「ふふ、鼻、まだちょっと赤いね」
「え、ほんと?」
「うん、可愛い」
ちゅっと、小さなリップ音を残して鼻先にキスを落とした志乃はそのまま僕の唇に柔らかく噛み付いた。悪戯っ子みたいに歯を見せて笑ったその顔があまりにも可愛くて、僕も同じように唇に軽く歯を当てた。
「いたい〜」と、重なった唇の隙間から溢れた声を飲み込み、遥、と呟く。その瞬間志乃の目が一気に色を変え、今度は本当に噛みつくようなキスをされた。
「はっ、ん…遥、」
「りんちゃん、脱がせてもいーい?」
そっか、そっか、そうだ…
修学旅行最後の夜、誘われたことだ。ここへ来る途中もちゃんと覚えてた。のに、それでも緊張してしまっていて、頷くのが精一杯だった。ぎこちなくネクタイに触れた志乃の手を手伝って自分のそれを取り去ると、今度は目の前の男前のネクタイも床に落ちた。
「うう〜」
「えっ、なに…どうしたの」
「胸痛い」
「ごめん、僕掴んでた?」
「ううん、心臓。ドキドキしすぎて」
それこそ、初めてのときと同じ。というか、こんなの…慣れそうにない、んだけど。それは志乃も同じ、ということで良いんだろう。
「りんちゃん、キスして」
「……」
「もっと〜緊張どっかいくくらい激しく」
「激しくって…そんなの無理」
なんて注文だと頬をつねってカーディガンのボタンを外す。あれ、僕結構男前なとこあるじゃん、なんて恥ずかしいことを考えながら。
「…りんちゃん」
「ん、?」
「俺、りんのお母さんには嫌われなかったけど、まおちゃんには嫌われたかな…」
何を突然。
手を止めて顔を覗き込むと、少し眉を下げながら「今は良くても、理解できるようになったら、嫌われるかな」と呟いた。それを今このタイミングで言うのかと、その言葉を飲み込んで「大丈夫だよ」と返した。
「大丈夫。それに、もしそうなっても樹くんの言ってた通り、今から気にしてたら滅入っちゃう」
「……うん」
「それに、それは僕も同じでしょ。お兄ちゃんありえないとか言われてもおかしくないし。遥のおじいちゃんやおばあちゃんにも。お父さんにだって、目の敵にされるかもしれない」
「それはない!そうなっても俺はりんちゃんのこと離さないし」
「うん、だから、大丈夫。ね、」
シャツを脱がせるのを諦め、広い背中を撫でた。自分にも言い聞かせるようにもう一度「大丈夫だよ」と小さく小さく呟いて、志乃の求める激しいキスではなくて触れ合うだけの柔らかいキスをした。
「りん、」
「うん」
背中に回された志乃の手がゆっくり僕のカーディガンを脱がし、くしゃりとシャツを握った。その音がやけに響き、キスをしながら薄目を開ける。
「あ、」
それを後悔したのはすぐ後で。
でももう遅くて、絡んでしまった視線を逸らすことが出来ないまま僕らは終始キスをしていた。
───…
いつもなら起きている時間だけどな、遥はそう思いながらも携帯で時間を確認し、家の前でどうしようかと一つため息を落とした。
修学旅行から帰ってきたのは昨夜。随分疲れていたみたいだし、まだ寝ているかもしれない。土曜日だから学校も保育園も休みだし。それをインターホンや電話の音で起こしてしまうなんて出来ない。ここで待っていてもいいけど、近所の人に通報されたら自分だけじゃなくて凛太郎も困るだろう。それに寒さに耐えられそうにない。やっぱり一旦帰ろうかと一歩下がったところで目の前のドアが開き、凛太郎によく似た可愛らしい顔が現れた。
「あれ、はるちゃん」
「あ、おはようございます。朝早くからすみません」
「おはよう。りんちゃんまだ寝てるけど、上がって待ってて」
「あ、いえ、俺一回帰ります」
「寒いでしょ、ほら、上がって上がって」
「でも…すみません、お邪魔します」
「おばさんこれから仕事だから、中から鍵閉めちゃっていいからね」
「はい」
正直、昨日の今日で…とは思いつつも、凛太郎の母親があまりにも普通で、遥は目を丸くした。
「あ、まおはいつも通り起きてくるかもしれないけど、りんちゃん起こしにいかないように声かけてあげて。良く寝てるみたいだから」
「分かりました」
「じゃあ、行ってきます」
「あ、あの」
「ん?」
「昨日の話…」
「りんちゃんと、付き合ってる話?」
「はい。あの、」
「ダメ」
「へ、」
「おばさんは昨日の話で納得したんだから、それ以上の言葉は無しだよ」
にこりと笑った顔が凛太郎によく似ていて、遥はぐっと息をのんだ。
「おばさんはりんちゃんの味方だから。でも、だから、りんちゃんのこと傷つけたらきっとはるちゃんのこと許せない」
「それは、無いです」
「うん、だから良いの。りんちゃんが幸せなのが一番だから」
「……大事にします」
「うん、よろしくね。おばさんも息子が一人増えた気分だから」
罵倒されても仕方がないと思っていた。きっと自分の父親なら立ち直れないくらいの言葉で罵倒するに違いない。それが自分の子供の為だという人も居るし、その方が正しいのかもしれない。けれど自分の父親はそういう理由ではなく、ただただ憎くてたまらない相手を苦しめる為だけに怒鳴り散らかすはずだ。周囲からの視線、世間体、諸々を含めて。もしくは、全く関係ないと言って、本当に一生顔を見ることも声を聞くこともなくなるかの、どちらかではないだろうか。
「じゃあ、行ってきます」
「行って、らっしゃい」
だから驚いた。驚いて、そして涙が出るほど嬉しかった。そして羨ましかったんだと思う。そこまで愛されてきた凛太郎が。自分も同じくらい凛太郎を大事にしたいし、そんな相手に大事にされればこれ以上ない幸せで。それが胸に落ちてきて、涙が出た。ああ、これが、と。
「おはようりんちゃん」
だから、自分の心からその感情が滲み出して、まおのことを不安にさせてしまったのかもしれない。なんとなくそれが分かり、本当はもっとはっきり“お兄ちゃん”はとらないから“凛太郎”は欲しいと、伝えたかったのだ。でもそれは酷な話で、それでもことばにしたかった。
あの日声をかけてくれて絆創膏をくれただけの相手が。こんなにも愛しい人になるなんて。泣けてしまうほどに、幸せだと思ったのだ。
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