「その怪我、何かあったの…?」

「んーん、何もないよ」

「いや、さすがにそれは」

誤魔化せないよ、その言葉を飲み込むようにココアを一口含む。

「……ちょっと、転んで」

子供の言い訳じゃないんだから…もしかして、まおが居るから言いづらいのだろうか…そう気づいて、テレビのスイッチを入れた。ちょうど、教育テレビでアニメが始める時間で、まおはきゃっきゃと喜んでテレビに近寄り、完全に僕らに背を向けた。

「志乃」

「……囲まれたから」

言いたくなさそうに、けれど手当をしてもらったのに黙っているのも悪いと思ったんだろう。志乃はふいっと目を逸らしながらも、そう呟いた。

「それでいきなりバットで、殴りかかられて…痛いのは嫌だから…」

やり返した。でも相手の人数が多すぎて、結構やられてしまった。それだけ言うと、志乃はこれ以上は言わないという様に、ココアを啜った。こういう傷だらけの姿を見せられると、確かに不良だ。不良っぽい。もしかしたら今日赤髪の子に連れ去られたことも関係しているのかもしれない。やっぱりそれも不良っぽい。

「…音羽、」

「、ん?」

「……い、で」

「ごめん、なに?」

しょぼん、という効果音が似合いそうなほど眉を下げた志乃は、静かに僕に手を伸ばし、そっと顔を寄せてきた。そのまま肩口にぐりぐりと額を押し付けて、もう一度小さく声を零した。

「嫌いにならないで」

えっ、と思う間もなく体は離され、代わりに不安そうな志乃の顔が見えた。じっと僕を見つめる瞳は、とても綺麗な深い茶色で。

「えっと…別に、嫌いになんて…」

確かに喧嘩は嫌いだけど、喧嘩してきた志乃を嫌いになるのかと問われれば答えはノーなわけで。まあだからといって、はいどうぞとは言えないのは確かだ。ただ、そもそもそんな束縛まがいなことを言えるほどの仲ではないというのが一番大きい。友人と呼べるかさえあやふやなのに…

「りん、」

勝手にいろいろ考えていて、それをすべて遮るように志乃はそう呟いた。

「っ、へ」

「俺も、りんって呼んで、いい?」

「え?あ、うん…いい、けど……」

ああ、また。
志乃は子供の様に頬をほころばせて、へらりと笑った。僕はたぶん、この顔に弱い。もちろん志乃がイケメンだからっていうのはあるけれど、それよりなによりこういう優しくて柔らかい顔が好きなのだろう…屈託なく笑うことものような。そんな顔をされては母性本能をくすぐられる。母性という表現が正しい可動かは置いておいて。

「りん」
妹と、母親。それから他に数人しか、そう呼ぶ人はいない。友達がほとんどいない所為もあるけれど、基本的に下の名前で呼ばれることは少ないから。言ってしまえば“凜太郎”と呼ばれたことなど皆無に等しい。呼び出しと何かの式、それから先生に呼ばれるときくらい。そんな事務的な呼ばれ方しか、されたことはない。
なんだかその呼ばれ方に恥ずかしくなってしまい、僕は腰を上げてお風呂場に向かった。そこで志乃の汚れたシャツを洗い、何となく綺麗にはなっただろうというところで洗濯機へ放り込み、二人の待つリビングへ戻った。
そのあとは志乃に強引に隣に座らされ、何故かやたらとくっついたまま、残りのココアを飲むことになってしまった。

「りんちゃん、今日はマカロニグラタンでしょーまだー?」

「え?もうそんな時間?」

アニメが終わったテレビ画面の右端に表示されているのは「17:35」の数字。音羽家ではそろそろ夕食の準備が始まる時間だ。

「ほんとだね。あ…志乃、食べてく?」

「え?」

「今日はね、マカロニグラタンなんだよ、はるちゃんも食べてく?」

「あー…今日は、帰るよ」

志乃はそう言って腰を上げると、サイズの合っていない僕のTシャツの上にブレザーを羽織った。

「また今度、お邪魔してもいーい?」

「はるちゃん帰るの?また来てね、りんちゃんのご飯食べに来てね」

「うん、ありがとう」

まだ洗濯機の中にあるシャツはどうしようかと問えば、明日学校でと言われてしまい、エプロンの紐を結びながらとりあえず玄関まで志乃を追った。

「今日はありがとう」

「いや、僕は何も…」

「んーん、ありがと」

本当に嬉しそうな顔をした彼は、そのまま僕を抱き寄せた。そんな僕の後ろにいたまおが、ずるーいと言って僕の腰元に両手を回して、二人にサンドされる形になる。

「し、志乃…」

「また明日ね、りん」

そんな甘い囁きのあと、頬にふにっと柔らかな感触が残された。それが志乃の唇だったと気づいたのは、バイバイと言って手を振る彼が見えなくなる頃だった。

「りんちゃーん?お顔真っ赤だよー」

もしかして志乃には、外国の血でも混ざっているのかもしれない。そう、だから挨拶でキスなんて…キ、ス、なんて。頬にひとつ、それだけ。それだけなのに。

上がった体温は、しばらく下がってはくれなかった。



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