていない。むしろ今その瞬間に思い立ったくらいの、けれど揺るがない樹の言葉。本当は遥があそこまでしてここを出ていった時からこういう日を待っていたのかもしれない。羨ましい、と思ったのかもしれない。
とにかく頭が悪くて、手がつけられないほど馬鹿なあの志乃遥が、大嫌いなはずの喧嘩で力でものを言わせてまで守りたいものが出来たことが。うじうじといつまでも一人伏せていたはずの遥が、一瞬で目を輝かせ、人生を変えるような人と出会えたことが。単純に、自分もそうやってこんな思春期の反抗をこじらせた場所から出ていきたいと思ったのかもしれない。
それを今素直に、“かもしれない”が“から”なんだと受け止められたから。胸にすとんと落ちてきて、軽くなったから。

「俺は遥とは違うから、静かにフェードアウトするわ」

「俺にそれ言ったら意味無くないですか」

「じゃあ忘れろ。俺は何も言ってないしお前も聞いてない。それでいいだろ、はいおしまい」

「ちょ、樹さん」

この場に一人でも、同じことを考え、そして静かに出ていったと思う。たまたま一人じゃなく、独り言で終わればよかったものを聞かれてしまった、それだけのことだ。

樹は赤い髪を揺らし、「ほら、忘れろ」と言って金髪頭の後輩の肩に軽いパンチを入れた。
遥と同じはちみつ色のそれは、きっとその人を真似ているのだろう。ここに足を運ぶ人間は金髪が多い。遥は男前で喧嘩が強い、男が憧れるだけのものは持っている、それは認める。
でも本当は泣き虫で寂しがりや。それを知らないこの後輩にそれを教えてやりたいが、信じないに決まっている。樹は一人そんなことを思ってもう一度口元を緩めた。

「じゃ、よいお年を〜」

「えっ、まじですか、ちょっと…」

「雪、また今夜から降るらしいから遅くならないうちに帰れよ。他の奴らにも言っとけ」

「……」

「あ、あと、」

「樹さんって、そういえばそんな感じでしたよね」

「は?」

「あ、いや、世話焼きというか…志乃さんの世話係みたいだったし。でも喧嘩も強くて頼りになる、みたいな」

「なんだそれ」

「褒めてるんすよ」

「はいはい」

もうここへはこないだろう。
あの遥がすっぱり、出ていったこの場所。ひとりぼっちになって、居場所もなく、いつの間にか出来ていたこの場所。今の遥に必要ないように、だんだんとここからは人が離れ、そして別の人がやって来る。そうやって移り変わって行くんだろう。遥みたいにちゃんと自分の居たい場所を見つけて、そこにいる、そうやって。

乾いた空気に、少し濡れる寒さ。もう今にも雪が降ってきそうだなと、樹は一瞬空を仰ぎ、すぐに歩き出した。

─ to be continue ..



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