「ごめんね、もう部屋入るところだったのに」
「なに、話って」
「あ、えっと…」
「早く戻りたいんだけど」
柔らかそうな髪が揺れ、綺麗な形の目が遥を見上げた。困ったようにはにかみ、あのねと、可愛らしい声が響く。部屋の前を離れ、エレベーターのある少し開けた場所で、女の子は柔らかく、言葉を続ける。
「志乃くん、付き合ってる人、いるんだよね」
「うん」
「やっぱり、そうなんだ…」
悲しそうな顔に、遥は一つため息を漏らした。それにぴくりを肩を揺らし、けれどめげずに「それでも、言いたいことがあって」と発言する度胸は認めざるをえない。
「志乃くんのこと、好きなの。…それで、仲良くなれたらな、って」
可愛い、んだろう。表情も、仕草も。
「連絡先、とか─」
「俺、付き合ってる人いるんだよ」
「ごめん、知ってるけど…でも、それだけで諦められないよ。わたしも好きだから、志乃くんのこと」
「俺は好きじゃない」
「、そうだよね、知らないもんね…でも、だから知って欲しいな。ほら、メールとか電話とか…遊びに行ったり、もちろん、何人かでもいい。カラオケとか、遊園地とか…ご飯とか」
「興味ない」
ぴん、と空気が張りつめた。本来ならもっと、ドキドキする、という意味で空気が固くなる場面なのに。それは分かっていても、どうにもそうなりそうにはない。そんな空気の中で「…どんな人?志乃くんの、彼女」と、僅かに震えた声が落とされた。
「……優しくて、俺のこと大事にしてくれる人」
「そ、っか」
「もういい?」
「あ、うん。ごめんね、時間とらせて」
遥が一歩彼女から離れると、やっぱりもう少し話したいと、細い腕が遥のカーディガンを掴んだ。
「あの…友達…にも、なれなくていい。その…そういう関係、はどうかな」
「は?」
「年上、なんだよね、付き合ってる人。だったらほら、会えない時間とか…相手も、何してるか分からないじゃん。だから、都合のいい女でもいいから、志乃くんの近くに─」
「俺、頭悪いけど…」
「…志乃くん?」
「そういう汚いことはしない。しないし、相手もしないよ、絶対」
もう行くからと、今度こそ背を向けて遥は歩き出した。あれ、部屋何号室だったっけなと、早く凛太郎に会いたいと、そう思いながら…
「っ、」
「……び、っくりした…」
「あ、はは。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」
「…いいよ、別に」
通路にでてすぐ、自販機のコーナーのところで壁に向かって突っ立っていた谷口。話は全部聞こえていた、と隠し事の出来ないらしい顔が物語っていて。遥は若干の気まずさを抱きつつも、隣の部屋だったしついていこうかなと呑気なことを思った。
「……あげる。ミルクティーでよければ。盗み聞きしちゃったお詫び、的な?」
「…ありがとう」
「志乃ってさ、どっちが本当なの」
「え?」
「いや、今の態度、音羽といるときと全然違うなって…ま、そうだよな。好きなやつの前とは違うよな」
「そうだね」
「認めんのな。まあ見てりゃ分かるけど」
「なに、谷口くんりんのこと好きなの?」
「まあ、そうだな、人として好きだな」
パタリと、足を止めた遥につられて谷口も足を止めた。
「音羽、周りよく見てるし、気も遣えるし、優しいし。関わらなかったから今まで気付かなかったけど、本当に良いやつだと思うし。もっと早く仲良くなっときゃ良かったとも思うし」
「……」
「家の事とかちゃんとしてたり妹のことすげー大事にしてたり、あと俺音羽の口から悪口とか愚痴とか聞いたことないし、そういうところ良いなって…睨むなよ。人として好きなだけだからな」
「…そういうの、俺だけが知ってればよかったのに」
「え?」
「って思ってたけど、ちょっと嬉しい。かも」
自分だけが凛太郎のことを知っていれば良い。それは変わらないのだけれど、自分の大好きで大好きでたまらない人を肯定されるのは嬉しい。好きになったと言われるのは嫌だけど、いい子だよねと言われればそうでしょと自慢したくなる。そんな感覚。
「ま、頑張れよ。てか、今音羽一人で待ってんじゃないの?」
「うん」
「じゃあ戻ったらちゃんと報告しろよ」
「何を?」
「告白されたけどふったよって」
「必要なの?」
「別に必要かどうかはそれぞれだろうけど。でも逆の立場だったらちゃんと相手から聞きたくない?自分からどうこう聞きにくいし」
「…そっか」
確かにりんちゃんは根掘り葉掘り聞いてこなさそうだなと、簡単に想像が出来て遥は小さく口元を緩めた。そのまま谷口と部屋に向かい、それぞれのドアの前で別れた。
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