今日が最後の夜。
明日の夕方には家に帰る。あっという間だった。
「じゃーまた明日」
「うん、おやすみ」
「おやすみー」
隣の部屋に姿を消した谷口くんと高坂くんを見届けてから、僕と志乃もドアに手をかけた。その瞬間、「志乃くん」とか細い声が聞こえてカードキーを入れる手が止まった。
「ごめんね、ちょっと話したいんだけど、今いいかな」
ぱたぱたと小走りで近づいてきたその子は、僕らの学校の制服を身に纏った、けれど見慣れない顔だった。他のクラスの子だろう、志乃も誰か分からないという顔をしている。
「あ、じゃあカード渡しとくね」
停止していた手に力を込め、ぐっカードを押し込むとピッと軽い音がした。そのままドアを開け、カードキーを志乃に差し出すと「は?」みたいな目で軽く睨まれてしまった。あ、こういう顔不良っぽい、なんて呑気なことを思ったけど、僕だって心は穏やかじゃない。
「僕、居ない方が良いんじゃない」
「え、なんで?じゃあ俺も話さないし」
「志乃」
「ごめんね、少しでいいんだけど…」
「行ってきなよ」
華奢な体に、柔らかそうな長い髪。大きな目に、艶やかな唇。ほんのり顔を赤くして、これが告白以外のなんだというのだ。僕が空気を読んだことに、女の子も若干安心したように息を漏らした。
「ね、僕まおに電話してるから」
「あ、りんちゃ…」
「開けられなかったらピンポン押して」
パタンと、閉じたドアの向こうで志乃はどんな顔をしているんだろうか。嫌だな、こういうの。
この三日間は僕だけでなく何人かとずっと一緒にいたから、女の子も声をかけずらかったんだろう。想像していたよりずっと志乃は呼び止められていない。
「……」
ああ、本当に嫌だ。
何が嫌とかではなく、モヤモヤと嫌なことを考えてしまう自分が。僕はそれを誤魔化すように母さんの番号を出し、きっとまおが出てくれるだろうと期待しながら接続音を聞いた。
「もしもし、りんちゃん?」
「あ、母さん?」
「うん。まおねーりんちゃんからの電話待ってるって言ってたんだけど寝ちゃって…起こそうか?」
「ううん、寝てるならそのままでいいよ」
「でも、明日の朝駄々こねそう」
「あはは、そうだね。でも明日には帰るし、そう言っておいて」
「りょーかい。りんちゃんもしっかり寝て、元気に帰ってきてね」
「うん。お土産たくさん買ったから、楽しみにしてて」
「ありがとう。ままも早くりんちゃんに会いたいな〜」
いっぱい話聞かせてね、りんちゃんがいなかった間のまおの話もするからと、母さんは相変わらずの明るい声で続けた。僕が居ない間は、きっと仕事をセーブしているんだろう。でも僕がそれを気にすることを、母さんは嫌がりそうで。そりゃそうか、そんなことを言ったら「りんちゃんにたくさん頼っててごめんね」と、本当に申し訳なさそうに眉を下げられそうだ。でも僕はそれを嫌だとか面倒だとか思ったことはないし、重いとも感じない。僕はまおの事も家の事も好きでやっているんだから。
「はるちゃんも元気?楽しんでる?」
「うん、元気だよ。楽しそうにしてる」
「はるちゃんにも会いたいから、また連れてきてね」
「うん」
志乃、戻ってくるかな。戻ってくるよね。
早く来ないかなと、人の気配のないドアを振り返ったけれど、気配がないんだからその扉が開くはずもなく。
不意に“応援するし”と言ってくれた谷口くんの声が頭を過り、そうだ、僕は母さんに隠しているんだと気づいた。もちろん簡単に言えないことだし、言って、僕だけじゃなく志乃まで否定されたらもう元には戻れないのではという不安もある。だけど、ちゃんと言うべきなんだろうか。母さんは認めてくれるんだろうか。
「…母さん」
「なあに?」
あのね、話したいことがあるんだ。たった一言、それを口にするのに時間がかかった。母さんは不安そうに、「どうしたの?何かあったの?」と、酷く優しい声で問うた。
「ううん、大事なことをね、言いたいだけ」
「分かった。明日、帰ってきたら聞くね」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
言おう。
僕らの為にたくさんのことをしてくれる母さんに、いつまでも黙ってはいられない。何より、谷口くんが認めてくれたのが大きい。そういう人がいるんだからと、背中を押された気がしたのかもしれない。たとえそれを後から「谷口くんのせいで…」と言い訳にしてみても、彼の言葉に何かが軽くなったのは事実だから。
「……」
通話の終了した携帯をテーブルに置き、先にお風呂に入ろうと着替えを手に浴室へ入った。
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